第22話 生きている

 だが、痛みがまたユーディアを現実に引き戻す。


「ああーっ!」

「ユーディア!」


 いつの間にかレイヴァンが帰ってきていて、ユーディアの顔を覗きこんでいた。

 朦朧としながらも、辺りを見渡す。ユーディアはベッドに寝かされている。だが海の宮の寝所ではない。ならば、先王の宮の寝所なのか。


「落ち着いて、大丈夫だ」

「いやっ、殺さないで! 殺さないでよ!」

「ころ……?」


 ユーディアの言葉にレイヴァンとシアンは表情を歪め、アガットは眉をひそめた。


「殺さないでって……どういうことです」

「……錯乱しているんだ」

「してない! 私は正常よ! アガット、アガット!」


 腕をばたつかせて暴れる。足は気絶していた間に広げて布で縛られていたようだった。

 暴れる腕をレイヴァンが手首を握って押さえつけた。


「いやっ、いやっ、離して! アガット、助けて!」

「舌を噛むわ、黙らせて!」


 シアンの声が足元からする。その声に応えて、レイヴァンの手が口の中に差し入れられた。

 それを、思い切り噛む。鉄の味がする。


「陛下、どういうことです!」

「お前は腕を押さえていろ!」

「だって、殺さないでって!」

「いいから押さえろ!」


 だがアガットはその命には従わず、逆に回りこんで、ユーディアの手を握った。


「妃殿下、私はここにおります。大丈夫です、私が見ております」


 アガットが小さな子どもに諭すように、柔らかな声音でそう言うと、ユーディアは途端に力を抜いた。


 それを見て、レイヴァンが口の中に入れていた手を除ける。

 くっきりと歯形がつく手を逆の手で擦る。苦渋に満ちた表情で、下唇を噛んでいた。きっとそれは、痛みからの表情ではない。


「……アガット、お願い」

「なんなりと、妃殿下」

「私の子……産湯……、注意深く……見ていて……」


 荒い息の下で、それだけを懸命に言った。

 それで何かを察したのだろう、アガットは力強く頷いた。


「ええ、ええ、お任せください、妃殿下。私はもとより、赤毛ですもの、戦いますわ」


 かつて、セクヌアウスと戦ったという、赤毛の民族。それを口にするのは不敬という他ないだろうが、彼女はあえてそうユーディアに言い聞かせてくれた。

 それがユーディアをひどく安心させた。


 痛みが断続的に、何度もやってくる。

 生まれてくる。こんなに理不尽で、呪われた世界でも。

 何度も何度も意識が飛び、だが痛みで起こされる。


「大丈夫です、大丈夫ですよ」


 アガットがユーディアに言い聞かせるように、ずっとそう言ってくれている。


「頭が出たわ。もう少しよ」


 シアンの声がする。

 生まれてくる。この、世界に。

 選んだのだ、と思った。

 この子は生まれてくることを、選んだのだ。

 それにはもう、ユーディアの意思は及ばない。


 そして。

 産声が、響いた。

 アガットがそっと手を離して立ち上がり、去っていく。ユーディアとの約束を果たすため。


「ああ、妃殿下、王子ですよ。元気な王子がお生まれに」


 感極まったのか、涙声でそう伝える。


「五体満足よ……良かった……」


 シアンがそうつぶやく。

 それを聞いたレイヴァンも、大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。


「少々、少々お待ちくださいね、妃殿下」


 少しだけ弾んだ声で、シアンが言う。


「ああ、妃殿下が刺繍なさったおくるみを」


 荷物の中から、それを探そうとアガットがごそごそとやっている。

 産声は、まだ響いている。

 生きている。

 元気な子だと。


「早く……抱きたいわ」

「ええ、ええ、そうでしょう」


 そのとき。おずおずと、そっとユーディアの手を握る手があった。

 知っている、と思った。

 私は、この優しい手を知っている。


「……陛下」


 ユーディアはその手を弱く握り返した。


「ユーディア?」

「ごめんなさい……」


 ぼろぼろ涙が溢れてきた。

 激情にまかせて、ひどいことを言ってしまった。

 彼はずっと苦しんできたのに。

 だから掟に抗おうとしていたのに。

 この城の中で生きてきた彼にとって、それにはどれだけの勇気が必要だっただろう?

 でもどうしても、心が受け付けられなかったのだ。

 だが今、その手の温もりが、確かに愛しいと感じられた。


「謝らないでくれ。すまなかった」

「……いいえ、私も……動揺してしまって」

「ああ、ああ、そうだろう」


 レイヴァンの瞳に光るものがある。彼が泣いたのを見るのは初めてだ、と思った。


「妃殿下、さあ、どうぞお抱きになってください」


 アガットが弾んだ声でそう言って、白いおくるみに包まれた子を、ユーディアの胸元に連れてきた。

 手を差し出す。そっとその身体を、包み込む。


「ありがとう」


 自然と、声が出てきた。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


 御子は、泣き続けている。

 生きている、と叫んでいた。


          ◇


 しばらくは身体を動かさず、ここにいた方がいいだろう、ということで、少しの間、先王の寝所に住まうことになった。

 アガットはほとんどユーディアの傍を離れず、なにくれと世話を焼いてくれた。だからほとんど不便を感じずにはいられた。

 レイヴァンも毎日時間の許す限りは、訪れてくる。

 心配していたが、母乳も問題なく出て、まるで何事もなかったかのように思えるほどだった。

 だが。


「陛下、私、海の宮に帰りたい」


 ある日、ユーディアはそう伝えた。


「ああ、そうだろう。けれど今はあまり無理して動かないほうが」

「夜になると、聞こえるんです」


 ユーディアはレイヴァンの言葉尻をひったくって、そう言った。


「聞こえる? 何が」

「誰かの、泣き声が」


 ユーディアのその言葉に、レイヴァンは息を呑んだ。


「泣き声だけじゃありません。笑い声も、叫び声も。夜になると、聞こえるんです」

「……そうか」


 彼の反応を見るに、それらは決して空耳ではない。

 彼にだって、聞こえている。言われるまで思い至らなかったのは、もう慣れてしまっているということだ。


「私、こちらの宮に、いたくない」

「そうか……そうだな。移動しよう」


 夜、赤子と共に眠ろうとすると、聞こえてくる。男とも女ともつかぬ、声。

 それらは笑い声だったり、泣き声だったり、様々ではあったが、耳を塞ぎたくなるような声だった。


 きっと、こちらの宮は、死んでいない王族たちを隔離するための宮なのだ。

 王族たちは、公に出てこないのではない。出てこれないのだ。

 仮に無事に生まれたとしても、正気を保ったまま生きていられる者は稀なのだ。

 それはそうだろう。ユーディアだって、このままここにいて、まともでいられる自信はなかった。


 ユーディアの言葉を受け、輿が用意され、慎重に、休み休み、ユーディアと赤子は海の宮に戻された。

 帰ってきたとき、ユーディアはほっと息を吐いた。

 こちらが、現実だ。

 あちらは幻覚か何かのように思えた。

 これからどうしたらいいかなど、考えたくはなかった。


          ◇


 マロウがある日、海の宮にやってきた。


「此度はおめでとうございます、妃殿下」

「ありがとう」

「ご無事にお世継ぎが生まれてきてくださって、何よりです」


 彼女もきっと、王族たちが今まで何をしてきたか知っていたのだろう。そして、一部始終を知らされたのだろう。


 ユーディアはマロウの言葉に、何か引っかかるものを感じた。

 お世継ぎ。

 その言葉は、ユーディアを暗い気持ちにさせた。


 アガットは何も訊いてこない。ただ、自身の仕事を忙しくこなしていた。

 そして。

 レイヴァンもシアンも、意図的にその言葉を避けていたような節がある。

 きっとユーディアを刺激しないよう、そうしているのだろう。


 けれど、だからと言って、いつまでも逃げることはできない。

 決断しなければ、と思った。

 表面上、何も起きていないかのように振る舞い、生きていくべきなのか。まやかしの幸せを享受しながら、ここで、この子を世継ぎとして育てるべきなのか。

 それとも。

 早く、決めなければならない。

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