第19話 先王の日記
「お父さまの、日記よ」
「日記?」
ウィスタリアの手にある黒い皮の表紙のそれを、レイヴァンは眉をひそめて見つめている。
「そう、先日、偶然見つけたの。これもきっと、セクヌアウスさまのご意思ね。あなたがあんまり聞き分けがないから」
そんなことを言いながら、こちらに歩み寄ってきて、日記をレイヴァンに手渡す。
「お父さまの筆跡よ。間違いないわ」
「日記が、なんだと……」
「読んでごらんなさい」
ふふ、と笑ってウィスタリアはまた先王の机に帰っていく。
レイヴァンは不審気にしつつも、日記をめくっていった。
最初はぱらぱらとめくっていっていただけだったが、その内に、手が止まる。
「……え?」
レイヴァンの唇から漏れ出る声。
「驚いたでしょう? わたくしも驚いたわ」
ウィスタリアはレイヴァンの反応を見て、楽しそうにそう言う。
彼は日記を、血の気の引いた顔で、何度も何度も見返している。
「いや……だが……」
「お父さまが書いたものに間違いないでしょう?」
「それは……そうだが……でも……」
レイヴァンは日記を手に持ったまま、小刻みに震えている。顔色はますます青白くなるばかりだ。
大丈夫なのだろうか。今、何が起きているのだろうか。
「これは、偶然かしら?」
「偶然……そうだ、偶然……」
「まあ、まだそんなことを言うの? わたくしはすぐに確信を持ったけれど」
二人のやりとりを黙って見ていられなくて、たまりかねて、ユーディアは問う。
「あの……陛下? 何が書いてあるんですか。そこに一体、何が」
「ユーディア」
ウィスタリアに呼び掛けられ、そちらに顔を向ける。
彼女は小さく首を傾げて言った。
「あなたのお母さまとお父さまのお名前を教えてくださる?」
ウィスタリアからの問いかけ。一体何なのだ、突然。
「え、父と、母ですか? どうして」
「どうしても。聞きたいの」
訳が分からず、レイヴァンの方を見れば、彼もその答えを待つかのように、ユーディアをじっと見つめていた。
いずれにせよ、答えなければならないらしい。
首を傾げつつも、ウィスタリアに答える。
「あの……父はレグホーンといいますが」
ばさっと音がして振り返る。
レイヴァンが手に持っていた日記を取り落としていた。目は日記を追っているが、拾おうとはしない。
「……君の母上は……?」
こちらを見ないまま、落ちた日記を見つめて、レイヴァンが言う。
「シェンナですが……」
しばらくの、沈黙。
「そんな……」
呆然としたような、レイヴァンの声。
すると、急にウィスタリアが高らかに笑い出した。その笑い声に、身体が震える。
「ほら! 間違いないでしょう!」
「……そんな、馬鹿な……」
レイヴァンはそのままその場にへたりこんだ。虚ろな目で、日記を見つめたままだ。
「あの、陛下……?」
何か、怖ろしいことが起こっている。
知ってはいけない。訊いてはいけない。
頭の中で、何かが警鐘を鳴らしている。
けれど、訊かなくてはならない。
「ユーディアも読んでごらんなさい」
ウィスタリアの声が、ユーディアを誘う。
ふらりと踏み出す。レイヴァンの目の前に落ちたままになっている日記を拾うため、歩く。
腰をかがめて、日記を手に取った。冷たい感触だった。
最初の頁をめくる。
何のことはない、今日あった出来事を、短く書いているだけの日記だ。
次々とめくっていく。
しかし、ふと、手が止まった。
銀髪の少女、と書いてあった。
『今日から新しい侍女がついた。銀髪の少女だ。前の侍女はおかしくなってしまったようだ』
『今日は、あの銀髪の侍女は来なかった』
『少し熱が出たのだそうだ。名前はシェンナと聞いた。海の女神の名前だ』
最初、簡潔極まる日々の出来事を綴るだけの文章だったのが、徐々にその銀髪の少女のことで埋まっていくようになっていった。
『久々に、人の笑顔を見たような気がする』
『笑顔の美しい少女だ』
『彼女は笑顔の練習をしているのだそうだ。面白いことをしている』
母だ、と思った。
どうして。この国にいたことがあるだなんて、聞いたことはない。
日記を持つ手が震える。
『毎日、シェンナのことばかり考えている』
『彼女は、私を受け入れてはくれないだろうか。彼女にずっと傍にいて欲しい』
『許されない。掟を破ることは許されない』
『だが、止められないのだ、もう』
やめて、と言いたかった。
この先、何が起きるのか、知りたくない。
けれども指先は、日記をめくる。
『シェンナは私の手を握り返してくれた』
『共に、この国にある呪いに立ち向かおうと』
『だが、私とのことは隠さなければならない。私が掟を破ったことを知られれば、彼女の命が危ない』
『けれどいつか、掟が迷信だと分かれば、彼女のことも認められる』
『その日を信じて、待つ』
嘘よ、そんなこと。ありえない。このまま二人は別れたのよ。そうして母さまは父さまと知り合ったのよ。
否定の言葉をいくつも頭の中に思い浮かべながら、文字を追った。
『姫が生まれた』
『可愛らしい姫だ。シェンナによく似ている。シェンナが海の女神だから、やはり女神の名前をつけようと思う』
喉の奥から、悲鳴ともつかない声が出てきた。
ウィスタリアが小さく笑う声が聞こえる。
『なんということだ、なんということだ、セクヌアウスはお怒りになった』
『川の氾濫だ。こんなことは今までなかった。掟破りの大罪を犯したせいなのか』
『雨は止まない。何人もの命が失われた。私のせいだ。私はこの国を守らなければならないのに』
『全てをなかったことにしなければ』
荒れた文字が続く。その上に、濡れて乾いたような跡もあった。
『レグホーンを呼ぶ。彼は、私から王家の指輪を授けた信頼できる騎士だ。彼にしか頼めない』
『シェンナと姫を殺さなければ、この国が終わる』
『セクヌアウスの怒りを鎮めなければならない』
『シェンナと姫がいなくなっていた。逃げ出したのだ。逃げ切って欲しいと思う反面、捕まえなければならないと思う。レグホーンに追わせる』
『レグホーンの馬だけが帰ってきた。何があったのか』
『朝、礼拝堂に向かう。王家の谷に続く崖が崩れていた。周りにはおびただしい血痕があった』
『争って、三人とも谷に落ちたに違いない。あそこに落ちてはもう助からない』
『雨が止んだ。許されたのだ』
父の左腕にある、大きな刀傷を思った。
あの傷を母は、ユーディアと母を守った証なのだと言った。とても誇らしい傷だと。
おそらくは。
おそらく父は、母とユーディアを殺せなかったのだ。その時点で、父が母に懸想していたかどうかは知らない。だが、とにかく殺せなかった。
だから、偽装したのだ。三人が死んだと思わせるように。
そして、逃げた。
父は、ユーディアの本当の父ではなかった。今の今まで疑ったことなどなかった。彼は母が亡くなった後も、ユーディアを本当に慈しんで育ててくれた。
疑いようがなかった。
いつか見たあの美しい口づけは、彼らが生涯ただ一度、触れ合った瞬間だったのかもしれない。
「嘘よ……」
喉から絞りだすように出たその声に答えたのは、ウィスタリアだった。
「嘘なものですか。これはお父さまが書いたものに相違なくてよ。レイヴァンだってそれは認めていたでしょう? 偶然、お父さまの侍女があなたの母親と同じ名前で、同じ髪の色で、お父さまの騎士の名前があなたの父親と同じ名前で。そんな偶然が本当にあるとでも思うの?」
「だって……そんな……」
日記から顔を上げて、レイヴァンの方を見る。彼はまだ、うなだれて座り込んだままだ。
「それに、マロウに聞いたわ。あなた、入国する際に指輪を持ち込んだのですってね? それはお父さまがレグホーンに渡した指輪ではなくて?」
「指輪……」
「王家の指輪。信頼する騎士に授けるものなの。セクヌアウスさまの横顔の意匠が施されているわ」
レイヴァンが小さく身体を震わせたのがわかった。
机の中にしまい込んでいる指輪。
父が常に身に着けていた指輪。
あの礼拝堂にあったレリーフによく似た意匠の指輪。
そういえば、彼に見せたことはなかったな、とぼんやりと思う。
隠そうとしていたわけではない。ただ、その機会がなかっただけだ。
「マロウはそれを見て、この国のものにとてもよく似ている、と思ったそうよ?」
くすくすと笑いながら、ウィスタリアは言った。
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