第2話 『呼ばれた』人間
吟遊詩人は詠う。
それは、幸せな幻影の島。神の国。孤高の島。呪われた島。
国王の祈りは神への供物。代償としての夢の国。
だが民は踊り歌う。何も知らされぬ民たちは、神に愛された国と歌い続ける。
◇
「ああ、なんだか地面が揺れている感じがするわ」
男の船が港に着くと、ユーディアは船から飛び降りたあと、石畳の上で何度か足踏みをした。
辺りを見渡す。今までいたあの港町と比べると、やはり港自体の規模が小さい。小船が五、六艘泊まっているが、それ以外にはせいぜい三艘程度しか泊まれそうにないし、船自体も小さいものしかない。
さらに言えば、あの港町にはたくさんあった宿泊所や出店もほとんどなさそうだ。
けれども辺りにいる人たちは皆笑っていて、ユーディアはなんだかそれだけでこの国が良い国だと確信できた。
海の方に振り返る。もうあの港町は見えない。けれども晴れた日ならばきっと見えるのだろう。あの、父と母が眠る丘が。
「ありがとう、いい国に来れたみたいで嬉しいわ」
荷を降ろしている男にそう話しかける。男はその言葉に、にやりと笑った。
「そう言ってもらえると、船に乗せた甲斐もあるってもんだ」
ユーディアは男が持ち上げた荷物を受け取ろうと手を広げた。
「手伝うわ」
「そりゃ、ありがたいね」
荷降ろしを手伝いながら、ユーディアは訊く。
「とりあえず、何か仕事をしたいのだけど、どこか紹介してくれるところはないの?」
生きていくには、お金を稼がなければならない。特にユーディアは、両親の形見以外は何一つ持ち合わせてはいないのだ。
この人ならば、妙なところを紹介したりはしないだろう。
「仕事ねぇ。俺が雇ってやれればいいんだがなあ……」
「ありがとう、でもなんにしろそこまで甘えるわけにもいかないし、どこか公共の機関とかあればいいんだけど」
旅を続けている間、そういうところがある国をいくつか見た。この小さな国にもあればいいのだが。
「そうか、じゃあ、王城に行くといい」
「王城?」
「ほら、山の中腹に見えるだろう?」
男が指差す方向に、頭を巡らせる。目の前に、なだらかな緑豊かな山が見えた。
確かにその中腹に城があるようだ。尖った屋根がいくつもついた、石造りの大きな城。
「他所から来た人間は、王城にまず報告するんだと思うんだが。上手くいけば仕事を与えてくれるんじゃないかな。まあ滅多にないことだから、よく分からんが」
男は船に積んだ最後の荷物を降ろし、汗を拭きながらそう言った。
「申し訳ないが、あとは嬢ちゃん自身で頑張ってくれ。なに、『呼ばれた』人間なんだから、悪いようにはならないさ」
「そうそう、それなんだけど」
「なんだい?」
「『呼ばれた』って、なに?」
その言葉は、どうにも頭にすっと入ってこない。ほんの少し、胸がざわざわする。
「ああ、言ってなかったか。さっき、この国に来るのは難しいって言っただろ?」
「うん、言われた」
「海流が複雑だったり、天候が悪かったり、まあその時々でいろいろなんだが、他国の人間はなかなか入国できないんだ。でもな、ときどき嬢ちゃんみたいに、何の苦労もなく……いや、促されたみたいにやってくる人間がいるんだ」
そう言って、男は顔を上げて、ユーディアをじっと見つめる。
「そういう人間は、セクヌアウスさまが必要だと認めた人間だと言われてる。だから、『呼ばれた』。実際今まで来たのは、医者だとか栽培技師だとか、役に立つ人間ばかりだって聞いたよ」
「私……、そんなすごい人じゃないんだけど……」
不安になってうろたえると、男はそれを見て、ははは、と声を出して笑う。
「さあねえ、それは知らないけれど。まあ、とにかく王城に行ってみるといいよ」
『呼ばれた』。
本当なのだろうか。どう考えても迷信か何かに思えるのだが、やけに確信して言っているようだ。
いずれにせよ、まず王城に向かわなければならないことは間違いないらしい。
「わかった、王城に行ってみるわ。ここまでありがとう。助かったわ」
「礼には及ばねえ。嬢ちゃんが、この国のためになる人間なら、それだけで鼻高々って話だよ」
男は顔をくしゃくしゃにして笑う。少女もつられて笑った。
「だといいけど。なるべく努力するわ。鼻高々になるように」
少女は男に手を振りながら、港を後にした。
次にやること、を確信して歩き出した足は、軽やかに動いた。
王城がユーディアを見下ろしている。
◇
とにかく王城を目指して、ユーディアは歩き出した。この島の真ん中辺りにあるという山の中腹にある城は、歩いていてもどこからでも見ることができた。
だから、ずいぶん近くにあるように思えたのだが……思いの外、距離があったようだ。
「もうっ、まだなの?」
一人ごちながら、ぜえぜえと息を切らし、山道を歩く。
一向に、城が近くなってくる気がしない。陽を見る限り、あれから小一時間は歩いていると思うから、近くなってはいるのだろうが。
本来ならば、馬車か馬を借りて登ればいいのだろうが、あいにく金子を持っていない。歩くしかないのだ。
木漏れ日が照らす山道とはいえ、足元には轍がついている。だから歩きづらくはないのだが、この傾斜はなかなか難儀だ。
「ちょっと休憩……」
ユーディアは道端に座り込んで、自分の身体を見下ろした。
寝衣のままの姿で城に行ったところで、追い返されはしないだろうか、と急に不安になる。今の彼女は、あからさまに怪しい人物だ。
『呼ばれた』とかいう話も、さきほどの船の男に聞いただけだ。他の人……城の人間が『呼ばれた』からと親切にしてくれるとも限らない。
こんなに苦労して山を登っても、辿り着いたところで追い返される可能性もあるわけだ。
「あー、もう!」
不安を打ち消すかのように、そう大声を出したときだった。
ユーディアの耳に、音が届いた。馬車だ。この山道を登ってくる。
立ち上がり、今登ってきた道をじっと見つめた。音はどんどん大きくなってくる。
木々の間から馬車が現れたとたん、ユーディアは道の真ん中に立って、両手を上げて大きく振った。
「おーい!」
馬車を操っている御者は、当然、道の真ん中に立ち塞がる障害に気付いたのだろう、馬車の速度を緩めた。
近くまで来ると、御者の口元が何やら動いているのが見える。どうやら馬車に乗っている人間と言葉を交わしているようだった。
ユーディアが道の脇に寄ると、馬車はその前で歩みを止めた。後方の、人が乗っているであろう荷台の窓のカーテンが薄く開く。女だ。女の目が、ユーディアを見つめている。
「あのう、私、王城に行きたいんです。良かったら乗せて行ってもらえませんか?」
この道の先には、王城しかなさそうだ。ならばこの馬車も、行き先は王城に違いない。歩いても辿り着けるだろうが、どうせなら馬車に乗った方が楽だ。駄目で元々、そう頼んでみた。
馬車の中から声が返ってくる。
「王城に? なぜ?」
少し重い声だった。不審がられているのかもしれない。それは無理もない。
「私、ケープの港町から来たんです。国外から来た人は、王城に行くといいって聞いたから」
「ケープ? 船に乗って来られたの?」
「は、はい」
船以外に何があるのか、と思ったが、その疑問は口にはしなかった。
「では『呼ばれた』方なのね。どうぞ。狭いけれど」
『呼ばれた』。まただ。ではこの迷信は、あの男だけが言う話ではないということだ。
この女性の言葉を聞く限り、あの男が言うように、この国に来るのは難しい、というのは本当のことのようだ。だから『船に乗って来られたのか』という疑問なのだろう。
扉がゆっくりと開く。
「ありがとうございます!」
とにかくこの山道を歩くことからは解放されたわけだ。ユーディアは弾んだ声で礼を言い、馬車に乗り込んだ。
「失礼しまあす」
「どうぞ」
声の主が座る斜め向かいに腰掛ける。
ユーディアが乗り込むとすぐ、馬車は動き出した。とにかくあの上り坂をもう登らなくてもいいのだ。ユーディアはほっと息をついた。
落ち着くと、斜め向かいの女性に目を向ける。
馬車の女は、全身黒尽くめだった。外套が真っ黒で、しかも頭巾を頭から被っている。
本で読んだ、悪魔の儀式をする人間のような格好だ。しかも、外套だけかと思ったら、中に来ているドレスも黒いようだった。反対に、肌の色は透けるように白い。だから、その衣装の黒が際立って不気味に思えた。
「えーと、私、ユーディアといいます」
「そう、よろしく。私はシアン」
「あのー……」
「なにかしら?」
女は、穏やかに微笑んだ。栗色の長い髪が一房、外套から漏れた。黒一色を纏うその不気味さを覗けば、普通の可愛らしい女性に見えた。年の頃は、二十歳あたりか。
「ええと、不幸か何かあったんでしょうか? そんなときに乗り込んじゃって、良かったんでしょうか?」
ここまで黒尽くめとなると、どう考えても誰かの不幸があったとしか考えられない。いやもしかしたら、この国特有の何かがあるのかもしれないが。
「ああ、この服? いいえ、そういうわけではないの。単純に、私の趣味と思ってもらっていいわ」
「はあ……なら、いいんですけど」
趣味、と言われてそれ以上追求もできない。だが女は逆に質問してきた。
「それより私には、あなたのその格好が寝衣に見えるのだけれど。趣味かしら?」
「あっ、いえ、これはやむにやまれぬ事情があってですね」
「まあ」
ユーディアは、船の男に語ったように、領主にされた、そして自分がやったことを語った。
「それは大変だったわね」
「そうなんですよ。大変だったんです」
「では私からも王城に口添えいたしましょう。良い仕事に就けるように」
「えっ」
王城に口添えできるほどの人物だったのか。この女性が。それはなんと幸運か。
「ぜひ! ぜひお願いします!」
自分の胸の前で手を組んで、勢い込んでそう言うと、女性はくすくすと笑った。
どうやらこの人も悪い人ではなさそうだ。
あの領主のような、いやらしい人間のところに売り飛ばされるのでなければなんだっていい、と思った。
「ああ。もう、着くわ」
シアンが言って、馬車の窓にかかっていたカーテンに手を掛けた。
その小さな窓から、外を見る。すぐそこに王城が迫ってきていた。
王城の目の前には谷があり、門は跳ね橋となっている。今はそれが下ろされていて、馬車は橋の上を渡る。
「いつもはこの橋は上がっているの。私がそろそろ帰城する頃だから、下ろしてくれていたのでしょう」
「だったら、一人で来ても門前払いだったかもしれないってことですよね」
それはよかった。あそこで馬車を止めなかったらどうなっていたことか。
「それが、『呼ばれた』ということでしょう、きっと」
「本当に『呼ばれた』んでしょうか」
「え?」
ユーディアの疑問に、女は首を傾げた。
「だって、全部偶然かもしれないし」
飛び込んだ船がこの国の船だったこと。何事もなく辿り着いたこと。王城に向かう途中で馬車に乗せてもらったこと。
どれも『偶然』で済むような話の気がする。
「私、すごい特技もないし」
「あら」
困ったように言うユーディアを見て、シアンはくすくすと笑った。
「いずれにせよ、すぐにわかるわ」
「はあ」
シアンの言葉に、ユーディアは曖昧にうなずくしかできなかった。
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