第14話 試験の朝は試練の朝
類は、センター試験受験を選択している。
私大志望なので必須ではないけれど、本番前の助走というか、腕試しとして。ここで好成績を修めれば、志願先の選択肢が増えて受験にもいっそう有利になる。
試験一日目の、朝。
前日に雪が降り、当日の交通が危ぶまれたものの、電車やバスは始発からほぼいつも通りに動いているとのことで、ひと安心。
さくらは、がんばって早起きして、玲と一緒に三人分のお弁当を作ることにした。玲は仕事。さくらはアルバイト。そして、受験の類。三人、別行動だ。
「おはよう玲、今朝も冷えるね」
着替えと支度を済ませ、階段を下りてきたさくらの姿に、玲は驚いている。冬の寒さが厳しくなるにしたがい、さくらの起床は遅刻ぎりぎりになっていた。
「珍しいな、もっと寝ていてよかったのに。遅くまでレポートを書いていた様子だったのに。お前は、今日も神社なんだろ」
「今日からセンター試験だもん。ついに受験シーズンだけあって、受験生やその親がいっぱいくるからね、忙しいよ。私も類くんをよろしくって、神さまにいっぱいお願いしなきゃ」
「お前が受験するわけじゃないのに。それに、神聖なる巫女が、身びいきしていいのか?」
「いいの。いつもはきっちり、まじめに奉仕しているもん」
「はいはい。じゃあ、さくらはなにを作るか」
「卵焼き。三人分だから、卵を三個使ってもいい?」
「まかせた」
玲は手際よく、お弁当の具をつめてゆく。正直、さくらが手伝うことでじゃまになっている。
だが玲は、さくらのしたいことを許した。ふだんは玲まかせのお弁当も、類の受験の当日にだけ作りたいなど言い出すあたり、さくらの気持ちの微妙な変化に気がついているに違いないけれど、なにも言わなかった。
「こうやって、弁当を作るのも今日で最後かもな」
玲が、しみじみとつぶやいた。
「なにそれ、どういう意味! やだ」
「なにって、そのまんまだよ。さくらは、後期の授業がほとんど終わりで、弁当の必要ない日も多いだろ? 類はもうすぐ、町家を出て行くみたいだし」
「……あ、そういうこと、か」
「ほかに、どんな意味があるんだよ?」
「だって……玲が、町家のきょうだい同居が終わり……みたいな、決定的な言い方するから」
さくらは目を泳がせた。
「まあ、それは終わるだろ。確実に、類のやつは」
玲は簡単に朝食を済ませると、まだ暗いうちに出勤していった。類の部屋は静かだ。まだ寝ているらしい。
時計を見上げた。アルバイトの出勤まで、時間はたっぷりある。さくらは壁に寄りかかっていたら、少しうとうとしてしまった。
***
「……こんなところで、寝ない」
類の声だった。
「襖を開けたら、さくらがいるから。試験日じゃなかったら、ぼくのおふとんの中に連れ込まれていたよ?」
「え、類くん」
「まだ寝ぼけているのかな? 七時三十分ですよ、さくらさん」
今朝は、五時に起きた。玲と一緒にお弁当を作って、その玲を見送ったあと、少し休もうと思い、茶の間で寝てしまったらしい。
「時間。時間時間時間、だいじょうぶ? すぐ、朝ごはんのしたくする」
「もう並べた。さくらのほうが先に出ないと、間に合わないよ」
ちゃぶ台の上には、朝食がととのっている。
「受験当日の朝に、家事をさせられるなんて思いもしなかった」
「ごめん、類くん」
「じゃあ、対価をいただこう。さくらからぼくにキスして。ご褒美と、今日の試験がんばってのキス」
「そんなこと……できないよ」
「できないなんて言わせない。人を使っておいて、その態度はひどいな。さあ早く。遅刻するよ?」
類はさくらに顔を近づけて迫ると、目を閉じた。長い睫毛が揺れている。さくらは息を止めた。きれいすぎて、見惚れてしまう。
「早く。ごはんがさめちゃう」
厳しいことばが飛んだ。さくらは意を決して類の両肩をかかえると、そっと頬に唇をつけ、すぐに離した。
目を開いた類は、呆然とさくらを見ている。
「まさか……今のが、キス? 手の甲の次は、頬キスなんて。まったく、さくらはお子さまなんだから。ぼくが、教えてあげるよ」
さくらの身体を畳の上に横たえ、類は唇を重ねてきた。
「だめ、類くんってば」
どうにか、口をずらして、さくらは抵抗した。
「いい声、出すね。もうちょっと、このままでいて」
翻弄されながらも、さくらは必死に類から逃れようと、もがき続ける。しかし類の力は強く、押し返すこともできない。
次第に、さくらは抗うことを忘れ、いけないと思いつつも目を閉じ、類にまかせてしまっていた。類の手は、さくらの髪をやさしく撫でている。とても心地よい。溺れてしまう。
魔法にかかったみたいだった。
「止まらない。止められないんだけど……いいよね、もう?」
類が、さくらの耳をなぞるように触った。何度も。
声が出そうになるのを、さくらはぎゅっとこらえる。
「るいー、激励に来たでー。今日から、センターし……」
まったくこの絶妙なタイミングで町家の戸を開いてしまったのは、祥子だった。
「うわ、朝から激しく押し倒しとる! ひー、さすがは類やね。若っ」
「待って、祥子さん! これは、その」
「もう、せっかくいいところだったのに。この作者の作品は、いつもこうだよね! 寸止め劇場!」
思いっきり、目撃、されてしまった。
ふてくされながら類は起き上がり、朝食を食べはじめた。さくらも続こうと思ったが、恥ずかしながら類のキスと愛撫で身体に力が入らない。
「ちょっとさくらはん、もしかしてあんさん足腰立たへんとちゃうやろか。類のちゅうが、そないに気持ちええん? いやらしい子ぉや」
「まったくさくらは世話がやけるね。ほら、起きて」
類に背中を押され、ようやく身を起こせた。
心臓がどきどきと高鳴っている。悔しいけれどあのまま、どうにかなってしまいそうな気がした。
「どう? まだ、ぼくに酔っているとか?」
「ううん。もう、正気」
さくらは黙々と、食事に集中した。
祥子は受験の心得を、類に諭している。心配して来てくれたらしい。類は『はいはい』と適当に相槌を打ち、一応は聞く姿勢を取っていた。
食べ終わると、お皿を片づけてさくらは自転車で出かけようとした。
「自転車は、あかん。外、見ておらへんの? 大通りまで出たら、まあなんとかなるけど」
玲を見送ったときは暗くて見えなかったが、町家の前の日蔭道は、アイスバーンと化している。昨日降った雪が、全然とけていない。家の前だけは雪かきをしたが、足りなかった。ほとんど、マンション住まいしかしたことがないさくらには、想像を超える事態。
「どうしよう、雪をどけなきゃ。でも、そんな時間もないし」
「帰ってきてからぼくがやるよ、さくら」
「受験生にやらせられない。かぜでもひいたらどうするつもり」
「でも、遅くなればなるほど固まってしまうよ、雪は」
「じゃあ、私がお昼の休憩時間に」
「神社は近いけど、食事する時間がなくなるって」
類には頼めない。再び『対価』なるものを要求される可能性もある。それは、避けたい。
「うちがやる。雪かき。昼間、ひまやし」
「祥子さんが?」
「へえ。その代わり、さくらは玲に自分の気持ちを早よはっきりと伝えること」
「それはいい案だね。ぼくからも、言っておくことがある。本命大学の合格発表後の週末に、ふたり旅行を予約した。そこで、さくらの全部をいただくよ」
「うわー、出た! 婚前旅行」
「私、了解していないのに、旅行へ?」
「部屋は、ふたつ取った。言ったでしょ、部屋、ふたつ取るならいいよって。甘やかな一泊旅行」
それは言ったような気がする。だが、ふたりで旅行なんかしたら逃げられないし、承諾したことになるだろう。
「楽しみだね」
類は余裕で笑っている。
「てゆうか、ふたりは、『まだ』なん?」
「男漁りが趣味の祥子とは違うからね。純情なさくらには、なにもかもはじめて」
「い、行ってきます! 類くん、試験がんばって」
凍りつつある雪に脚を取られながら、さくらは歩き出した。つるつる滑る……いけない、滑る落ちるは禁句なのに。さくらは首を振った。
それに、お泊り旅行なんて。どうしよう!
「百面相やね、さくらは」
「祥子さん? なぜ、私についてきたんですか」
「いったん、帰るところや。雪かきにも道具が必要。類に激励は飛ばしたし、まあ、あんさんとの、ディープなちゅうのほうが、何万倍もご利益ありそうやけどな。いつの間にか、ああいう仲には進展しはってたんか。顔真っ赤にして、類の唇に吸いつきはって」
「声が大きいですよ、声が。それに、吸いついてなんていません!」
「とにかく、玲には早よ言うてな。玲は、ずっと待ってはる。だいたい、固まりはったんやろ、答え」
「……はい」
さくらは小さく頷いた。自分の心を、答えを、ふたりに早く伝えるべきことは分かっている。
「うちも、あんさんに言うておくことがある」
祥子は、さくらを真正面から見据えた。まっすぐで意思の強い目だ。
「類と、うちが一緒に消えた、あの宵山の夜」
それは、さくらがとても気にしていることであり、気にしたくないことでもある。
「うちは、類を見いへんかった。類とつながっとっても、類の中にある、玲の影だけを追った。類も、同じや。類は、目を閉じて、あんさんの名前をずっと呼んではった。疑うとると思うけど、あの夜だけや。うちも空しゅうてな。悪いことはしてへんから謝りはせんけど、類を許したって。あの子がかっこよく成長しはったんは、さくらがいるからやで。ほなな」
言いたいことだけを言って、祥子は高幡家のほうに戻って行った。
祥子は、そして類も、あの夜のことを後悔しているらしい。許して、忘れるべきなのか。ただの姉でしかないさくらには、怒る権利もないのに……と、ずっと引っかかって勝手に苦しんでいた。
類は、さくらのものではない。玲も。
さくらが難儀して雪道を歩いていると、社務所から電話がかかってきた。遅刻してもいいから、安全第一で通勤してくれと。
ようやく、大きな通りまで出ると、雪はほとんどなかった。けれど、歩道のいたるところに、除雪された雪山がぽってりと築かれている。
この調子では、観光客の出足も鈍るだろう。さくらはことばに甘え、一歩一歩確実に歩くことを選んだ。
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