第9話 その名を持つ人
ユーディアは部屋の椅子に腰掛けて、もらった鏡を前にしてため息をついた。
何日か、彼に言われた通り、この鏡で笑顔の練習をしてみた。
だがどうも上手く笑えなかった。ため息しか出てこない。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「はーい」
「入るわよ」
入ってきたのはエーリカだった。
「今日で太陽の宮が終わりだから、マロウさまが最終の確認をするって。それで今から皆を集めなさいって仰っていたから」
「あ、そうなの。ありがとう」
ユーディアは立ち上がって部屋を出ることにする。
だが、扉の前に立っていたエーリカが、動こうとしない。彼女の目はユーディアの部屋の中に注がれている。
「なに?」
「あの鏡、あなたの?」
机の上を指差して、エーリカは言った。
「え、ええ、そうよ」
「ふうん」
しげしげと鏡を眺める。それは不躾な視線で、なんだか鏡が穢れるような気がして嫌だった。
だからユーディアは鏡を引き出しにしまおうと、部屋の中に取って返した。
「あら、隠すの?」
「隠すって……片付けるだけよ」
妙に絡んでくる。放っておいて、と言いたかった。この鏡に触れないで。
そう思いながら、鏡の柄を持った。
「そんなに慌てるなんて、おかしくない?」
「慌ててなんていないわ」
「その鏡、あなたのものではないんじゃないの? ずいぶん良い品のようだし」
「はあ?」
何を言い出すかと思えば。
「私のものよ。言いがかりはやめて」
「言いがかり? 果たしてそうかしら?」
なぜか勝ち誇ったような表情をしている。
「何が言いたいのよ」
その辺りで、ベイジュが通りかかったらしく、部屋を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「あっ、ねぇ、あれ見て。あの鏡」
仲間がやってきた、と思ったのか、エーリカは意気揚々とユーディアの持つ鏡を指差した。
「ずいぶん良さそうな鏡と思わない?」
「そうね、そう思うわ。ユーディアが持てるようなものではないわよね」
さすがというか何というか、二人の意見はすぐさま一致したらしい。
「どこから盗んできたのかしら?」
「盗んでなんていないわ!」
反射的に反論した。だが二人は聞く耳を持たない。
「だって、そんな高価なもの、あなたの給金で買えるわけないもの」
「……いただいたのよ、これは」
「そんなに良い品を? 一体どこの誰が?」
頭の中に、これをくれたあの人とのあの日の風景が甦る。
汚さないで、美しい思い出を。
「……それは」
「ほら、言えないんでしょう! 盗んだのだわ!」
高らかに、ベイジュは言った。
「あ、あの、なにかあったの?」
アガットもその騒ぎを聞きつけたらしく、扉の外でそう言うが、二人は相手にせず、返事もしなかった。けれどアガットは食い下がる。
「ええと、あの、何があったか知らないけれど、そろそろ行かなくちゃ」
「あんたは黙ってなさいよ!」
エーリカがそう一喝すると、アガットはびくりと身体を震わせて、黙り込んでしまった。
二人はそれを見届けると鼻で笑い、そしてユーディアの方に向き直り、腰に手を当てて、言った。
「あなた最近、時間が空くとすぐにいなくなるものね。王族方がお住まいになっている宮にでも行っているんでしょう?」
「違うわ!」
「じゃあ、どこに行っているのよ」
言えなかった。あの場所は、レイヴァンのお気に入りの場所で、二人の憩いの場所だった。
話だけでも、誰かに立ち入って欲しくはなかったのだ。
「ほら、どこからか盗んできたのよ。こんな人と一緒になんていられないわね」
胸を張って、なぜか自慢するかのごとく、エーリカは言った。
「いい加減なことを言わないで!」
横から叫んだのは、アガットだった。
意外な人物からの言葉に、三人はそちらに振り返り、無言で声の主を見つめた。
アガットは、少し身を引きながら、でも振り絞るように続ける。
「ユ……ユーディアは、盗む……とか、そんなことをする人ではないわ!」
その言葉を、ベイジュは鼻で笑う。
「なんの根拠もないことを」
エーリカも一緒になって言う。
「そうよ、この人はよそ者じゃないの。どんな人間だか分かったものではないわ」
「すっ、少なくとも、彼女は誰も見ていないところでもちゃんと仕事をする人間だわ。あなたたちと違って!」
今まで、波風を立てたくないと、反論などしてこなかったアガットの力強い反撃に、二人は頭に血が上ったようだった。
「なんですって! 生意気な口をきくんじゃないわよ!」
「あんたも泥棒の仲間なんじゃないの!」
部屋のすぐ外で、取っ組み合いの喧嘩になりそうになって、ユーディアが慌てて割って入ろうとしたそのときだ。
「何事です、騒々しい!」
部屋の入り口の少し向こうあたりから、声が飛んできた。
四人が振り返ると、マロウが腰に手を当てて、憤怒の形相でこちらを見ていた。
「私は、太陽の宮に集まるようにと言ったはずですが?」
「す、すみません」
四人は素直に頭を下げた。
「泥棒がどうとか聞こえましたけど?」
マロウのその質問には、エーリカが答えた。
「ユーディアが、高価な鏡を持っているんです。彼女には到底買えないような」
声高にそう言う。これを聞けば侍女頭だって納得するだろう、とでも言いたげだった。
マロウはその言葉に眉をひそめる。そして廊下をこちらに歩いてきて、それからユーディアの手元に視線を移した。
「その鏡かしら?」
ユーディアが持っていた鏡を見ながら、そう言う。ユーディアはこくんと頷いた。
「あなたが入国した際に鏡を持ち込んだのは知っているけれど、確かそれではなかったわね?」
「……はい」
エーリカとベイジュは、それ見たことか、と言わんばかりに胸を逸らしている。
「ではそれはどうしたの?」
「これは……いただいたのです」
「少し見せてもらってもいいかしら?」
「……はい」
ユーディアは鏡をマロウに手渡す。彼女はそれをしげしげと眺めたあと、またユーディアの手に戻した。
「確かに高価なもののようね。どなたにいただいたの?」
「……それは、言えません」
「どうして? なんという名の方に貰ったのか、それだけでいいのよ。それであなたの疑いは晴れるのではなくて?」
「でも……、言えません」
だって。だって私は知らないけれど、あなたたちは知っているのでしょう?
レイヴァンという名を持つ人が、いったい何者なのかということを。
「ほら!」
背後から声が上がる。
「名前が言えないことがその証拠よ。盗んだに違いないわ!」
「そうよ、おかしいもの!」
「お黙りなさい」
マロウの静かな一喝に、皆、黙り込む。
「ユーディア」
マロウは、ユーディアが固く鏡の柄を握り締めているその手の上から、そっと手を重ねた。
その手が存外温かくて、ふいにユーディアの瞳から涙が零れ落ちた。
「あらまあ」
マロウは、そっとユーディアの身体を抱きしめた。
「名前を言うと終わってしまう、と思っているのね?」
分かっている。分かっているのだ、この人は。
そう思うと、また涙が溢れてきた。声を殺して、肩を震わせる。
知られてしまった。もしかしたら、もう二度と会えないのかもしれない。それは仕方のないことだ。
けれども、とても、寂しくて悲しい。
ユーディアは鏡を胸にぎゅっと抱いた。
マロウはユーディアから身体をそっと離すと、少し声を張った。
「この鏡には、見覚えがあります」
エーリカとベイジュは顔を見合わせている。
「私の方で確認しますから、この場は私に預けてちょうだい」
「で、でも」
「あなた方の気持ちも分かるけれど、それは推測にしか過ぎないのではなくて?」
その言葉に、二人は渋々といった様子で黙り込んだ。
「さあ、最初に言った通り、太陽の宮に集まりなさい。この件はそのうちに明らかになるでしょう。このことを二度と口にしないように」
マロウがそこから立ち去っていくと、気まずい空気だけがそこに残った。
「なによ、泣いたりして。私たちが悪者みたいじゃない」
「仕方ないわ、マロウさまは古い人だから、『呼ばれた』人に弱いのよ。どうせすぐに明らかになるわ」
二人はそう毒づきながら、立ち去っていった。
ユーディアだけが動けなくて、その場に立ちすくんだままだった。
アガットが心配そうに一度振り返ったから、微笑んでみた。
けれどその笑顔はきっと、歪んでいたのだろう。
アガットは、目を伏せて、行ってしまった。
ユーディアは部屋に戻り、鏡をまた机の引き出しの中にしまう。
もう、この鏡を見るのはやめよう、と思った。
笑顔の練習なんて、この鏡ではできない。
悲しい気持ちしか湧いてこないから。
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