第23話 決心

 今日もレイヴァンは海の宮にやってくる。

 彼は特には何も言わない。ユーディアの手を握り、赤子の顔を覗きこみ、そして当たり障りのない話をするだけだ。


 けれど、そうして逃げていても何も進まない。

 子どもは、日々、育っていく。

 泣いたり笑ったり忙しい。

 仮面のような表情をしているのは、大人たちだけだ。

 それではいけない。


「陛下、私、外に出たい」

「外?」

「ケープが見たい」

「そうか」


 赤子をアガットに任せて、二人は庭に出る。

 レイヴァンに手を引かれ、あの長椅子に腰かける。

 今日は、ケープは見えなかった。


「陛下」

「何だ?」

「いろいろと、決めなければなりません」


 ユーディアがそう言うと、レイヴァンはぴくりと身体を震わせたあと、少し俯いて、手を組んだり離したりし始めた。


「ああ、そうだな。決めなければ。……あの子の名前もまだ……」


 彼は気付いている。ユーディアの決断に。

 けれど。

 逃げている。ごまかしている。

 でも。

 逃げてはいけない。ごまかしてはいけない。


「私、この国を、出ます」


 ユーディアのその言葉に、レイヴァンは顔を上げた。


「この子と一緒に、ここを去ります」

「ユーディア?」


 レイヴァンは手を伸ばしてきて、ユーディアの手首を掴んだ。


「どうして……」

「説明が、必要ですか?」


 ユーディアの言葉に、レイヴァンは黙り込む。

 すがりつくように、手首を引く。

 そしてユーディアの腕を両手で掴んで、叫ぶように言った。


「一人にしないでくれ、ここにいてくれ。お願いだから」

「陛下」

「頼む……」


 彼の言葉に、首を横に振った。


「私たちは、これ以上、一緒にいてはいけない」


 彼はあのとき、ウィスタリアの名を呼んだ。

 愛していたのでしょう? あの人のことを。

 あなたが私を選んだのはなぜ?

 私が他の国からやってきたから?

 なるべく遠い血を選ぼうとしたのではないの?

 皮肉にもその選択は、裏目に出てしまったけれど。


 ユーディアはそれらの思いを飲み込んだ。

 愛されていないのかもしれない、などという疑惑を抱くこと自体、間違っているのだ。

 彼と私は兄妹なのだ。愛してはいけないし、愛されてもいけない。

 けれど、胸に湧くこの嫉妬の念はなんなのだ。


 それに。

 それまで知らなかったとはいえ、姉であるウィスタリアが目の前であんな死に方をしたというのに、悼む気持ちが湧いてこない。彼女のための涙が流れない。


 おかしい。人として大事な何かを失いつつある気がする。

 狂い始めている、私も。

 早くここを離れなければ。


「あの子は無事に生まれてきてくれたけれど、もしもそうでなかったら、あなたはどうしたの?」

「それは……」


 レイヴァンは次の言葉を発せない。それが返事だろう。

 きっと彼は、今までと同じように、赤子を殺した。


「私はこれ以上、あなたとの間に子をもうけることはできない。一緒にいてはいけない。だって私たち……」


 兄妹なのだ。


「あなたはまた、別の人を探してください。今度こそ、掟に抗って」


 レイヴァンの顔を見ることができなかった。

 見てしまうと、言えなくなってしまう。

 あの幸せな日々の続きが訪れないかと、願ってしまう。

 離れたくない。一緒にいたい。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうして。


「……どうせ」


 彼の声が、苦痛に歪んだ気がした。


「どうせ……掟には……逆らえない……逃げられない……」


 ぶつぶつと、つぶやいている。ユーディアの腕を握る手に力が篭る。尋常ではない彼の様子が、背筋を凍らせる。

 彼もまた、いつか、あちらの宮で、夜毎に泣くようになるのだろうか。


「……陛下」


 ユーディアの声に反応したように、彼はぱっと顔を上げた。


「だってそうだろう? 結局は、セクヌアウスの手の中で踊らされているだけなんだ、私たちは」

「陛下」

「どうせ逃げられないなら、このままでもいいじゃないか。そうだ。無事に生まれたんだ。あの子は世継ぎだ。そして、三人で、幸せにこの国で暮らそう」


 その言葉に、彼の腕を振り解いて立ち上がる。


「ユーディア?」

「今、自分が、何を言ったか分かっていますか?」

「何って……」

「あの子にも、あなたと同じ苦しみを与えると? いいえ、違うわ。自分が解放されるために、あの子を差し出そうと言ったのよ」


 その言葉に反論できなかったのか、レイヴァンはまたうなだれた。


「じゃあ、どうしろと言うんだ……。このまま君が去っていくのを見ていろと?」


 ユーディアは長椅子に座る彼の前に回り込んでしゃがみ、そしてその手を取った。

 優しい手。私はあなたのこの手が好きだった。


「じゃあ、共に逃げましょう」

「ユーディア?」

「父さまと母さまは逃げたわ。そして、罰は下されなかった。であるならば、あなたが逃げても罰は下されない」

「……この国を棄てろと?」

「それ以外に、逃れる術はあるの?」


 レイヴァンはユーディアから手を離す。


「それだけは、できない」


 きっぱりとした、声。


「この国が滅ぶのならば、私も共に滅ぶ。それが私の責務だ」

「そう」


 ユーディアは立ち上がる。そう言うだろうとは思っていた。


「私、明日にでもここを発ちます」

「……決意は固いのだな」

「ええ。止めないで」


 いいえ。本当は、揺らいでいるの。

 ユーディアはその想いを口にすることはない。


 もしもう一度止められたら、ここに留まってしまうのかもしれない。

 何もかもなかったことにして、見て見ぬ振りをして、偽りの幸せの中で微笑むのかもしれない。


 でも、それは許されないことなのだ。

 だからユーディアは振り向かず、その場を去った。


          ◇


「出て行くですって?」


 海の宮に駆け込んできたマロウは、開口一番、そう言った。

 怒っているのか、泣きそうなのか、分からないような表情をしていた。

 そのときアガットには荷造りを手伝ってもらっていた。


「どうしてなんです、妃殿下。その御子はお世継ぎなんですよ?」

「いいえ、この子は私の子です。世継ぎにはいたしません」

「なんてことを……!」


 マロウは駆け寄ってきて、籠の中で寝ていた赤子を奪い取ろうと手を伸ばす。ユーディアは慌ててその前に出て、先に子を抱いた。

 驚いたのか、子どもは起きて泣き出す。


「マロウさま、お止めください!」


 アガットが駆け寄ってきて、暴れるマロウを抱いて押さえ込んだ。


「せっかく、せっかくご無事に生まれたんです、お世継ぎにするのに、なんの不都合がありましょうか!」


 アガットに押し込められても、その身体の向こうから、悲痛な叫びを出している。

 子の泣き声も、それに負けじと響いた。


「あなただって、もう知っているんでしょう、私が何者かということを」

「ええ、聞きました。でもそれが何だというのです」

「なに……」


 赤子を抱いたまま、振り向く。アガットの肩越しに、マロウが歪んだ笑いを口元に浮かべているのが見えた。


「私は、掟に逆らうのはどうかとも思っていたんです。でも、まともな御子が生まれないから、だから一度は試してみてもいいと思っただけです。そうしたら、妹だって言うじゃないですか! むしろ、歓迎するところです」


 その言葉に、ぞっとする。身体が冷えていく。


「ご無事に生まれたんです、それでいいじゃないですか。多少、血が濃いくらいなんですか。今さらなんということはありません。それで、国民は救われるんです」


 ああ、この人ももうだめなのか、と思った。


「もう……この国全体が、おかしいのだわ」


 ユーディアのつぶやきに、マロウは笑った。


「おかしい? 何を基準に? あなたのほうがおかしくないと、どうしてそう言えるのですか? あなたがこの国の何を知っていると? 国を見棄てて逃げていくあなたに、何が分かるというのです。さあ、渡してください、その子を。その子は大事なお世継ぎなんですから!」


 マロウが叫ぶ。

 けれど、だめだ。決してこの子を渡せない。

 こんな中に、この子を置いてはいけない。

 子どもを抱く腕に、力を込める。絶対に、渡さない。


「マロウ」


 聞きなれた声が聞こえて、顔を上げる。

 レイヴァンがマロウの肩に手を置いていた。


「もう、いいんだ」

「でも、陛下!」

「私が許した。それで問題ないだろう」

「だって……」


 そう言うと、マロウはその場に座り込んで、顔を覆って泣き出した。


「こんなことなら、期待なんてしなければよかった。希望だけ見せつけておいて、なんてひどい仕打ちでしょう。あのとき、鏡のことなんて、伝えなければよかった。なんてことかしら、なんてこと……」


 そう言って、さめざめと泣いた。

 ユーディアは赤子を抱いたまま立ち上がる。そして、マロウに向かって言った。


「あなたが今まで私に仕えていてくれたこと、感謝しているわ。本当よ」


 その言葉に、マロウはまた更に泣き出した。理解してくれ、などとはとても言えなかった。

 レイヴァンに促され、マロウが部屋を出て行く。

 彼女を見送ったあと、彼はユーディアに歩み寄り、前に立った。


「馬車を準備させたよ。港までそれで行くといい」

「ありがとう」

「見送りだけはさせて欲しい」

「ええ」


 それだけ確認すると、レイヴァンは海の宮を出て行く。その背中を見送ったあと、ユーディアは近くの椅子に座り込んだ。

 疲れたのか、赤子はまた腕の中で眠りだしたところだった。

 アガットはほっと息を吐いて、また荷造りを始めている。


「何も、訊かないのね」


 これだけ近くにいながら、アガットはユーディアに何かを問うことはなかった。

 おそらくは、いろんなことを察してはいるのだろうけれど。


「私……、妃殿下がお休みになっているときなど、御子をあやしたりさせていただいておりますが」


 アガットはこちらに背中を向けたまま、話し始めた。


「私の髪がお気に入りのようで、引っ張ったりしてお遊びになるんです」

「そうなの」

「それで、髪を持ったままお眠りになられたり……私、それだけで充分なんです」


 そう言って、こちらに振り向いて、微笑んだ。


「だから私、妃殿下と御子のために、懸命にお仕えします。他の誰を敵に回しても」


 こんな中で、完全な味方が傍にいるだなんて。

 それはどれだけの奇跡だろう。


「ありがとう……」


 涙が溢れ出てきた。一人じゃないことが、嬉しかった。


「まあ、いけません、妃殿下。母親が泣くと、御子もそれを察知しますよ」

「ええ、ええ、そうね……」


 けれども涙は止まらなかった。

 赤子は腕の中で、すやすやと眠り続けている。

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