52 如月信

 如月信


 ……俺さ、実はお前のこと……。


 久美子は如月信くんにその手を引っ張られるようにして、闇の中の世界を懸命になって駆け抜けていた。

 視界は久美子が手に持っているろうそくの火の明かりだけ。

 その明かりが照らし出す場所だけが、まるでその都度、その明かりの中に新たに作り出されたかのように、久美子の知っている御影町のある山間の森の中の風景を、その場所に映し出していた。

 道を決めているのは信くんだった。

 信くんは今、必死に上り坂になっている森の中の道無き道を久美子の手を引っ張りながら駆け抜けている。

 この上り坂を登り切れば、そこはもう時雨谷だった。

 そしてその時雨谷には、この世界から脱出するための唯一の道である、『長いトンネル』があるはずだった。


「ちょっとさ、関係ない話をしてもいいかな?」

 さゆりちゃんが闇の中に消えてから、ずっと黙っていた信くんが久美子に言った。

 まださゆりちゃんがいなくなってしまったショックで言葉を話すことができないでいる久美子はぎゅっと信くんの手を握り返すことで「うん。いいよ」の言葉の代わりにした。

 その合図を受け取って、走りながら信くんは話を始めた。

「俺さ、サッカーが大好きなんだけどさ、このバット、あるだろ? 本当はさ、サッカーボールを持ってこようかと思ったんだよ。でも、やめた。やめて、こっちの古い木のバットにしたんだ。どうしてだかわかるか? 三島」

 久美子は黙ったままで、「わかんない」と言う言葉を伝えるためにもう一度ぎゅっと信くんの手を握った。

「実はさ、これ、俺のお父さんのバットなんだよ。子供のころに買ったんだって。お父さんはさ、野球が大好きなんだよ。俺はサッカーが大好きなんだけどさ。だからお父さんは俺に本当は野球をやってほしいってずっと思ってたみたいなんだ。俺が野球をやってさ、将来野球選手になるって、いうのが聞きたかったらしい。お母さんがそんな話をしていたんだ。お父さんは俺とさ、休日にパス回しとかさ、サッカーボールを蹴ったり、シュートしたりしてさ、リフティングしたりするのを、一緒に遊びながら、教えてくれたり、練習に付き合ってくれたりしてくれるんだけどさ、本当はたまには俺と一緒にキャッチボールがしたいって思っているみたいなんだよ。公園でさ。二人でキャッチボールをするのが夢だったんだって。でもさ、それをずっと俺に言えなくてさ。ほら、俺、サッカーに夢中だったからさ。テレビもさ、W杯とか、サッカーの試合を見せてくれるだけどさ、本当は野球の中継が見たかったらしいんだよ。でも俺さ、最近までそんなこと、全然知らなかったんだ。ずっと一緒に家にいたのにさ。家族だったのに、知らなかったんだよ。だから、俺思ったんだ。今度さ、お父さんと一緒にキャッチボールをしようって。そしたら、まあちょっとくらいはお父さんが喜んでくれるんじゃないかって、そう思ったんだ。どうかな三島? 俺の考え。間違ってないかな?」

 信くんはいう。

「……ううん。間違っていないと思う。きっと信くんのお父さん。すごく喜んでくれると思うよ」

 今度はきちんと(かすれ声だけど)声に出して、久美子は言った。


「……ありがとう。三島」

 信くんは言った。

「お前にそう言ってもらえると、なんだか勇気が湧いてくるよ。自分が正しいことをしているって、そう思えてくる」

 信くんはいう。

「俺、三島。お前に会えて本当に嬉しかった」

 新くんがそう言ったところで、二人は上り坂を登り切った。

 するとそこは、長いトンネルがあった、あの時雨谷の本来なら行き止まりになっているはずの道の終わりにある広場になっているような場所だった。

 久美子たちがその行き止まりの壁になっているはずの場所まで移動をすると、久美子の持っているろうそくの火の明かりが、真っ暗な闇の中に本来ならそこにあるはずのない『長いトンネル』の姿を映し出した。『長いトンネル』はなくなったりすることもなく、今も確かにそこにあった。

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