第52話 北伏見稲荷の夜

「来てくれたのね」


「ああ」


「座らないの?」


「いや。俺はさ。安西にちゃんと言ってなかったよな。だからここでちゃんと言う」


安西は目を閉じてうつむいている。正直つらい。こんなことを安西に言うのはつらい。でも今の俺は安西よりも七海ちゃんの方が大切だ。だから言うんだ。


「俺は……」


「だめっ!……それ以上は言わないで……。お願い。分かってるから……分かってるから……!言葉にされたら私……お願い……」


俺の胸で安西は涙を流している。離れなきゃ。安西と離れなきゃ!!


「安西、俺はな。正直、お前をスペアのように思っていたのかも知れない。七海となにかあったら安西に逃げればいいやって思っていたのかも知れない。安西が待っていてくれるという言葉に甘えていたのかも知れない。でもな、安西。俺は……」


「私、スペアでもいい。それでもいいから。道彦が泣いたら私も泣く。笑えば私も笑う。だから、手の届かないところに行かないで。お願いだから行かないで」


「俺は……」


離れなきゃ。


「道彦……」


離れなきゃ。

離れなきゃ。


ヴーヴーヴーヴー


スマホが震える。


七海『北伏見稲荷で待ってます』


「済まないな。安西。俺、行かなきゃ」


肩を掴んで安西を離す。そのまま部屋を出て駆け出す。


「七海……!」


大晦日の北伏見稲荷は混雑がひどい。急いで七海ちゃんにどこにいるのかメッセージを送ってみたが返事がない。


「どこだ…七海…!」


そんな思いも虚しく、時間ばかりが過ぎてゆく。縁日の明かりや楽しそうなカップルの笑顔が俺の横を通り過ぎてゆく。


「先輩!」


喧騒の外から七海ちゃんの声がした。


「七海!」


「お久しぶりです。って言っても一週間ぶりくらいですね」


「ああ。でもこんなに会わなかったのは初めてだ」


そうだ。俺と七海はいつも一緒にいたじゃないか。大丈夫だ。俺は大丈夫なんだ。


「そうかもですね。先輩。来てくれてありがとうございます」


「七海も連絡をくれてありがとう」


「私ね。本当につらかったんです。本当に。この一週間、本当につらかったんです。でも、今日、先輩を見てそれもなくなりました」


よかった。七海は遠くに行っていなかった。まだやり直せるところにいてくれたんだ。


「七海……」


ゆっくりと七海ちゃんに歩を進める。優しく微笑む七海ちゃんのほうへ。そして手を伸ばせば届くところまで来た。


「先輩」


「七海」


俺は七海ちゃんに手を伸ばす。それを両手で優しく包む七海ちゃん。俺はその手を引き寄せてそっと抱きしめた。


「ごめんな。七海。俺は七海が好きなんだ。だからこれからも一緒にいてくれ」


「先輩……」


七海ちゃんも俺を抱きしめてくれた。七海ちゃんの頭を優しく撫でて、それに応えて七海ちゃんは俺の胸に顔を沈めてきた。本当によかった。間に合った。


「そうだ。七海、誕生日、おめでとう」


「うん……その言葉、貰えないんじゃないかって思ってた」


「そんなことないさ。来年も再来年もその先も言ってやるさ」


七海ちゃんがさっきよりも強く強く抱きしめてきた。


「先輩、ありがとうございます。大好きです。そして……さようなら」


「え?」


七海ちゃんは今「さようなら」と言ったのか?なんで?


「今、なんて……?」


「さようならです!先輩!」


俺の胸に埋めた顔と身体を一歩引いて話してから笑顔で、そして泣きながら七海ちゃんはそう言った。


「なんでそんなこと……」


「分からないんですか?本当に分からないんですか?」


「七海?」


「先輩、今日、さっきまでなにをしていたんですか?」


「家に……」


「家、ですか?」


「!!」


まさか。


「あれは……白黒つけてきたんだ。安西と白黒つけてきたんだ」


「私、安西先輩のことなんて一言も言ってませんよ?先輩、安西先輩のところに行っていたんですね。安西先輩に慰めて貰ったんですか?」


どうしてそんなことを言うんだ。


「ちがう!そういうことはしてない!」


「家に行ったのは否定しないんですね」


「きちんと話をつけてきたんだ。信じてくれ」


「この状況をどうやって信じれば良いんですか?私はどうすれば良いんですか?だって、今日は私の誕生日だったんですよ?なのに……なのに先輩、連絡もくれなかったじゃないですか!!私……心配で先輩の家に行ったんです。そしたら……」


やはり見ていたのか。なんて説明すれば納得してくれるんだ。


「七海……」


「触らないですください!その手でこれ以上私に触らないで下さい!白黒つけてきたとか言っても、どうせ抱き合ったりしてたんでしょ!?そんな手で私を触らないでくださいよぉ……」


七海ちゃんはその場に泣き崩れた。この光景を見るのは2回目だ。


「七海、俺は七海にどうすれば信じてもらえるんだ?何でもするから答えてくれ。俺は七海と一緒にいたいんだ」


無理難題を七海ちゃんに押し付けているのは分かっている。でも今の俺にはその方法が分からないのだ。自分の恋人を納得させる方法すら思いつかないのだ。


「七海ちゃん。来たわよ」


後ろから声がしたと思って振り返るとそこには安西がいた。


「安西?なんでこんなところに??」


「呼ばれたの。七海ちゃんに」


泣き崩れた七海ちゃんは立ち上がって涙を拭く。そして大きく深呼吸をしてこう言った。


「先輩。選んでください。あと、安西先輩。正直な安西先輩を見せて下さい」


これは、本気の二人の中から選ぶということなのだろうか。でも安西はさっき……。


「分かった。七海ちゃん。それじゃ、私からでいい?」


「はい」


安西は俺の方に向き直してゆっくりと口を開いた。


「道彦。私ね。道彦は七海ちゃんを選ぶべきだと思うの。でもね、私の気持ちも知っていて欲しいの。私は道彦が好き。大好き。あの時買ってもらったものは全部宝物だし、とてもとても大事なもの。あとね。これは内緒にしておくつもりだったんだけど、ずっと前から道彦のことが好きだったの。だから教科書、道彦に見せてもらったの。教科書持っていたのにね。だから、お試しでも道彦とを一度でも恋人になれたのはすごく嬉しかった。あの時なんであんなこと言っちゃったんだろうな」


安西は涙を浮かべながら話す。


「だから。私は七海ちゃんに負けたくない。道彦のことを独り占めしたい。スペアでもいいなんて言ったけど、私を一番に見て欲しい。もし、この場で七海ちゃんを選んで振られたとしても私は道彦を待っているから。私が受け止めてあげるから。私が道彦の一番になるから。ね?道彦。私は道彦が好き。一緒にいたい。今も、これからも。私から言えるのはこれだけ。後は道彦がどうするか、かな」


安西はそう言って七海ちゃんの方を見る。


「先輩。先輩は私のこと、なんで好きになったんですか?守りたいから?私、守られていたのでしょうか?守ってくれていたのでしょうか?それに守るってどういうことなのでしょうか?私はこの思いが心の中から出ていってくれないんです。先輩が私のことを好きでいてくれている実感が持てないんです。だから。先輩から私を好きになった理由をちゃんと聞きたいですし、私が先輩を好きになった理由も知ってほしいです」


俺が七海ちゃんを好きになった理由。


「それにね。先輩ってあの時……私を抱いた時、どんな気持ちだったんですか?私は不安でいっぱいでした。このあとも、先輩は私のことを見てくれるんだろうか。安西先輩に誘われても断ってくれるんだろうか。そんなことを考えちゃいました。だって、その時ですら先輩、私のこと"好き"って言ってくれてなかったじゃないですか。私とても不安で」


その言葉を聞いた時、安西が悲しそうな顔をしたのが視界に入ってきてしまった。心の一部に安西が入り込んでしまった。


「先輩。だから言葉だけじゃなくて態度で示して下さい」


七海ちゃんはそう言って俺の方に歩を進めてそっと抱きしめてきた。


「安西先輩、いいんですか?」


七海ちゃんは安西の方を向いて確認を取るように話しかけている。それを聞いた安西も歩を進めて俺を後ろからそっと抱きしめてきた。


「よくない。私は道彦が好き。七海ちゃんには取られたくない。もう身体は取られちゃったみたいだけど、私は道彦の心を取りたい。私のものにしたい。私の方を見てもらいたい」


安西の腕に力が入って背中に安西の温度を感じる。


「先輩。どうですか。今、先輩は二人の女性に愛されてます。でも選べるのは片方です。でも正直なところ、私は先輩のことを信じることが出来ていません。私が先輩を好きになった理由は羨ましかったからです。いつもみんなと楽しそうにする先輩。そんな先輩と私、一緒に入れたらきっと幸せだろうなって。実際に一緒にいてとても幸せだった。でも不安だった。今も不安です」


「俺は……」


「もうちょっとだけ。安西先輩。さっき、先輩は私のことを選ぶべき、なんて言ってましたけど、今もそう思ってますか?」


「ううん。やっぱりダメ。道彦には私を選んで欲しい。私は道彦のあかねになりたい。もう偽らない。自分をごまかさない。七海ちゃんには負けたくない!」


心の間。俺はどうしたらいいのか。俺はここに何をしに来たのか。七海ちゃんを追ってきたんじゃないのか?それがそうしてこんな事になっている?俺が七海ちゃんを好きになった理由。それはなんだ?顔?性格?守ってあげたいとか?守るってなにから?安西を最初好きになったのはなんでだ?楽しかたから?初めて遊びに行った女の子だから?分からない。自分のことなのに明確な言葉が出てこない。「好きだよ」この言葉の重みを理解していない気がする。彼女達の「好き」には沢山の思いが詰まってる気がする。俺の「好き」にそれはあるのか?


「先輩」


七海ちゃんが顔をあげた。

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