第10話 国王陛下

 結局、太陽の宮の掃除は行き届いていないと細かいところの指摘を受けてしまい、四人は引き続き太陽の宮に残ることとなった。


「太陽の宮は、ご正室さまが使われる宮です。ここが一番使われる可能性が高いのですよ。明日にでも使われるかもしれない。もっと丁寧にやりなさい」


 侍女頭にそう言われてはどうしようもない。

 おかげで海の宮に移動するのはまた後日となったわけだが、ユーディアは何日経っても、あの場所に行くことができなかった。


 マロウはあの鏡に見覚えがあると言っていた。きっとレイヴァンに、もう鏡のことを訊いているだろう。


 秘密の逢瀬を知られてしまったよ。もう会うことはできない。


 そんな風に言われたらと思うと、身体が震える。

 だから、行けなかった。自分から終わりにする勇気はなくて、逃げることを選択してしまったのだ。


 アガットとユーディアは、マロウに指摘されたところを重点的に掃除し直していた。ユーディアにとっては、とにかく動いていた方がありがたくて、率先して水運びや家具の移動などを申し出た。汗をかいたほうが、嫌なことを忘れられるような気がした。


 エーリカとベイジュはいつものように、椅子に腰掛けてお茶を飲んでいる。


「はーあ、得体の知れない人と一緒だと、なんだか気詰まりねえ」

「ほんとほんと」


 嫌味だけは休まず言い続けるのだから、ある意味、大したものだと思った。

 一度反抗してしまえば同じこと、と思ったのか、アガットは時々、反論したりする。ありがたいやら申し訳ないやらだ。


「そっ、その件は、口にしないようにって言われたじゃないの」

「でも、その人が泥棒じゃないって決まったわけでもないし」

「不安よねえ」


 不安といいながら、二人はくすくすと嘲笑している。

 いずれにせよ、ここには長くいられないのかもしれないな、と思いながら窓を拭いていると、その窓にマロウの姿が映った。

 慌てて振り向くと、彼女は深くため息をついた。


「その件は、私に預けるように言ったはずですが?」

「も、申し訳ありません」


 さすがにまずいと思ったのか、二人は頭を下げる。


「今から、こちらに陛下が渡られます。お迎えはできるわね?」

「えっ、今から!」


 二人は急に弾んだ声になって、慌てて手櫛で髪を整えている。


「いやだ、もっときちんとお化粧しておけばよかったわ」

「ああ、もっと早く分かっていれば」


 などと小声で言っている。

 ユーディアとアガットは掃除道具を慌てて片付けた。身なりなど気にする暇はない。


 それからすぐさま、四人は開け放した扉の脇に、二人ずつ並んだ。


「視察、ということかしら?」

「もしかして妃を迎えられるとか?」


 こそこそと正面の二人が話していると、マロウが一つ、咳払いをする。二人は慌てて黙り込む。

 廊下の向こうを見ていたマロウが、息を吸い込んだ。


「国王陛下のお成りです」


 言われて四人は頭を下げる。

 足音が、近付いてきた。ゆったりとした足取りだ。


「急に、すまないね」

「いいえ、陛下。いつ陛下が来られても大丈夫なよう整えておくのが私たちの仕事でありますれば」

「そう言ってもらえるとありがたい」


 ああ。

 ユーディアはその声を、頭を下げたまま聞きながら、溢れそうになる涙を抑えるのに必死だった。

 ああ、やっぱり。

 やはり、そうだったのだ。

 彼は。レイヴァンは。

 国王陛下。

 そう呼ばなければならない人だった。


 足音が、ユーディアの前で止まった。


「ユーディア」


 声が、頭の上から降ってくる。


「顔を、見せてくれないか」


 おそるおそる、顔を上げる。

 変わらない笑顔がそこにあった。

 だが、その表情が、すぐに曇る。


「どうして泣いているの?」

「……泣いてなんて、いません」

「嘘。泣いている」


 慌てて頬に手をやる。だが涙は辛うじて溢れてはいない。


「やっぱり、泣いてなんていません」

「じゃあ、笑って。君に笑って欲しくて、鏡を渡したのに。練習を怠っている?」

「かっ!」

「かがっ……」


 レイヴァンのその言葉に反応して、彼の背後で二人が声を出しかけて、そして慌てて自分の手で口を塞いでいた。

 隣にいるアガットも、あんぐりと口を開けたままだ。


 それには気付いていないのか、レイヴァンは何の反応も示さずに、ユーディアの顔を覗き込んできた。


「どうして最近、会いに来てくれないんだ? おかげで私は毎日待ちぼうけだ」

「どうしてって……」


 知られてしまったから。

 ユーディアとレイヴァンの逢瀬を、他の人に知られてしまったから。

 レイヴァンは国王で、ユーディアは違う国から身一つでやってきた女だから。

 許されるわけはない。

 だから、他の人に知られると、終わってしまう関係だと思った。

 でも終わらせたくなくて、会えなかった。


「だから、こちらから会いにきてしまった。君に訊きたいことがあって」

「訊きたい……こと?」


 なんだろう。ユーディアは顔を上げて、レイヴァンの顔を見た。彼はいつものように、柔らかく微笑んでいる。


「君は、口づけは本当に好きな人とするものだと言ったけれど、私は君だけが好きなんだ」


 飄々として、そう言う。

 君だけが好きなんだ。

 その言葉が、胸に染み込んだ。


「なのに君に拒絶されたら、私はどうしたらいいと思う? もう一生誰とも口づけをしないなんて、ずいぶん寂しい人生になると思わないか?」


 なんだか可笑しくなってきた。そんなことをそんな風に訊くために、やってきたのか。


「国王陛下」


 そう言って笑う。けれど同時に涙も出てきてしまって、泣き笑いになった。


「私も、あなただけが好きです」


 ユーディアの言葉に、レイヴァンは口の端を上げた。知っているよ、と言わんばかりだった。


 けれど。

 お互いがお互いを好きだと思っても、続けられる関係ではないのではないか。

 国王というものは、好きな相手を好きなように娶られる立場にはないだろう。


「でも、やっぱり無理です」

「どうして」


 レイヴァンは驚いたように身を引いた。

 どうして? 決まっている。

 ユーディアはまた目を伏せた。


「どうしてって……そんなの」

「相思相愛なことの、何が問題?」

「それは、問題ないですけど……」

「じゃあ、口づけするのも問題はないよね」


 ふいに身をかがめてきて、顔を寄せてきたので、慌ててそれを手で押し留める。


「口づけは、人前ですることでもありませんっ」

「ああそう、それは残念」


 そう言って、頭を掻いている。やはりこの人は、どんなときにも飄々とした人なのだな、と思った。


「じゃあ、どの宮がいい?」

「えっ」

「君しかいないのだから、どの宮でも好きな場所を選んでいい。残念だけれど、口づけはその後で」

「宮って……」

「え? 君の宮だよ」


 首を傾げるレイヴァンの背後から、咳払いが一つ聞こえた。


「陛下は、あなたを妃として迎えると仰っているのです」

「えっ、私?」

「あなた以外に誰がいるの」


 呆れたように、マロウが言う。


「でっ、でも、私、よそ者だし。貴族とかでもないし」


 慌ててそう言うと、レイヴァンが返してきた。


「ああ、そんなことを気にしていた? そこは気にしなくていいよ。なにせ、妃を決めるのは私の仕事だからね」


 レイヴァンがそう言って、笑った。


「えっ、……いいの?」


 そんな簡単に。

 彼が選ぶのは、王妃ではないのか。

 こんな風にあっさり決めていいものなのか。


「うん、大丈夫。さあ、宮を決めて」

「そ、そんなこと急に言われても」

「じゃあこっちで決めようか」

「えっ」

「今日からでも、入ってもらおうと思っているのだけど」


 混乱している間に、どんどん話が進んでいく。

 何が何だか分からないけれど。


「あのっ。じゃ、じゃあ、海の宮でっ」


 勢いで、言った。

 するとマロウが横から口を挟んできた。


「まあ、ご正室さまは、太陽の宮を使われるものですよ。いいんですか? 遠慮なさっているのでは?」


 遠慮などではない。選べるのならば、心から、あそこがいいのだ。


「いえ、海の宮がいいんです」

「あら、てっきり太陽の宮と思っておりましたから、ここを整えるのに重点を置きましたのに。ご本人にさせるのもいかがなものかと思ったのですが、正式に陛下に聞くまではと思って」


 そうだったのか。だからマロウは細かく確認をしていたのだ。


「読みが外れてしまいましたわ、私としたことが」


 その言葉にレイヴァンが苦笑する。


「実は私は海の宮がいいと言うと思っていたよ。先に言えばよかったな」

「いいえ。私の早合点ですわ」

「すまない。では、それで手配を頼む」

「かしこまりました」


 王の言葉にマロウはすんなりと頷いた。


「黙っていて、すまない」


 ユーディアの方を見て、レイヴァンは言った。


「本当は、もっと早く言うべきだったのかもしれないけれど、君が警備兵か何かと勘違いしていたようだから、その方が都合がいいかと思ってしまった。知ってしまったら、君が逃げ出しそうで」

「……いえ、私が言わせなかったのだわ、たぶん」


 そうであって欲しくない、そうだったらもう会えなくなってしまう、そういうユーディアの気持ちが、レイヴァンを黙らせてしまったのだ、きっと。


「君が会いにこなくなってしまったから、ずいぶん焦っていたんだよ。そこにマロウが鏡のことを訊きにきたから、少し強引かと思ったけれど、迎えに来た」


 マロウの方に振り向いて、彼は言った。


「君が侍女頭で本当に良かった」

「まあ……まあ、そんなお言葉をいただけるなんて」


 感極まったのか、涙を浮かべている。


「さあ皆さん、海の宮を整えなければ。何をしているの、すぐに動きなさい」


 マロウに言われて、呆然としていた三人が、はっとしたように歩き出す。

 マロウの足取りはずいぶんと軽かったが、エーリカとベイジュの足取りは、対して非常に重かった。

 以前、あの二人が妃になったら嫌だと思っていたことを思い出し、その様子が気の毒にすら思えた。

 アガットは部屋を出て行く前にこちらを見て、にっこりと微笑んでから、頭を下げた。


 部屋には二人きりになってしまう。

 なんだか急に照れくさくなって、俯く。


「どうかした?」


 彼の声が降って来る。


「ううん、あの、なんだか……いろんなことが一度にありすぎて、整理できないの」


 レイヴァンがセクヌアウスの国王だとはっきりと知れたこと、王妃として迎えられたこと、これからは海の宮で過ごすこと。

 どれもこれも、日常とは懸け離れたことだ。


「じゃあこれからゆっくり、二人で歩いていこう。徐々に消化していけばいい。時間はたくさんあるのだから」

「うん」


 彼の言葉に、頷く。

 手を差し出されたから、その手をとった。

 その手はとても温かくて、安心した。やっぱり彼の手は、優しい。

 幸せすぎて怖いって、こういうことなのかな、と思った。

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