第21話 破水
「おかしいわ、そうよ、こんなの、おかしいもの、こんなこと、ありえないわ、でも、どうして、わたくしは」
ウィスタリアは、ぶつぶつと、つぶやき続ける。
それでも彼女は美しかった。いや、その狂気が彼女の美貌を引き立たせているのか。
「わたくしを、忘れる? まさか、どうして? どうしたら? どうすれば?」
「姉上……」
「レイヴァン」
ふいにはっきりとした口調でそう彼の名を呼ぶと顔を上げる。
「わたくしを忘れてしまうなんて許さなくてよ。だからわたくし、こうしようと思うの」
そして懐剣を自分の首筋に当てた。
「姉……」
「愛していてよ」
そしてそのまま、懐剣を横に引く。
自身を殺す行為であるというのに、彼女は一切の躊躇を見せなかった。
息を呑む。鮮血が噴き出し、彼女は口元に笑みを浮かべたまま、倒れていった。
「ウィスタリア!」
レイヴァンが倒れる彼女に駆け寄り、その身体を抱いた。
彼の身体を、ウィスタリアの血が染めていく。その中で彼は、彼女の首筋に手を当て、その血を止めようとしていた。
だが少しして、その手をゆっくりと離す。
「……もう、だめだ」
誰に対して言ったのか。彼はゆっくりと彼女の身体をその場に横たえた。
ユーディアはただその光景を、眺めているしか出来なかった。
名前を、呼んだ。
彼は今まで、そうして彼女を呼んでいたのだろうか。
ユーディアを呼ぶように、優しく、甘く。
ウィスタリア、と。
そうなのだろう。きっと彼は、姉を愛していたのだ。
それがいくら歪んで狂っていても、彼らにとっては真実だったのだ。
はらり、と涙が零れてきた。
私は本当に愛されていただろうか?
分からない。
私が選ばれたのは、なぜだったのか。
馬鹿みたい。
真実だと思ったものは、全てまやかしだったのだ。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
でもユーディアもレイヴァンもそれに返事はできなかった。
少しして、ゆっくりと扉が開く。
「失礼し……」
シアンの声だった。ゆっくりとそちらに顔を向ける。
彼女は部屋の様子をぐるりと見回す。
「ああ……」
一言それだけつぶやいて、中に入ると扉を閉めた。
「三人で晩餐会と聞いたので、心配になって待っていたのですが……」
彼女のつぶやきには、誰も答えない。
「何か騒がしかったので、失礼ながら入ってきてしまいました。片付けさせましょう」
この状況で、どうしてそんなに冷静なのか。
彼女は小さく息を吐くと、再び扉を開けて、侍女を呼んだ。
「なんでございましょう」
「部屋を、片付けてちょうだい」
侍女は部屋の中を一瞥して、そして言った。
「これは人手が必要ですね。人を呼んでまいります」
仮面のような表情で、侍女はそう言う。
どうして侍女まで冷静なのか。
おかしいのは、もしやユーディアだけなのかと思うほど。
少しして、侍女が何人かやってきた。
そして、その中にエーリカとベイジュがいることに気付いた。
だが彼女らは、ユーディアを見ても何の反応も示さない。他の侍女たちと同じように、眉一つ動かさず、黙々と動くだけだ。
彼女らもまた、人形の中の一体だった。
彼女らは、こちらの宮で、何を見てきたのか。
「ウィスタリアの身体は……私が運ぶ。それ以外を頼む」
レイヴァンがそう言う。侍女たちは一礼して、彼の指示に従った。
「さあ、妃殿下は、こちらへ」
シアンに促され、ふらふらと部屋を出る。
隣室に案内され、中に入ると、落ち着かなく動き回っていたらしい、アガットが駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫ですか、妃殿下!」
「大丈夫……」
何が大丈夫なのか分からなかったけれど、習慣のようにそう答えた。
「妃殿下……これ、血……」
アガットが指差す方を見れば、確かにドレスに血が飛び散っていた。これはウィスタリアの血なのか、レイヴァンの血なのか。
「お、お怪我なさっているのでは……!」
「ああ……これは、私の血ではないの」
それだけ言って、その場にへたり込む。
「妃殿下っ?」
「ごめんなさい……疲れたわ……」
「申し訳ありません、妃殿下。陛下がお怪我されていたようですので、私、治療に行って参ります。妃殿下はこちらでお待ちを」
シアンがそのようなことを言って、部屋を出て行く。
アガットは一人、おろおろしている。
「いったい何があったんです、妃殿下。陛下がお怪我だなんて。隣が騒がしいので私、行こうかどうか迷ったのですけれど」
「そうね……。でも、来なくてよかった」
あれらをアガットに見せたくはない。
あの時間は、歪んだ時間だった。
アガットは茫然自失しているユーディアを抱えるように立ち上がらせ、椅子に座らせてくれる。
「冷えるといけません」
と言いながら、毛布などを用意してくれた。
ユーディアは、ただ、待った。次に何か起こるのを。
それからどれくらいの時間が経っただろう。
レイヴァンとシアンが、部屋に入ってきた。
アガットが息を呑む。真っ青になって、口元を両の手で覆った。
「へ、陛下……! それは……!」
アガットは真っ青な顔色をしている。それはそうだ。彼は全身が血まみれなのだから。凝固した血は、彼にこびり付いたままだ。
アガットの反応があまりに当たり前で、ユーディアはほっと息を吐く。
正常な時間が戻ってきた、と思った。
「大丈夫だ。もうほとんど、血は止まっている」
「で、でも……!」
「アガット、申し訳ないけれど、部屋の外に出ていてくれるかしら?」
シアンの言葉に、アガットはすぐには従わず、ユーディアの言葉を待っていた。
「アガット、部屋の外で控えていて」
ユーディアがそう言うと、渋々ながら彼女は頷き、部屋から出て行った。
「……ウィスタリアさまの……お身体は」
ユーディアがそう言うと、レイヴァンは目を閉じて、息を吐いた。
「私が運んだ。王家の谷へ」
いつか彼は、王家の谷を、よくない場所だ、と言っていた。
あそこは、王族たちの墓なのだ。それが分かった。
レイヴァンは壁を背にして、ずるずるとしゃがみ込んだ。膝を立てて、その上に頭を乗せて、うなだれている。
「御子たちも……」
それだけは訊かなくてはならない、と思った。
「御子たちも、王家の谷に落とされるのですか?」
その言葉に、レイヴァンもシアンも、息を止めた。しばらくの静寂が訪れた。
「血が、濃すぎるんだ」
レイヴァンがそう言う。
「もう、まともに生まれてくる子はほとんどいない。仮に生まれたとしても、成人を迎えられないことも多い」
そこまで酷いのか。
そうしてウィスタリアとレイヴァンの子も、殺されたのか。
「……もしまともに生まれなかったら……そのまま谷に落とされるの」
その質問には、シアンが答えた。
「とても、簡単なんですよ」
シアンの乾いた声が耳に届く。抑揚のない言葉には、何の感情も感じられない。
「ほんの少し、産湯に沈めるだけでいいんです」
「……なに……」
ユーディアはシアンの方にゆっくりと振り向く。そこにいるのは、本当にあのシアンなのか。
「ほんの少しです。ほんの……少し。それだけで動かなくなります」
シアンが自分の両手を前に出して、何かを持っているかのように、掲げる。それを下にそのまま動かした。
「私たち一族は……そうしてきたんです」
そう言うと、はらりと一筋、涙を零した。
「その身体を受け取ったら、私が王家の谷に連れて行く」
抑揚の全くない声。レイヴァンがそんな声を出すことを、ユーディアは知らなかった。
「歴代の王たちは、皆、そうしてきた」
自分の子どもを。殺した子どもを。あの暗くて深い谷に落とすのだ。
「すぐに見えなくなる。けれどきっと、あそこからは何かが這い出てきているんだ」
そうして自身の頭を抱える。
彼は、何を思いながら、子どもを谷に落としたのだろう。
「おかしいと思うでしょう? でもこれが、当然のように行われてきたことなんです」
シアンが言った。
乾いた声に感情が戻ってきていた。
「もう終わりにしようと、陛下と話し合いました。こんなことをしていてはいけない。掟はもう、過去のもので、私たちはそれから解放されるべきだと」
そしてシアンもユーディアを見つめ返してきた。
その目が物語っていた。
きっと、レイヴァンから聞いたのだ。
ユーディアが何者かということを。
「私、本当に楽しみにしていたんです。本当に……」
ぼろぼろと涙を零しながら、彼女は笑った。その笑いは、決して幸せなものではなかった。
逃れられないその呪いに抗おうとした自分たちを、笑ったのだ。
「……嫌よ」
言葉が、喉から絞り出されたように出てきた。
「嫌よ。この子は私の子よ」
「……ユーディア」
レイヴァンがユーディアを見ている。哀れんだような、瞳で。
だめだ、と思った。事これに関しては、彼は守ってはくれない。
逃げなければ。この人たちから。
ユーディアは椅子から立ち上がる。二人を正面に、後ずさった。
吐きそうだ。気持ち悪い。お腹が痛い。でも、倒れてはいけない。
私は、母親になるのだ。この場でこの子を守れるのは、私だけだ。
私はもう、この子を見捨ててはいけない。
ユーディアを立たせているのは、その感情だけだった。
そのときだ。内股に、温かい水が流れる感覚がした。
「うそっ」
「ユーディア?」
急に慌てだしたユーディアを怪訝に思ったのか、レイヴァンが首を傾げた。
足元に、水溜りが出来る。
「破水だわ!」
シアンの声が響いた。
「寄らないで!」
ユーディアの傍に駆け寄ろうとした二人は、それで足を止めた。
「殺すんでしょう! 私はこの子を産むんだから! 近寄らないでよ!」
二人が、見たこともないような怪物に見えた。優しかった二人は、もうどこにもいないのだ、と思った。
お腹が痛い、立っていられない。どうして。私が守らないといけないのに。
意識が飛びそうになる。崩れ落ちる前に支えたのは、レイヴァンだった。
「さ……触らないでっ」
「ユーディア、落ち着いて」
「嫌っ! 助けて! 誰か!」
自分でも何を言っているのか分からない。どうすればいいのかも分からない。ただ、産みたい、それだけだ。
錯乱して暴れだすユーディアをレイヴァンが押さえつけてくる。いくらもがいても、逃れられない。
「シアン!」
「はいっ」
「いやっ、助けて! 触らないで!」
ユーディアの叫びに応えたのは、扉の外に控えていた、アガットだった。中に飛び込んでくる。
「いかがなさいました、妃殿下!」
駆け込んできた彼女に、レイヴァンが答える。
「破水した」
「えっ」
「アガット、お湯は沸いている?」
シアンがユーディアの身体を診つつ、言う。
「は、はい、海の宮にはありますが、でもここでも食事していたなら、こちらの厨房にもあるはずです」
「出て来はじめているの。ここで出産するしかないわ。妃殿下の寝室に準備はしてある。固めて置いてあるから、お湯とそれを、全部ここに持ってきて。馬車を使っていいわ」
「はいっ、分かりました」
そう言って身を翻そうとしたアガットの背中に、ユーディアは叫ぶ。
「行かないで、アガット、助けて!」
「ひ、妃殿下?」
アガットは立ち止まり、そしてこちらに歩いてくると、ユーディアの顔の横にしゃがみこんだ。
「大丈夫ですよ、妃殿下。荷物を取って参りましたら、また……」
ユーディアはアガットのドレスを無我夢中で掴んだ。
「助けて、行かないで、お願い」
それだけをただ繰り返す。ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。
「あの……」
どうしていいか分からないようで、助けを求めるかのように、アガットはシアンの方を見た。
「私が行こう」
レイヴァンが立ち上がる。
「えっ、でも、陛下自ら」
うろたえてアガットがそう言うが、彼は小さく口の端を上げた。
「この場で動けるのは私だけだ」
そう言って部屋を出て行く。それを見送ると、アガットはユーディアの手を取った。
「アガット?」
「大丈夫ですよ、妃殿下。私はここにおります」
そのアガットの言葉に安心したユーディアは、そこで意識を手離した。
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