吟遊詩人の歌声は呪われた王国に届くか

新道 梨果子

第1話 王国セクヌアウス

 吟遊詩人は詠う。

 それは、小さな国の物語。小さな国。美しい国。暖かな国。

 陽の光は大地に降り注ぎ、大地は草木を芽吹かせ、伸びる枝葉は人々を厄災から守る。

 海に囲まれ緑豊かで温暖な気候の島に、一人の王に統べられ、その国はあった。


          ◇


 石畳の上を、白い寝衣に身を包み、布靴を履いた少女が走る。

 何者かに追われているのか、少女は時折立ち止まり、後方を見やる。物陰に隠れながら、注意深く辺りを見渡し、追っ手の目が届かないことを知ると、また走り出す。


 そこは、港町。すぐそこに船が何艘も停泊している。

 少女は金子きんすを全く持っていなかった。けれど出来ることならこの港町を離れたい。であるならば、このいずれかの船に労働力と引き換えに乗せてもらうか。あるいは、密航するか。


 どうしよう、と足を止めたところで、少女の追っ手である何人かの男たちが角を曲がってきたのが見えた。

 まずい、もう時間がない。

 少女は身を隠すため、目の前にあった小さな貨物船に飛び乗った。少女の重みを感じて、船はぐらりと揺れる。


「おっ? 嬢ちゃん、どうした? これは客船じゃねえぞ」


 急に飛び込んできた少女に驚いたのか、船の艫の辺りにいた男がこちらに顔を向けた。


「しーっ!」


 少女は慌てて口元に人差し指を置く。


「後で説明します。申し訳ないけど、少し匿って!」


 男は、当然この事態を飲み込めてはいないようだったが、少女の言葉に従った。とりあえずは様子見、というところだろう。


 少女は這うように船の上を移動し、積まれた荷物の陰に隠れる。

 すると少しして、三人の男たちがバタバタと港の石畳の上に荒れた足音をたてながらやってきた。


「どこに行きやがった」

「ここで行き止まりだ。この辺にいるはずだ、捜せ!」

「すばしっこい女だ」


 口々にそんなことを言っている。

 貨物船の上に立つ男に気付いたのか、一人が声を張り上げた。


「おい、そこの!」

「へい、何でしょう」


 貨物船の男は、飄々として返した。


「女を見なかったか。銀色の髪の女だ。髪の長さは肩くらい。白い寝衣を着ているはずだ」

「女? どのくらいの歳ですかね?」

「十七歳だ。緑色の目をしている」

「うーん、婆さんならその辺にいくらでもいますがねぇ。そんな年頃の娘さんは見かけてないですなあ。しかも寝衣なら、目立つはずですがね」


 どうやら匿ってくれる気になったらしい、と少女は荷物の陰で、ほっと胸を撫で下ろす。


「どうなさったんで?」

「領主さまの召使なんだが、逃げ出しやがった。罪人だ」

「へぇ。もし見つけたら、金子か何かいただけるんで?」


 その言葉に思わず声をあげそうになるのを、慌てて自分の両手で塞いだ。


「そうだな。慈悲深い領主さまのこと、きっと何か礼をくださるだろうよ」

「では見つけたら、領主さまのところに言えばいいので?」

「そうだな。そうしてくれ」


 嘘よ、嘘嘘。あのごうつくばりの領主が金子なんか出すわけない。騙されないで。お願い、言わないで!

 少女は身を縮こませながら、心の中で叫ぶ。


「分かりました。まあ見つけられたら、連絡しますよ」


 男の言葉に、とにかくここにはいないと判断したらしい。男たちはその場を離れていった。


 足音が遠ざかるのを聞いて、少女の身体から力が抜けた。

 どうやら切り抜けたらしい。


「嬢ちゃん、もう大丈夫だ」


 男は少女が隠れている荷物に向かって、そう囁くように言う。


「私を、売るの?」


 少女は膝を抱えて、そう訊ねた。だが男はその言葉に小さく笑った。


「あんな、あからさまに悪そうな人間に、女の子を売るほど落ちぶれちゃいないよ」


 男の言葉に、少女も苦笑する。確かにあの男たちは、あからさまに悪人顔をしていた。

 その小さな笑いが、身体中の緊張を解いてしまうかのようだ。


「ああ、良かった。ねぇ、ところで」

「なんだい?」

「この船はどこに行くの? まあ、どこでもいいんだけど、良かったら乗せていってくれない?」


 少女は男を見上げて言う。だが男は眉をひそめた。


「ああー……それがなあ……この船は客船じゃないし……なあ」

「駄目?」


 少女は手を合わせて、お願い、と頭を下げた。男はその姿を見て、小さくため息をつく。


「俺らの国に行くのは、難しいんだよ」

「国? 外国なの?」


 男は少女の質問を聞くと、すっと海の向こうを指差した。


「天気が良ければ見えるんだが。見たことはないかい? 島があるんだ。そこが俺らの国だよ」


 指差された方角を、少女は目を凝らして見てみる。だが、男の言う、島は見当たらなかった。


「へえー……。実は私、この港町に来て日が浅いの。だから見たことはないわ」

「そうなのかい」

「でも晴れた日なら見えるのでしょう? なら結構近いんじゃないの? それなのに難しいの? あ、他国の人を受け入れないところなの?」


 入国審査が非常に厳しくて、中に知り合いなどがいなければまず無理、というところは案外あるものだ。実際、父と旅をしている間に、そういう国で門前払いをくらったことも多々ある。


「ああ、受け入れないというか、なんというか……そういうわけじゃないんだが……。島の周りは海流が複雑でね、素人が近付こうとすると、遭難しちまう」

「でもこの船は大丈夫なんでしょう?」

「まあ、そうなんだが……。そうだ、ご両親とか親戚とかいないのかい? 心配しているんじゃ?」


 どうやら船に少女を乗せたくないらしい。であるならば、他の船を当たるしかない。

 だが庇ってくれた人だ。そこで話を打ち切って、はいさようなら、とするのも悪い気がして、そのまま話を続ける。


「誰もいないの。別の国で母さまが死んで、それからいろいろなところを父さまと二人で転々としてたんだけど、最期は海の見える街でって、ここに来たのよ」

「最期?」

「父さまは、先日、死んだの」

「それは……辛かったなあ」


 少女の告白に、男は労いの言葉を掛ける。


「母さまのお骨も、ここの丘の上に埋めたから、父さまのお骨も並べて埋めたわ。きっと二人には、その国が見えているわ」


 少女は海の彼方を見やる。その国は、やはり見えなかった。


「そうだなあ……おっ」


 少女の視線につられて海の向こうを見ていた男が急に声を上げてバタバタと走り出した。


「どうしたの?」

「嬢ちゃん、本当に俺らの国に行くかい?」


 男は言いながら、船と港を繋いでいた綱を外している。


「えっ、いいの?」


 あまりにも急な変わりようだ。歯切れが悪くて、さっきまで少女を乗せたくないような風だったのに。


「もうこの港町には帰れないかもしれないぞ。それでもいいんだな?」

「うん!」


 少女は大きくうなずいた。

 首から提げていた、袋を握り締める。


「父さまと母さまの形見は持ってる。それさえあればいいもの」

「よし、出航するぞ!」


 男は綱を解いて船の中に戻ると、帆を上げた。


「私、漕ぎ手をやるわよ。乗せてもらえるんだし」

「嬢ちゃんが?」

「うん、力はあるわよ。父さまが鍛えてくれたんだから!」


 そう言って両腕を上げて力こぶを作ってみせる。


「ははは、そりゃ頼もしい。でも、今日は大丈夫だ」

「今日は?」

「嬢ちゃんは、『呼ばれた』んだな。見てごらん、いい雲が出てきたんだ。島にまっすぐ風が吹く。嬢ちゃんが『呼ばれた』なら、今日の安全な航海は保障されたようなもんだ。ありがたいねぇ」


 男がそう言い終るのと同時に、帆が風を含んで孕む。船はするすると進みだした。


「ああ、やっぱり。いい風だ」


 男は満足げにうなずいた。


 『呼ばれた』ことがどういうことか分からないが、とにかくここから逃げ出すことには成功したらしい。そっと顔を覗かせて港を見てみると、三人の男たちは港の端の方で右往左往しているようだった。少女は三人に舌を出してみせた。


 そして、丘の上の方を見やる。

 父さま、母さま、私はここを離れるけれど、二人一緒だから寂しくないよね。


 ふと涙が浮かんだ。二人は仲睦まじい夫婦だった。母が死んだとき、父は背中を丸めて泣いていた。無口だが頼もしかった父が、妙に小さく見えたものだ。


 まだ若かったのに、母が死んでから次第に父の身体は弱っていった。そして死期を悟ったのか、焦るように住んでいた国を出た。海が見える場所に母さまのお骨を埋めよう、と呪文のように唱えながら、弱った身体を引きずり旅をした。


 そして辿り着いたこの街で母の骨を埋めたあと、父は急激に痩せ衰え、そして旅立ってしまった。

 まるで、これで自分の仕事は済んだとばかりに。


 今際の際に少女の手を取り、父は言った。

 お前を残していくのだけが気がかりだ。けれどもお前は強い子だから、大丈夫だな?

 大丈夫、心配しないで、と言いたかったが、涙で声にならなかった。だからその代わりに、父の左腕についた大きな刀傷を柔らかく擦った。

 父はそれに、優しい笑顔で応えた。


 俺は、お前という娘を持つことができて、本当に幸せだった。お前の母さまとお前と出会えた奇跡を、神に感謝するよ。


 少女はその言葉を思い出して、浮かんだ涙をぐいっと手の甲で拭った。

 大丈夫、私は父さまに育てられた、強い子だもの。


「嬢ちゃん、名前は?」


 ふと話しかけられて、振り返る。男は本当に何もしなくていいのか、煙草を呑んでいた。


「私、ユーディア」

「ユーディアか。風の女神の名前だな。いい名前だ」


 風が吹く。少女の銀色の髪が、揺れる。


「風の女神さまは、レイティアではなかったっけ?」

「え? いや、ユーディアだろ?」

「そうなの、初めて聞いたわ」

「俺らの国じゃ、そうだよ。まあ俺ら船乗りは、どっちかといえば海の女神のシェンナさまの方が重要だったりするがな」


 少女はその言葉に目を丸くする。


「母さまは、シェンナといったのよ。驚いたわ、すごい偶然」

「へえ、そりゃすごい。というか、俺らの国の信仰を知っているんじゃないのか? それで名付けたんじゃないか?」


 少女は男の言葉に、少し考え込んだ。島国に住んでいたという話は聞いたことがない。いろんな国を回っていたから、自分が生まれる前にもしかしたら住んでいたのかもしれないが、それならそれで、会話の端々に出てきてもよさそうなものだが。


「そんなことはないと思うけど……。海の女神さまは、シエルと呼んでいるわ。響きはどちらも似ているみたいだけど」

「どっちにしろ、縁起はいいね。海の女神から生まれた風の女神が乗ってるんじゃ、沈没しようにもできねぇや」


 そう言って豪快に笑う。


「ところで嬢ちゃん、いや、ユーディア。何をして追われていたんだい?」


 そうか。それも言っていなかった、と少女は納得する。素性も分からず、領主に追われる女を船に乗せたくないのは当たり前だ。


「お妾さんにされそうだったのよ」

「へえ」

「父さまが死んで、私、天涯孤独になってしまったでしょう? それで領主さまの屋敷で働かないかって話がきて。領主さまは、けちでごうつくばりだって聞いていたけど、ベッドと食事があるならいいかと思って」

「ふうん」

「でも、昨日の夜、こっそり部屋に入ってきてね。うわあ、今思い出しても鳥肌」


 ユーディアは自分の両腕を手で擦った。


「それで寝衣か。よく逃げられたな」

「うん、思いっきり股間を蹴り上げてやったわ」


 言いながら右足を軽く上げると、男は苦虫を噛み潰したような表情をする。


「うわあ、思い浮かべただけで鳥肌だ」


 それを聞いて、くすくすと笑いが漏れた。


「悶絶してるところを、ついでにぶんなぐって、蹴って。で、気を失ったかなーって頃に逃げ出したの」

「それはそれは」

「父さまが靴だけはいつでもすぐに履けるところに置いておきなさいって言っていたの。信用できない場所なら、履いて寝なさいって言われていたから、昨晩は靴は履いて寝ていたのよ」

「ずいぶん用心深いんだな」

「父さまはどこかの国の衛兵をしていたみたいなの。だから用心深いし、強いのよ」


 まるで自分を誇るかのように、ユーディアは胸を張った。


「なるほど」


 男は納得したようだった。

 実際、父が教えてくれた、靴を履いて寝る、というのは役に立った。あれがなければすぐには逃げ出せなかったに違いない。


 父は、とても用心深かった。もしかしたらいろんなところを転々としたのは、何かから逃げていたのかもしれない、とは思う。でもあんなに優しい人たちが逃げているのなら、きっと相手は悪人なのだろう。


 もしくは。母はとても楚々とした美しい人で、父は身体が資本のような人だった。そして父は母に敬語を使っていた。だから、身分違いの恋で駆け落ちでもしたのかもしれない。


 きっとそうだ。二人はとても愛し合っていた。

 一度だけ見てしまった、彼らの口づけは本当に美しかった。


「今から行くのは、どんな国かしら」


 いろんな国を巡ってきた。いろんな人がいていろんな景色があった。新しく行く場所は、どこも心踊る。


「王国、セクヌアウス」


 男が言う。


「他と比べれば小さな国だがな、国王さまに守られた良い国だよ」


 男は誇らしげに目を細めた。


「初代国王セクヌアウスが神様からあの島を統べるように言われたんだそうだ。歴代の国王さまはその子孫でな、毎日祈りを欠かさない。その祈りのおかげで俺らの国は守られているんだ。その証拠に天災が驚くほど少なくて、他国からの侵入もほとんどない。食べ物だって豊かだ。俺は国でどうしても手に入らないような薬とか珍しいものを仕入れて売っているんだけどな。でも、こっちの国に初めてきたときは驚いたよ、いろいろ大変そうでさ」

「へえ」


 眉唾物の話ではあるが、とにかく良い国のようだ。


「楽しみだわ!」


 ユーディアは船から少しだけ身を乗り出して、海の向こうを眺める。

 島影が、見え始めていた。

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