一、『たがや』〈6〉
9
約束の正午の、十分前。
「練習中かい、おねーちゃん。格好だけは一人前だな」
屋上庭園へやってきた仁王像は、地べたに正座のわたしをしげしげと見おろす。
「でもな、おねーちゃんよぉ。右手がふさがってんのに、カゼを使えんのかい?」
かすかにかぶりをふった。点滴ポールを手放すわけにはいかない。
「まぁ、それくらいはしかたねぇか」
仁王像はあきれたようにはき捨てた。けれども、なぜか、敵意は感じなかった。ピリピリとした視線は、どこかわたしを真剣に値踏みするようでもあった。
「よし、さっさと始めろ」
「待て待てぇい!」やってきたのは、先輩だった。「まだ十二時前だぞっ!」
和服に大きなトートバッグという、なんだかちぐはぐな取りあわせ。
「あーあ、ほら見ろ。思ったとおりに地べたに直に正座だよ。そんなの正座慣れしてるオレだって痛ぇっつーの。ほら、点滴ちゃん。これ使え」
駆け寄るなり座布団をパンパンのバッグから取り出すと、座るように促した。
大学の講義をサボって、わざわざ座布団だけを部室から取ってきてくれたそうだ。
「よくひとりで着付けたな。仕上げはオレがやってやる。いやいやいや、そんな目でおびえるんじゃねぇよ。別にやらしい意味はねぇから」
眉間にシワの仁王像が、わたしを急かす。
「早くしろ。練習の成果を、とくと発揮してもらおうじゃねぇか」
これを聞いた先輩は、ピクリと眉を動かして、かすかに落胆した表情を見せた。
「あー。やっぱ練習しちゃった?」けれどすぐにきりかえる。「まー、いっか!」
どうして練習したらいけないんですか?
と、わたしが尋ねるよりも早く、先輩は言葉を続けた。
「さぁ、点滴ちゃん。ここから、そのまま自由にしゃべってみるんだよ」
自分の胸を、指でトントンとたたいて見せた。
大股ひらいて正面のベンチにどかりと座る仁王像に、びくびくしつつ対峙した。
練習のイメージどおりに、まずはきっちり、自分なりの正面を切った。
『えー。時は安永。江戸時代。ちょうど杉田玄白たちが、翻訳したての『解体新書』を世にだしたころのお話なんだそうですが……』
隅田川の川開きの説明もうまくいった。花火大会を待つ人ごみの中を、押しあいへしあい歩いてくるたが屋をこなした。やじ馬A&Bのすっとぼけた会話も練習の通り。そうして馬にのった侍が、供を引き連れて登場する段になり……あれ?
おかしいな。
この辺りから、声だけは新幹線ダイヤ並みに淀みなく滑らかに進んでいくのに、そこに所作が遅れ始めたんだ。言葉を発して、それから動く。こんなのわざとやろうと思っても絶対できない。まずい。その焦りがますます、動きや演技の邪魔をする。
不安げにしゃべりながら、不意に、思った。
今、わたし、ひとりだ。
しゃべればしゃべるほど、聞いている仁王像や先輩が自分からどんどん遠ざかっていくような感覚に陥る。伝わらないの。届かないの。それは在学中や入院中に感じていた、すぐ近くに人がいるのに誰とも気持ちがつながっていない感覚に似ていた。
「横一文字に、刀、を払う、と……」
ダメだった。もはやわたしの口に、所作に、前へ進む力は残っていなかった。
「払、う、と……。と……。と……」
声は、言葉は、心は、とぎれた。
「この、ど下手くそがよぉ!」
ベンチにふんぞり返って腕を組む仁王像の、口の中は苦虫でいっぱい。
不出来なのは自分でわかるよ。まともに仁王像を見ることができない。先輩の「どうせ明日は失敗だ」が現実のものになってしまった。
さもつまらなそうなため息をついてから、仁王像が口をひらいた。
「おねーちゃんのやってることは、落語じゃねぇ。暗誦だ。つまんねーわ」
「すみません」なるべく感情は抑えた。「……でも、わたし、がんばったんです」
「そう、それがいけねぇ」
「?」
がんばったこと否定され、わたしは面食らう。前髪の間から、上目で仁王像を覗き見た。
「スポーツや勉強やなにか他のことだったら、努力は美談につながるだろうよ。でもな、おねーちゃんはいま、人を笑わせようとしてるんだ。勇んでガチガチに緊張したヤツの、血ににじむような練習が感じられる噺を聞いたって、おもしろくもなんともない。仮に完璧まで練習しても、客にそう思わせたらアウトだ。そもそも落語は、ダメなヤツが主人公なんだから」
先輩と似たようなことを、仁王像は鼻息あらく不満げに告げた。
「人間はよぉ、不完全や違和を笑うんだ。残酷だがな。むしろ練習せずにしゃべって、突発的に大きな失敗でもしてくれたほうが、オレは笑っちまったかもしれん」
練習せずに?
目を見ひらいて顔をあげ、わたしは先輩を直視した。
「ははははは。まぁまぁまぁまぁ、点滴ちゃん。そういうのは、いいじゃない」
わたしが口をひらく前に、へらへらと話を流そうとする。
どうやらわたしは、大きな思い違いをしていたようだ。わたしの顔は今、親の思いやりを踏みにじったことを初めて自覚した子どもみたいに、静かに強張っているにちがいない。
先輩や仁王像の話から推測するに、おそらくわたしの場合には――練習をしないで予想外の失敗をすることが、笑わせる唯一の策みたいだったんだ。
心底、自分が嫌になった。わたしよりわたしをわかってくれていた先輩のことを、信じることができなかったってことなんだ。暗い気持ちに頭を押さえつけられて、視線が下がり、もう先輩を見られない。
「しかし、おどろいたぞ。昨日の高座と、寸分たがわず同じ間だ。でも所作は、全てが口に遅れた律儀な一秒遅れでやってくる。ズレてんだ。聞けたもんじゃない。こんなに不器用でど下手くそな落語を、オレは見たことも聞いたこともないな」
すると仁王像は、にやりと、歯を見せたんだ。
「おねーちゃん、あんた、おもしれーよ。気に入った。ふはははは」
え。うそだぁ。
仁王像が、笑った。
「本当は言うこと聞かせて、無理にでも稽古をつけようと思っていたんだが、おねーちゃんの場合はオレがヘタにいじらねぇほうがよさそうだ。そのままでいい。ただ、いいか。オレは技術や本筋の落語で笑ったわけじゃねぇ。言ってみりゃあなぁ、おねーちゃん、オレはあんたそのもので笑ったんだぞ」
仁王像の言葉を聞く限り、どうやらわたしは彼を笑わせることに成功したらしかった。しかも、ほめられているような気さえする。
「え、え、えーと……」
達成感のうすい成功に戸惑っていると、仁王像が気まずそうに頭をかいた。
「いやー、オレは昔から口が悪くってな。しかし約束だ。言い過ぎたことは謝る」
ベンチに大股で座っていた仁王像は、手を両膝に、そのまま深々と頭をさげた。
「すまなかった。……おい、金髪。これでいいか?」
先輩は「はーい。あざーす!」とへらへら応じた。
「おねーちゃんよぉ。名前は、なんていうんだよ?」
「名前ですか? わたしは/
本名を口にしようとした、その瞬間に。
「西杜亭点滴。今年の西杜大学落研、期待のスーパー新入部員っス!」
先輩はそ知らぬ顔で、「新入部員」と紹介した。
「ま、見たまんまだけどな。いいだろ、点滴ちゃん?」
「え? あ、えーと……」
急な紹介にリアクションが取れない。
「おい、点滴」
「は、は、……はい」
不意に思った。新しい名前って、今までの自分じゃなくなったみたい、って。
「お前は不器用で、ど下手くそだ。だが、オレはお前を気に入った」
仁王像は満足そうな顔で立ちあがった。
「オレの名前は稲村という。うん十年前の、西杜大の落研の部長だというのは、昨日、すでに伝えてあるな」
稲村OBは、メモ用紙に何かを書いてわたしにぐいと押しつけた。
「後輩の相談にはなんでも乗るぞ。昔の噺家の音源もたくさん持ってるから、聞きたくなったら連絡よこせ」
高圧的なのにどこか嬉しそうな仁王像を見れば、過度の緊張がふつと途切れた。稲村OBの雑な文字は、涙のむこうでどんどん勝手にぼやけていく。
自分が何かの仲間に入れたかのような安堵や喜びで、胸はいっぱいになっていた。
ひとりで勝手に感極まりながら、ぼそぼそと発語するわたし。
「階段で先輩に偶然出会って、高座に偶然あがることになって、ポールを投げてしまったら偶然OBの稲村さんにぶつかって。これってものすごい偶然の連鎖ですね。わたし、なんかうれしくて感動しちゃって……」
まさしく「とっておきの偶然!」。
そういう趣旨のことを、わたしが訥々とうったえると。
「あ? 偶然だぁ?」
仁王像は忌々しそうに顔をしかめた。
「バカ言っちゃいけないよ。女はすぐに、偶然だとか、運命だとか、チャラチャラしたことを言いはじめやがる」
ナチュラルに女性蔑視発言が出たので、入れ違いにわたしの涙は引っ込んだ。
しかし唖然と固まるわたしに、仁王像は意外な言葉を言い添えたんだ。
「必然だろ」
どういうこと?
「点滴。お前、さっき自分で言ってたよな。がんばったんだって。じゃあ、偶然じゃねぇんだよ。手前ぇで行動したら、必ず状況は変わるんだよ。必然だよ。ちがうか? 自信を持て。胸を張れ。いちいちこんなこと言わせんじゃねぇ」
そう言い置いた仁王像が背を向けた、帰り際。
「気にいったぞ。ほんっとに不器用で、ど素人のど下手くそだがな。ぶはははは」
あ。また、笑った。
腹から豪放に笑った後で、
10
わたしと先輩は、一緒に西杜大学付属病院をあとにした。
金髪ツンツンのライトグレーと、点滴ポール持ちのピンクと。
着物ふたりが並んで歩くのは異質だけれど、うちの落研は「日常生活ずーっと着物」という独自ルールがあるらしく、今後は慣れねばならないようだ。お金は無いけど、古着屋で着物も買い増ししなきゃだな。
「わたし、『たがや』を練習していて、『これ、わたしだ』って思えたんです」
弱いたが屋が強い侍をやっつける逆転劇は、自分を変えたいわたしにピッタリ。
先輩は落語の登場人物を、「一生懸命やったってどうせ失敗ばかりの、うまくいかねぇ不遇な連中」だなんて断じた。けれども、こういう噺だってあるんじゃないか。
たが屋に自分を投影できてからは、練習はわりとやりやすくなったんだ。
「うーん。そいつぁ……困ったね」
なぜだろう。わたしの話を聞いて、先輩の顔は渋い。
「実はなぁ、点滴ちゃん。オリジナルの『たがや』は、侍じゃなくて、その弱者であるたが屋の首が飛んで死ぬ噺なんだよなぁ」
なんだそれ? 自分の耳を疑った。
「だって、そうだろう? 最後の『たーがやー!』ってオチは、そっちのほうが自然じゃないのさ」
たが屋の首が中天へ飛んで、それを見たやじ馬たちが花火の「たーまやー!」になぞらえて「たーがやー!」と叫ぶ。それが、元々のネタだったという。
昔々の寄席の際、落語を聞きに来るメインのお客様である職人が死ぬのは都合が悪い。庶民のウケを取れるようにと、江戸時代にネタの改変が行われたのだそうだ。
「まぁ、いいや。点滴ちゃんは、たが屋だよ」
先輩は前髪のむこうからわたしの顔をのぞきこむと、満面の笑み。
「点滴ちゃんは、死んだんだ」
え?
やっと退院したばかりなのに、物騒なことを言うのはやめてほしいの。
「点滴ちゃん、浅草の帰り際に言ってたじゃねぇか。『変わりたい』って。昨日・今日とこれだけの経験をしたんだ。一回死んで、生まれ変わったようなもんさ。階段を滑りおちてきたときのあの点滴ちゃんとは、もうすでに別人だろ」
「え?」
……もしかして。
わたし、ちょっとでも、変われたのかな?
今までだったら、自分ひとりだったら、そんなこと考えもしなかった。
でも、隣で一緒に喜んでくれる先輩を見あげているだけで、わたしは「そう思ってもいいのかも」と、ちょっとだけ、ほんとにほんのちょっとだけ、自分を認めてあげられる気になれたんだ。
「お。カワイイねー」無責任にへらへらおどける。「いいよっ、前向きな笑顔っ」
知らず、笑っていたみたい。
先輩は右手をあげて、ハイタッチを促した。
「とりあえずは退院おめでとう! 稲村のオッサンも楽しんでたし、万事OK!」
応じてハイタッチしようとしたけど、点滴ポールで右手はふさがっている。
一瞬だから手を離しても大丈夫だよねでもこういうふうに相手が右手を出してきた場合には右でかえしたほうがいいのかなでもわたしは左手でやってほしいんだでもそれを言ったら先輩の気を悪くさせちゃうかもしれないよねあああどうしよう。
などとぐじぐじぐじぐじ迷っていたら。
「おう、そうだったな。そしたら、こっちの手!」
先輩は左手をあげなおしてくれた。
あーあ。やっぱり、わたしって、どんくさいなぁ。
……でも、まぁ、しかたないのかな。
たぶんわたしの人生って、他の人たちと比べて、すんなり進むようにできてない。
でも、だからこそ、いちいちそこに凹んで立ち止まっているわけにはいかないのかもしれないよ。わたしは、わたしでしかないんだから。
んっ?
先輩の言ってた「そのままが一番良い」って、もしかして、こういうこと?
「ほらほら、点滴ちゃん! ハイタッチ!」
おずおずと、左手を上げた。
パチン!
先輩と一緒にいれば、わたし、変われるかもしれない。
ハイタッチの音が聞こえた瞬間、わたしの胸には、そんな予感が生まれていた。
【次回更新は、2019年7月6日(土)予定!】
いざ、しゃべります。 並木飛暁/メディアワークス文庫 @mwbunko
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