第9話 クリスマス気分とその代償②
「なんなの。出るよ、出て行けばいいんでしょ!」
さくらは怒りにまかせ、個室を出た。店の外に出て、少し歩く。
冷静にならなければ、もっと冷静に。もっともっと冷静に。
その気になれば、類は衆人環視の中でも平気で唇を奪ってくるような太い性格。
……どうしよう。あかりが危ない!
さくらは、頭をかかえた。
それよりも、許せないのだ。類が、他の女の子と仲良くするなんて。
祥子との一夜だって許せていない。
今の自分は類に答えを出していない、ただの姉でしかないのに、この怒りはどこから湧いてくるのだろうか。
胸が苦しい。これが、嫉妬というものなのか。
やはり、だめだ。
こらえようとしたけれど、さくらにはできなかった。一分もたたないうちに、小走りで個室に戻る。店員がさくらを咎めるような目で窺っていたが、それどころではない。限界だ。
「だめ。類くん!」
ドアを開けたとき、あかりは泣いていた。類があかりの背中をさすってなぐさめている。
「乱暴だなあ、さくらは。もっとおしとやかにできないの?」
冷たい目で、類はさくらのいるほうを眺めた。
「……類くん、私」
あかりの願い通り、類はキスをしてしまったのだろうか? 想像しただけで、なぜか身体が震える。
「彼女を、家まで送ってあげて」
類はさくらのことばを聞こうとしなかった。
「でも」
いっこうに泣き止む気配のない状態のあかりを、外に出すことには反対したかった。
類が、あかりになにかしたのは、間違いない。
せめて、落ち着いてからのほうがいいだろう。かわいそうに、あかりの流した涙はぽろぽろと落ち、スカートの上に染みを作っている。
「送ってって言っているのが、聞こえないの、さくら? 早く」
こういうときの類は意見を絶対に曲げない。仕方なく、さくらはあかりを受け取った。とにかく、手をつないでやる。とても冷たかった。
「あかりちゃん、歩けるかな。帰ろう」
「送ったら、さくらはすぐにここへ戻って来くるんだよ」
さすがに機嫌を損ねたさくらは、返事をしなかった。
あかりは泣き続けている。号泣、といっていい。どれだけ類がひどいことをしたのだろう、考えただけでぞっとする。
さくらはあかりの頭に、自分のストールをふわっとかけて顔を隠してやった。夜の暗さがだいぶ泣き顔を隠してくれているが、往来の多い御池通は明るい。
どんなことばをかけていいのか、さくらは困り果てた。
的外れな励ましをするおそれもあるし、すべての責任を類になすりつけてしまうのもためらわれる。
十二月の冷たい風が頬にしみる。コートの襟の中に、顔を隠すようにしてさくらは歩いた。
ふたりは、あかりのマンションのエントランスに到着するまで無言を保った。
自宅が近くなってようやく安心したのか、それとも泣いたまま帰宅するのは気まずいと思ったのか、あかりはようやく泣き止みはじめた。
「さ、くら、せん、せい……」
ストールをさくらに返しながら、あかりが口を開きはじめる。
「今日は、おおきに。おふたりが、うちのわがままを聞いてくれはって、うれしゅうおす。でも、ルイくんに謝っておいて」
「謝る?」
「ルイくんは、うちのことを、叱ってくれはったん。『男、しかも初対面に、キスをねだるような、軽率な振る舞いをしてはいけない』って、びしっと。さくら先生にも、ほんまにすんまへん。うち、おふたりが深く愛し合ってはるのを知りながら、いけずしてしもうた」
愛し合ってはいない、そう反論したかったけれど、さくらはあかりの次のことばを聞いた。
「どうか、ルイくんを支えてあげて。ルイくんには、さくら先生が必要や。春から、京都の大学へ通いながらモデルに復帰やなんて、無理ある。そばに、頼りになる誰かがおらへんと。うち、ルイくんに恋人がいはったら、相手の女性を絶対に許さんってずっと思うとったけど、先生なら許したる。さくら先生も指輪、左の薬指にちゃんとしはって。ルイくんからマリッジリングをもらわはる人なんて、この世で先生しかおらへんさかい。それとも、先生はきょうだいのこと、気にしてはるん? ルイくんと先生なら、神さまも特別に許してくれはる、きっと。世間的には認められへんかて、うちは祝福しとうおす」
あかりは、さくらの両手を握った。
とてもやさしい子だ。さくらを慕い、類をほんとうに心配してくれている。
「……ありがとう、あかりちゃん。でも少し、誤解があるみたい。私たち、表向きは姉と弟だけど、親の連れ子どうしで、義理の『きょうだい』なの。だから、もとから血はつながっていないし、結婚も問題なく普通にできるらしいよ」
「ほんまか! ふたりは義理のきょうだい、なんやね。血がつながっておらへんきょうだいなら、なにも気にしはることないんちゃうやろか。ルイくんの胸に、飛び込みはったらええねん。ルイくんは、この世の全女子の憧れや!」
「そうなんだけど、実は私」
さくらは玲のことをごく簡単に話した。
「きょうだいで、板挟み? そやけど、先生はルイくんを選びはるよね。ルイくんは先生のことが、ほんまに大好きなんやで。今日、ルイくんを見てたら、痛いぐらいに伝わった。振るなんて、かわいそうやん」
「最初に、私が惹かれたのは、玲なの。今でも玲のそばにいたいと、願っている。だけど、類くんのことも放っておけない」
「ルイくんやで、ルイくん。さくら先生の運命は、ルイくんにつながってはるよ、絶対!」
類にも、援軍が来ました……一途な援軍なだけに、さくらは動揺した。
あかりはさくらに強く訴えたが、曖昧に頷くことしかできなかった。
まだ、答えがない。迷っている。
そんな中途半端なさくらの態度に、あかりは怒りを覚えたらしく、さくらを激しくなじった。
「さくら先生が、分からへん! ルイくんから、あないに強く求愛されてはるのに、保留なんて。そんな先生、嫌い。ルイくんの気持ちを受け入れはるまで、うちは先生の授業をボイコットしたる。さくら先生の顔、二度と見たくあらへん!」
あかりは振り返りもせずに、エレベーターへ乗った。どうやら、本気らしい。
***
……あかりを傷つけてしまった。素敵な妹分を、アルバイトも、さくらは失った。
さくらはストールを巻き直し、夜の町を歩きはじめた。
寒い。寒風がさくらの熱を奪ってゆく。
類の待つ店へ早く戻らなければと思いつつも、いっこうに脚が前に進まない。
類の顔を見れば、自分はきっと、類のことを非難するだろう。自分の弱さや卑怯さを棚に上げ、都合よく類を責めるだろう。
こんな自分がいやだ。自分が嫌いだ。
あかりを送迎するだけならば十五分で済むところを、すでにさくらは倍の三十分以上を費やしている。
ひどく、類に叱られるだろう。おしおきと称して、今夜はどんな振る舞いをされるか、分かったものではない。キスどころはなく、もっと深いつながりを強く求めてくるかもしれない。町家には、無事に帰れないかもしれない。
このまま、類には無断で家に帰り、玲に助けてもらおうか。
玲なら、絶対に守ってくれる。
そうだ、自分は悪くない。常識的に、類の魔の手からあかりを守ろうとしただけだ。どうして自分ばかり、不安な気持ちにならなければいけないのか。不公平だ。
ふと、踵を返し、西陣のほうへ身体の向きを変える。
お店と町家は、反対方向に位置している。
類の言いなりになることなんて、ない。
だいたい、類はいつも生意気で強引過ぎる。恋愛経験の浅いさくらの心を手玉に取り、ころがして遊んでいるのだ。
類はさくらの反応を見て、心の中で失笑しているにちがいない。
さくらの気持ちが類に向いた途端、すべて冗談だったのにバカな女だねと遮断されるかもしれない。
けれど、さくらの脚は、町家を目指さなかった。
それよりも今、すぐに知りたいことがあった。
類はあかりにキスしてしまったのか、ということを、今すぐに知りたい。
あかりは『叱られた』としか言わなかった。さくらは全速で走り出していた。知りたい。類のことを、もっと。そして、訴えたい。他の女の子とは、仲良くしないで、と。
店の近くまで戻ると、背が高くて脚の長い男性が、こちらに向かって歩いているのが見えた。
どきりとした。類だった。さくらの姿に気がついた類は、駆け寄ってきた。
「さくら? どこに行っていたのさ。メールしても電話しても出ないし、寒いのに外を捜しちゃったじゃん! 受験生のぼくに、かぜをひかせるつもりなの?」
類のことばをすべて聞き終わる前に、さくらは類の胸に飛び込んでいた。
「ごめんなさい。でも類くん、聞かせて。あかりちゃんのお願い、聞いてあげたの? キス……したの?」
御池通を走る車のヘッドライトが、重なるふたりを照らし出している。
類はさくらを引き離そうとしたが、さくらは離れようとするどころか、依怙地になって類の身体にしがみついた。
「ねえ。どうなの、類くん? お願い、答えて」
「急に、なにを言い出すのかと思ったら、そんなことか」
「知りたいの。どうしてなのか、よく分からないけれど、気になって仕方ないの」
「……さくらには、あきれるね」
観念したように、類はさくらを抱き締め直した。
「していないよ。ぼく、さくらにしかしない。もう、できないんだ」
「でも、祥子さんには」
「あのときよりも、ぼくはもっと深くさくらを愛している。教会で神さまに誓ったころから、お揃いの指輪をはめてから、ぼくにはさくらしかいないんだ」
空から、ひとつぶふたつぶ、雪が降りはじめた。
小さな白い雪粒が風に舞いながら、くるくるふわふわと静かに下りてくる。
「きれい」
さくらは天を仰いだ。すぐそばに、類の顔があった。
類の手のひらが、さくらの耳をくすぐるように包み込む。
あかりちゃん、ごめんなさい……。
身体を震わせながらも、さくらはそっと目を閉じ、類の背中に回した手に力を込めて重なる唇に応えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます