第11話 礼拝堂
手を握ったまま、二人で向かい合う。
これはどうしたらいいのかしら、などと考えていると、彼がほっと息を吐いた。
「よかった」
「え?」
「もし、本当に君が逃げ出してしまったら、どうしようかと思っていた」
そう言って、微笑む。
そうだ、ユーディアは逃げたのだ。彼から。
「に、逃げちゃってごめんなさい。なんだか怖くて……」
「怖い? もしかして、私が?」
「う、ううん。あなたが怖いのではなくて。あなたは王さまだから、ちゃんとした身元の人じゃないと普通は妃になんてなれないから。だから、もう会えないって言われるのが怖くて」
「普通」
レイヴァンはそう一言つぶやくと、しばらく考え込んだ。
何かおかしなことを言っただろうかと、その顔を見上げる。
「えっと……?」
「ああ、ごめんね」
レイヴァンははっとしたようにこちらを見て、そして笑った。
「私はね、この国から出たことがないんだ。この城からもほとんど出たことがない。いろんな人の話を聞いたり本を読んだりしているけれど、本当の意味では世界を知らない」
「そうなの?」
「だからきっと、普通っていうことも分かっていないのだと思うよ」
だからかもしれない。
彼の飄々としたような感じとか。どこか浮世離れしたように思えるところとか。
それは、この国の閉鎖されたような特殊な環境の中で出来上がったものなのだろう。
「ユーディアは、いろんなところを旅してきたのだよね」
「ええ」
「これからも、世界の話を聞かせて欲しい。そうしたら、普通ということがどんなものなのか分かるのかもしれない」
妙に思いつめたように言う。
ユーディアは、握った手に力を込めた。
「私は、いろんなところを旅してきたけれど、王さまに会うのは初めてよ」
「そうなんだ」
「だから、普通の王さまがどうなのかは知らないわ。さっき普通って言ったけれど、私も普通を知らないかも」
だからそんな風に、まるで自分を責めるかのように言わないで。
ユーディアのその思いが分かったのか、レイヴァンは、小さく微笑んだ。
彼は手を一度ぎゅっと握り直して、そしてゆっくりと離す。
「今から、礼拝堂に行こう」
レイヴァンが言う。
「礼拝堂?」
「他の国のように、結婚を祝う式などはないんだ。けれど、礼拝堂で神と初代セクヌアウスに報告はするんだよ。それだけ。すぐに済む」
「へえ」
「そうしたら、君は私の妃だ」
「妃……」
今、こうして彼を目の前にしていても。
それでも、妃という言葉に実感は湧かなかった。
けれど、彼の妻に……ただ一人の女性になるということには、心が温かくなっていくのを感じる。
「少し歩くけれど、大丈夫?」
「大丈夫よ。そこに行けることが嬉しい」
その返事を聞くと、レイヴァンは身体を翻して、太陽の宮を出て行く。
彼の背中を眺めながら、その後をついていった。
どうやら太陽の宮のすぐ裏手から、階段を使っていくようだった。見たことはあるが、この階段を上るのは、初めてだ。
一歩を踏み出して、そのまま山の頂上近くにある礼拝堂に向かって歩く。いつか見た、白い建物だ。
彼の背中越しに礼拝堂を眺めながら、足を動かす。
しばらくして眼下を見下ろすと、五つの宮が小さくなっていた。海も見える。王族が住むと言う宮も向こうに見下ろせた。
「あなたは……これを毎日……登っているのよね」
ユーディアは細く長い石造りの階段を登りながら、息を切らしてそう言う。
「そうだよ」
対してレイヴァンの方は、平然として前を歩いている。
「毎朝、礼拝堂で祈りを捧げるんだ。この国の平和と安寧を祈って」
「そうなの……」
角度が急で、なかなか難儀だ。初めて王城に来た日のことを思い出しつつ、足を進ませる。
「毎朝、顔くらい見せろってことかもね」
「そう……かも……」
「あ、すまない。慣れていないと辛いかもしれないね。少し休もうか」
後をついて歩くユーディアの歩みが遅くなってきたことに気付き、彼は足を止める。
「大丈夫。これくらい平気」
「そう? じゃあもう少しだから」
そう言って手を差し出してきたから、甘えることにした。
少し引っ張られるだけで、かなり楽になる。
「見えたよ」
階段の終わりが目の前にあり、その上に白い建物があった。
階段を登りきると、大きく深呼吸する。
山を少し切り開いて、白い建物があるだけ。思ったよりも殺風景な場所だ。
「大変ね、毎朝なんて」
「最初はね。でももう慣れた」
「今はいいけど、年を取ったら辛そうね」
「ああ……まあ……そうかもしれないね。でも歴代の王は皆、短命だから、そういう話は聞いたことがないな。父上も早くに亡くなったしね」
「そうなの?」
目を瞬かせる。過酷な仕事で長生きできないのだろうか。
「あなたは、大丈夫よね」
思わずレイヴァンの手をぎゅっと握った。すると彼は小さく笑う。
「心配してくれるの? 嬉しいな」
「それはそうよ。身体は大事にしてね。私はもう、置いていかれるのは嫌よ」
父も母も、若くして亡くなった。そしてユーディアは一人になったのだ。
「そうだね、気をつけるよ」
そう言って彼も手をぎゅっと握り返してきた。
礼拝堂の中に入る。中には驚くほど何もない。ただの白い箱のようなものだ。天井近くに明り取りの窓がいくつかあって、そこから入る陽の光が、中を照らしていた。
正面に、誰か男性の横顔が描かれたレリーフがある。
どこかで見たことがある気がする。
父の指輪に彫られているものに似ているのだと、少しして気付いた。
あれを見たマロウが、この国の紋章ではないかと言っていたが、確かにこれは似ている。勘違いしても仕方ない。
レイヴァンが目を閉じて、胸に手を当てている。
ユーディアもそれに倣った。
私、ここに嫁ぐことになりました。よろしくお願いします。それから、彼を長生きさせてください。
それだけ心の中で祈ると、目を開ける。
ちょうど彼も目を開けたようで、「行こうか」と外に出た。
「これだけでいいの?」
「そうだよ」
「ふうん」
外に出てから建物を振り返る。ふと思い立って、裏手に回ろうと歩き出した。
ここまで殺風景だと、礼拝堂の裏手には何かあるのかという気分になったのだ。
「ユーディア、どうした?」
「ううん、ただ、裏はどうなっているのかと思って」
「ユーディア!」
背後から呼び止められるが、すぐに裏手に到着してしまった。
「うわ……」
建物の裏手は、すぐに崖になっていた。
注意深く覗き込んでみるが、底は深すぎて全く見えない。底の方にもやがかかっているから、もしかしたら思うよりももっと深いのかもしれない。
落ちたらひとたまりもないだろう。足がすくむ。
「怖いわね……」
「ユーディア!」
後を追ってきたレイヴァンが、ユーディアの肩を抱き、無理矢理そこから離す。
「ど、どうしたの?」
彼の顔色は蒼白で、唇を真一文字に結び、まるで感情のない仮面のようだった。怖い。怒っているのだろうか。
さきほどまで穏やかに微笑んでいたのに。この変わりようは何なのだろう。
「危ない。ここに落ちたら、命はない」
「え、ええ、そのようね」
「行こう」
ユーディアの手首を掴んで歩き出す。
礼拝堂の表まで来たところで、彼は言った。
「王家の谷と呼ばれている場所だ。あそこは、そんなにいい場所じゃない」
「そ、そうなの。勝手に動いてしまってごめんなさい。それと……痛いわ」
そう言われて初めて気付いたように、彼はぱっと手を離した。
握られていた手首が赤くなっている。
「す、すまない。つい」
「大丈夫だけど……。というか、あなたの方が大丈夫? 顔色が……」
「あ、ああ……。少し、疲れたのかも」
「そう……」
何か釈然としない思いを抱いたが、それ以上は何となく何も言えなくて、黙り込んだ。
帰りの道のりでの彼は、いつも通り穏やかに微笑んでいて、考えすぎだと思い込むことにして、ユーディアは不安な気持ちを飲み込んだ。
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