第2話 女心と秋の空②

 その場で祥子が小躍りしたせいで、長椅子全体が揺れた。さくらの身体もぐらついて、思わずテーブルに手をつく。類は迷惑そうに眉を曲げたが、跳ね上がるほど喜んでもらえてうれしそうでもある。


 ……自分も、うれしいって気持ちをこれぐらい、身体いっぱい大げさに表現したほうが、相手に伝わるのかな?


「祥子のは、ちょっとおとなっぽいよ。ブリリアントパープル」


 類の手の中にある、祥子の口紅を女子ふたりが覗き込んだ。赤みが強い紫に、細かいラメが入っている。


 ……難しそう。さくらの率直な感想だった。


「さくらがかいらしいピンクで、うちはお醤油色か」

「紫って、お醤油も意味するけど……そのたとえは文学者のくせに、あまり適切ではないよ? ま、試してみれば分かるって」

「そんなら類、うちにもやってや。今、さくらにやったんと同じこと。塗っておくれやす。こう、すいすいっと」

「えー、自分でやってよ」

「たまにはええやん。それに……」


 祥子は類の首に両腕を回し、さくらには聞こえないよう耳もとでささやいた。


『さくらには、嫉妬と浮気が有効なんやろ。色恋には疎うて、おぼこいさかい』


 さくらには、祥子のたくらみが聞こえない。玲が好きだといつも言いつつ、ちゃっかり類も手なずけている。


「仕方ないな。誤解されたらいやなんだけど、目を閉じて、祥子。さくら、これは初回の義務だからね」


 ご機嫌の祥子は、類のことばに頷くさくらなど、いっさい見ていない。


「へえへえ。こんなんで、よろしゅうおすか?」


 祥子に巻きつかれたまま、けれどまったく動じずに、類は祥子の顎を軽く指先でおさえ、唇に紅を差した。類も大物感がある。

 しかも、さくらのときと違って、薬指で口紅をすくい取って塗った。


 色気濃厚なふたりの姿は、見ているだけでどきどきしてくる。


「色が濃くてかなり独特だから、厚塗りするとお化けみたいになっちゃうし。できたら、筆を使ったほうがいいよ。パーティとか、華やかな席にこの色はおススメ。祥子なら、使いこなせる」


 着ている赤のワンピースのせいもあるのか、祥子は夜の蝶一歩手前に変身した。

 上品で、あでやかな大人の女性。まるで経験なしのさくらには、無理な世界。


「うっわー、変わった! 変わるもんやね。類、おおきに!」


 そう言って、祥子は類の頬にキスをした。


「うわ。やめろって、この酔っぱらい」


 祥子本人はもう聞いていない。口紅を強奪し、上機嫌で玲の部屋へと移動していた。


 土間に残されたのは、類とさくら。


「……あんなの、ただの冗談だから。真に受けたら、ばかにされておしまいだよ」

「わ、分かっています!」


 でも、口紅をもらったんだから、ことばだけじゃなくて、自分も少しはお礼したほうがよかった?

 なんだか、態度にえらく差があるような気がしてきた。思ったことを、素直に行動できる祥子がとても羨ましい。


 さくらが戸惑っていると、類が頭をよしよしと撫でてくれた。


「さくらからは、心のこもった『ありがとう』をもらった。気にしないでいいの。感情の表現のしかたは、人それぞれ。祥子は祥子。さくらは、さくらだよ」

「え、私。類くんにお礼したほうがいいかなって、口にした?」

「しない、していない。でも、顔に書いてある。『類くんにもっとお礼がしたいけど、どうしたらいいか分からない』って。口では『分かった』って言うくせに、さくらはほんと無垢で無知だよね。これだから、箱入り娘は」


 な、なんでもお見通しとは! 年下なのに、類はさすがである。悔しい。


「図星です……」

「そのままのさくらが好きだよ。ま、キスでもそれ以上でも、さくらがしてくれるんなら、遠慮なくもらうけど。これから、ホテルへ行こっか? さくらを、ひと晩中愛したい……あ、玲が睨んでいる。こわい、こわいっと。おふろ、入って来るね」


 そう言ってほほ笑むと、類は立ち上がってお風呂のほうへ進んで行った。


 視線の先に、祥子が畳の上で寝ているのが見えた。急に静かになったと思ったら、これだ。騒ぎ疲れたのか、酔いが回ったのか。どちらも、当てはまりそう。


 玲と、目が合った。

 さくらがいる、土間のほうへ向かって歩いてくる。

 

「俺にも見せて。その口紅」


 うるさいふたりが消えて間もなく、玲はさくらの両頬を手のひらで包むようにして、顔を上げさせた。


 玲の顔が、とても近い。


 視線を逸らすのも、今さらすぎて気まずい。

 半開きになっているさくらの唇を、玲はそろりと右手の指先でなぞる。左手は頬に添えられたまま。

 類と祥子が近くにいないとはいえ、大胆すぎる行動だった。


「きれいだな、すごく」


 うわあ。


 な、なんか……キスされそうな距離……なんだけど?


 でも、ここはきょうだいの町家。さくらが答えを出すと宣言したあと、三人で誓約書を再確認した。玲も類も、近ごろ家の中ではめったな行動をしなくなったのに。


「いい色だ。さくらのも祥子のも、口紅の状態よりも人肌に乗ると、もっとなめらかに発光するみたいだ」

 

 体温の成せる技かと、玲はしきりにぶつぶつとつぶやいている。


 な……なんだ、色の話か。

 玲は糸の染色をしているので、口紅の色に反応したのか。

 どきどきして、損した。


 それでも、さくらが動けずに固まっていると、玲はようやく気がついたらしく、うろたえた。


「悪い、そんなつもりは……」


 突然、玲はさくらの頬から、ぱっと手を放す。雷雨のときに、さくらに迫ってしまって涼一にひどく怒られたことを思い出したようだ。


「だいじょうぶ。ちょっと、近かっただけ。ちょっと」

「俺、祥子を送ってくる。起きているとうるさいから、今のうちに背負って。類が、風呂のうちに戻るよ」

「うん。手伝う。気をつけて」


 ふたりがかりで、祥子を抱き起して玲の背中に乗せることにした。祥子の身体は細いけれど、ぐったり寝ているぶん、重い。


「寝顔は、かわいいのにね。酔っぱらいなのが、ね」


 無防備で、ヨダレも垂れている。さくらは、ティッシュでそうっと拭いてやった。起こさないように。起きてもらったら困る。


「この容姿で、頭もいい。なんにもしなくても目立つのに、学会のおっさんどもに真っ向から反論するみたいで、敵も多いらしい。そのくせ、友だちはいるのかいないのか、よく分からないぐらい交友関係が狭いんだ。ストレスが溜まるんだろうな」

「でも、毎日飲み暮らしていたら、身体にも悪いよ」

「しつこく注意してやってくれ。そのうち、俺らも一緒に飲めるようになるだろうし。どうか、祥子を嫌いにならないでやってほしい」


 それは無理、だって玲を挟んで恋のライバルだもん……さくらはそう意見しようとしたけれど。

 玲の表情は、真剣だった。


「わ、かった。善処します……」


 つい、心にもないことを約束してしまう。


「俺たちは、お前が聞き分けのいい子なのを利用していると、気がついている。それを止められない俺たちは、ずるい。でも、一緒にいたい。さくらが必要なんだ。だから、俺のいいところを探して、もっと好きになってくれ。同じように、類のいいところも、祥子のいいところも」


 玲や類はともかく、祥子のいいところ? そして好きになれと?

 なんという、壮大な宿題。永遠に、解ける気がしない。


「いっそう、善処します……けどね、ついでだから聞いてもいい? 以前、玲が祥子さんにやけどさせたって言っていたよね。でも、祥子さんのお肌ってきれいだし、今日もそうだけどよく薄着しているし、あの話ってほんとうなの?」

「事実だよ。見るか?」


 玲は祥子のワンピースをめくろうとした。


「いいいいいや、いい! 見たくはない!」

「黙っているのも、フェアじゃないな……あのときは夏で、重ね着していなかったし、熱湯が顔や腕には、ほとんどかからなかったのが幸いだった。ひどいのは、胸から下、おなかや腰の部分。熱湯がかかった服に、肌に張りついて。でも、おじさんの発見が早かったし、応急措置もよかったんだ。皮膚の移植再生手術を何回か受けて、痕そのものはだいぶ消えたと思う……一部を除いて」

「一部って?」

「おなかのやけど痕は、当時のままなんだ。あのときのこと、忘れたくないって言って。手術を勧めても、受けてくれない」


 どきりとした。


 さくらにも、思い当たることがあった。去年、類に受けた傷を、残している。

 自分の、中途半端な覚悟のせいで、みんなを傷つけた罰として。いましめとして。


「どこかの誰かさんも、そんなことあったよな。祥子の場合は、俺への当てつけというか、俺を婿取りするための弱みを握ったって勢いだけど、まあ、終わった話だから。俺以外の男にも、おもしろがってやけどの痕を見せているみたいだし……話が、長くなったな」


 祥子の真意はよく分からないけれど、やけどの痕を負って生きてゆくのは度胸がある。意地を感じる。ほんとうに、祥子さんは玲がすきなんだ。さくらは身を引き締めた。


「話しづらいこと、話してくれて、ありがとう。玲」


 玲が祥子をおんぶした。やはり、相当重いようで、玲は顔をちょっとゆがめて苦笑した。さくらは玲がスムーズに通れるよう、戸を広く開けてやる。



 とぼとぼと歩く、玲の姿を見送る、初秋の夜半。

 今夜も、きょうだいふたりにどきどきしてしまった、ああ反省……。


***


「『祥子も好きになれ』、さくらに言うとった件。あほか、玲は。さくら、引くで絶対。単純で分かりやすいさかい、『玲は、祥子さんの味方なのかな』って、今ごろ思い返しとるはずや」


 アルコールくさい息を、ふうっと吹きかけられた玲は、眉をひそめた。


「ええ子ちゃんの玲は、あほや。最上級のあほや! うちをかばっても、ええことなんて、ひとつもあらへんのに……こないな、酔っぱらい……うう……誰も相手にせえへんわ」


 祥子は泣き出していた。

 酔って寝落ちの次は涙かよ、玲は途方に暮れたが路上に捨ておくわけにはいかない。


「近所迷惑だ。帰ろう、祥子。もう、見えているから、家」

「歩けへん、だっこ。れい」


 仕方なく、玲は祥子をかかえるようにして歩きはじめた。


「うれしゅうおす。胸が、きゅっとなる。玲、うちの部屋で泊まってもええよ」

「帰る。帰ります」

「玲は、さくらのことが好きなのに、酔っぱらいのうちにも、やさしゅうできるん? れーいー」

「……俺は、打算的なんだ。俺は、ずるい。俺がいちばんずるい。答えは、さくらに丸投げ。常に、自分が傷つかないで済む方法ばかりを考えている。さくらの気持ちが、類に傾きはじめていることも、理解しているつもりだ」

「ぎゅっ。れーいー?」


 祥子が抱き締めてくれる。これは、慰めの行為だと頭では分かっている。

 それでも、人のぬくもりはあたたかい。思わず、玲は祥子に応えていた。

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