第2話 安西あかね

「あ、傘」


マンションの1階まで来て、昨日の傘のことを思い出した。面倒くさいけど取りに戻るか。


「ふっざけんなよ。なんで母さん居ねぇんだよ!!」


玄関前で鍵の閉まった扉を目にして困り果てていたら、歩いてじゃ登校時間に間に合いそうにない時刻になっていて走ることになってしまった。なんとか間に合ったけど、久しぶりに走って胸は痛いし足もだるいし、何より水たまりに足を突っ込んで濡れた靴下が不快極まりない。


「だから雨は嫌いなんだよ」


「ん?なにか言ったか?えーと……」


「桐生」


「ああ、桐生」


「なんでもねぇよ」


昨日の今日だろ。名前くらい覚えろよ失礼なやつだな。ホームルームでは昨日の強制部活入部についての追加説明があった。来月の15日までに入部/創部用紙を出すように、とのことだった。


頬杖をついて校庭を見ていたら、一人の女の子が走って登校してきている。この時間じゃ遅刻確定だな。


「あれ、あいつ……」


多分、昨日傘を貸してくれた女の子だ。上履き隠されてたらどうするんだろう、なんていらぬ心配をしながら1時限目が始まるまでのしばしの休憩を過ごす。


「あっと。今日の時間割……」


ロッカーの扉の裏に貼った時間割を確認しながら教科書とノートを取り出す。危うく授業前に出すのを忘れるところだった。隣の席に机をひっつけて見せてもらう、なんていう最悪のイベントは回避出来たわけだ。


「先生、教科書を忘れました」


「隣のやつに見せてもらえ」


なんでこうなるんだよ。ってか、なんで俺の方に来るんだよ。右にいけ、右に。


「よろしく」


「あ、おう」


こいつは確か安西あかね(あんざい)。一応、隣りに座っている女子なので名前は覚えた。ほとんどってか、何回かしか話したことがないけど。


「次、ここ、桐生。桐生!」


「あ、はい」


「(ここ、この行から)」


いつものようにぼーっとしていたら当てられてしまった。なんでこんな日に。でも助かったな。


「(さんきゅ)」


「(どういたしまして桐生くん)」


こいつは俺の名前を覚えているようだ。物好きなやつもいるもんだ。


「(ねぇ、部活、決めた?)」


「(いや。まだ)」


「(私もなんだよねぇ。あ、いや、いま吹奏楽部何だけど、辛くって。これを機会に転部したいなぁって)」


聞いてもいないことを言ってくる。空気を読めば、「どこに行くつもりなの」とか聞くのが普通なんだろうけど。


「(そんなに辛いの?吹奏楽部)」


余計に面倒なことになりそうな質問を返してしまった。同時に予鈴が鳴ったので授業が終わり、机がはな……れない。


「もう、聞いてよぉ。うちの吹奏楽部、この前は全国逃したから、今年こそは!ってすんごいの。私、そこまでの情熱ないし。もう疲れちゃってさ。帰宅部に入部しようと思ったらアレでしょ?もう最悪」


「お、おう。それは大変だな」


一気にまくしたてられて反応に困る。うちの吹奏楽部はそこそこの強豪校らしい。昨年はもうチョットで全国、というところまで行ったらしい。今、初めて知ったけど。


「で。どこかいい部活ない?桐生くんも面倒くさいの嫌いでしょ?一緒にどこか探そうよ」


ほぼ初対面でよくここまで話せるな、なんて感心していると更に畳み掛けてきた。


「ねぇ、この茶道部なんてどうなのかな?あ、でも正座とか痛そうだしなぁ。あ、こっちの囲碁将棋部、も正座しそうだしなぁ。ねぇ、どこが良いかな??」


「いや、俺もどこが良いかなって探しててさ……」


「えー、そうなんだー。楽ないいところあったら教えてね!」


嵐が去った。おかげで貴重な休み時間がなくなってしまった。ってか、机戻せよ。



「なんで掃除当番なんてあるんだよ。私立で高い学費払っているだから、業者に頼めよまたっく……」


「桐生~、ゴミ箱、頼めるかぁ?俺、部活に間に合わなくなるからさぁ!」


「へーい」


部活に間に合わなくなる。部活ってのは集合時間まで決まってるのか。面倒クセェな。そんなことを考えながらゴミ箱を抱えて集積所まで持っていく。


「あ、クッソ、中身が入ったままで捨てるんじゃぇよ。クセェな」


紙パックの牛乳が中身が入ったままゴミ箱に入れられていて、独特のニオイを放っていた。最悪だ。


「あ」


面倒くさい顔120%で中身を捨てると、中身の入った牛乳パックが革靴にゴールインしてしまった。


「これって」


「それ。私のです。多分」


右手に持った牛乳まみれの革靴を後ろから指差す女の子。昨日の子だ。


「あ。傘、今日は忘れた。明日は返すから。あと、これ。すまん、俺が捨てたゴミの中に牛乳パックが入っててさ。わざとじゃないんだけど……」


「いいですよ。わざとじゃないんですよね?仕方ないじゃないですか」


そう言って受け取った革靴を手にトイレに向かっていった。水道で洗うのかな。まぁ、牛乳まみれの靴よりはマシな気もするけど。しかし、あの子はなんでイジメられているのだろうか。辛気臭い感じでもないし、目立たないけど、眼鏡を取ったら化けそうな素材だと思うし。


「関わるとろくなことにならん、な」


ゴミ箱を抱えて、教室に戻って机の中の教科書をロッカーに放り込んでカバンを手に下駄箱に向かう。


「あー!桐生くん!今帰り?」


安西あかねが下駄で革靴を履くところだった。


「吹奏楽部は?」


「退部してきた。もう耐えられなくって」


「そうか。帰宅部入部おめでとう」


「うん。短い間だけど、よろしくおねがいします!」


そう言って安西は屈託のない笑顔で握手を求めてきた。すぐに手を出そうと思ったけど、さっきゴミを捨ててから手を洗っていない。制服で手を拭いてから右手を差し出すと両手で「よろしく!」と言って握りしめてきた。温かいし柔らかい。女の子の手だな。なんて思っていたら首をかしげながら顔を覗き込まれてしまった。


「あ。そうだ。今日の英語の教科書と、帰宅部入部のお近づきの印として、なんか奢るよ」


「え?いや、そこまでは……」


「いいからいいから。美味しいケーキ屋があるの!」


僕の返事を確認しないまま、ズンズン先に進んでいってしまった。急いで革靴を履いて追いかける。


「ここ!可愛いでしょ。ここのケーキ、美味しいんだ。あ、シュークリームも最高に美味しいよ。さ、入ろ?」


有無を言わさず入店。こんなお店入るのは初めてだ。ましてや女の子と一緒なんて、人生で初の体験だ。初めてづくしでハードルの高い状況だ。


「ここね、私のお気に入りなんだ~。よく一人で来るの。通学路から外れてるから、ウチの学校の生徒、まず来ないし。いい雰囲気でしょ。それにこの奥まった席が最高」


横向きのJ型店内一番奥まった4人がけの席。一人で座るには広すぎる気もするし、他の客に迷惑なんじゃないかって思うけど、店員が案内してるんだから問題ないのかな。勝手に座りに行った気もするけど。


「ねぇねぇ、何にする?私は昨日はいちごのショートケーキにしたから、今日はこのショコラケーキかな。桐生くんは?おすすめはやっぱりこのシュークリーム。とろけるカスタードクリームにトッピングのイチゴが相まってもう最高で……」


止まらないマシンガントーク。


「お、おう。じゃ、俺はそれで頼む」


「うんうんわかる?これ、最高だから!店員さ~ん」


まだ食べてないんだから分かるはずもない。

ケーキが運ばれてくる間も、吹奏楽部の練習が辛かったとか○○先輩がひどくて……とか聞いてもいないことを、あれやこれやと言ってくる。その勢いに気圧されながらも返事をするしか無かったが、吹奏楽部がいかに大変なのかは分かった。入部候補からは外しておこう。


「ねね、どう?美味しいでしょ」


確かに美味い。スーパーの4個入り300円のシュークリームとは別物だ。だって1個400円だもんな。美味しくなければクレームものだ。


「美味しいなこれ。そっちのケーキも美味そうだな」


「うん。これも美味しいよぉ。はい!」


差し出されるフォーク。口の前10センチだ。これは食えということなのだろうか。間接キスになるけど。まぁ、向こうが差し出したんだし、いいか。


「うん。これも美味しいな。しかし、いいのか?今の間接キスになるじゃん?」


はわわ、という顔をしている。気がついていなかったのか。悪いことをしたような得したような。これで、店員にフォークの交換を頼んだら流石に凹む気がしたけど、仕方ないよな。うん。


「大丈夫!そんなの気にしないから!」


さっき、思いっきり気にしてたじゃん。今も「えいっ!」って感じで食べてたじゃん。なんか俺は悪くないのに、悪者に感じちゃうじゃん。


「いや、スマン。食べる前に言えば良かった」


「だからいいのいいの!気にしないで!うん、ここのケーキ、やっぱり美味しい」


やっぱ気にしてんじゃん。

ケーキ、じゃなくてシュークリームを堪能してセットセットの紅茶を飲んでお会計。安西が財布の中身を見て固まっている。


「桐生くん、悪いんだけど、100円、ある?」


足りないようだ。まぁ、さっきのシュークリームが100円で食えたのなら安もんだ。間接キス付きで。


「いやー。ゴメンね?奢るなんて言いながら100円出してもらっちゃって。明日返すね」


「いいよ。そんなの。100円であんなに美味しいの食えたんだからさ」


「桐生くんっていい人だぁ」


「そんなことねぇよ。普通だろ。こんなの」


たったの100円でいい人呼ばわりなんて安い人だ。それにしてもいい笑顔だな。横目で安西を見ると肩くらいの長さの黒髪が跳ねて明るい性格を現しているようだった。

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