一、『たがや』〈5〉
7
「よし。帰る前に、お参りだ」
そうだった。せっかく観光地にきたんだから、お賽銭ぐらい投げて帰りたい。
夕方七時過ぎの浅草寺は、だいぶ
ほろ酔いの先輩と一緒に、階段を上って賽銭箱へと近づいた。
右手がふさがってるから
それぞれ百円玉を一枚投げて、お願いして、頭をさげた。
いま来た階段を下り、昼間の喧騒が嘘のような人もまばらな夜の仲見世通りをふたり並んで歩いていく。
「点滴ちゃん、なにをお願いした?」
「……『明日うまくいきますように』って……あの、先輩は?」
「ははは、聞かねぇほうがいいかもよ?」
いたずらっぽく笑う先輩の顔を、わたしはじーっと見あげた。
「病院を抜けだした点滴ちゃんが、このあと怒られませんようにってな」
「あ」
誰かから連絡なんてまず来ないから、携帯端末は病院に置きっぱなし。連絡のつかない看護師さんは、きっと今ごろカンカンだろう。
「……そのお願いは、ちょっと叶わなそうです」
「でもな、安心しろ。実はもうひとつ、お願いしたんだ」
「ふふふ。百円玉一枚で、ふたつも、何をお願いしたんですか?」
先輩の返事を聞いて、わたしのかすかな笑顔はこわばった。
「点滴ちゃんの明日の『失敗』が、いつか、どこかで、ビッグな『成功』につながりますように、ってな」
え、『失敗』って……。
四月のほわほわ温んだ暖気が、さーっと一気に冷え固まった。
「おいおい。そんな顔すんじゃねーよ。つーか、前髪で目ぇ隠れてんのに夜道で表情こっちに伝わるって、どんだけ凹んでんだよ。すげぇな」
心から放たれた先輩の声は、たしかに矢のように届き、わたしの心を辛辣にえぐった。
「基本、人生は逆風なんだ。明日は記憶に残るくらいに、ボッコボコに失敗しろ」
こういう時って普通は「明日はがんばれ」とか「信じてるぜ」とか「ありのままの姿を見せるといいとぼくは思うんだよ」とか、耳通りの良い言葉で応援をしてくれるものなんじゃないのかな?
「いいか。よく聞け、点滴ちゃん」
へらつきのカケラもない、真剣な表情だった。
「正直に言うぞ。明日はどうせ失敗だ。あのオッサンは落研OBで、しかも元・部長ときている。わざわざはるか昔に卒業した母校の学生寄席に来るくらいの、耳の肥えた落語フリークなんだ」
急に否定されて気落ちして、うつむいた。自分のボロい白スニーカーのつま先が目にはいった瞬間、わたしは歩くのをやめてしまった。
もとはといえば、売り言葉に買い言葉で、先輩がいいだしたことなのに。
「だからあのオッサンを技術で笑わせることは、素人の点滴ちゃんにはできない」
ああ。冗談を言っているわけじゃないんだ。楽しかった今日の買い物の思い出が、ネガティブの点描でじわじわと黒く塗りつぶされていく気がした。
返す言葉をさがすどころか、自分のつま先を見るわたしは死んだように無口。
すると――。
「……落語の登場人物ってさぁ」
話の転換に、わたしはチラと、顔をあげた。
「どうせ失敗しかしねぇんだ。一生懸命やったって、ダメなヤツばっか。要領が悪い、察しが悪い、なんたって頭が悪い。グズ、ばか、間抜け。ギャンブル好きに、女好き。どいつもこいつも大半が、うまくいかねぇ不遇な連中なんだ」
ねぇ。
なんでそんなに、わたしの目を射て言うの?
わたし自身が『うまくいかねぇ不遇な連中』に重なり、ますます落ちこむ。
「でもなぁ、点滴ちゃん。人間、みんながみんなできるヤツばっかりじゃねぇだろ? 努力したって、ダメなものはダメ。がんばったけど、いつだって失敗」
先輩は今、落語の話をしているんだよね?
わたしは自分の人生をなぞられている気になってしまう。
「でも、それでよくないか? 明日だってそうだぞ。立ちむかっただけで充分。別に乗り越えなくたっていい。落語ってさ、ダメな人間をダメなまま、正面から受けいれてくれんのよ」
落語は、人間の業を肯定してくれる。
などと先輩は言ったけれども、このときわたしはなんにも理解できなかった。肯定どころか、自分の可能性を否定された気しかしなかった。
「ダメだったときにはさぁ、『やっぱダメか~』って、失敗した自分を指さして笑っちまえばいいじゃねぇか。それから次いこうぜ、次。な?」
それは……ちがうよ。
さっきの居酒屋で先輩が「そのままが一番良い」って言ってくれたことは、わたしに前向きな力を与えた。先輩の言葉を聞いて、変わらなきゃいけないって思っていたはずのダメな自分自身を認めてもらって、救われた気がしていたのに。
「わたし、自分が嫌いなんです。変わりたいんです」
やっと動いた唇から、わたしは言葉をしぼりだした。
「ダメな人間は、どんなに一生懸命がんばったって、みんなから笑われつづけなきゃいけないんですか?」
「落語は、笑われるものじゃない。笑わせるものだ」
何ごとか大切なことを伝える口ぶりだったけど、わたしにはさっぱりわからなかった。先輩の言う形で「ダメな自分」を認めてしまえば、わたしはこのまま変われないと思うんだ。
「とにかく、明日は失敗だ。テキトーにやれ。まちがっても、病院に帰ってから練習なんかするんじゃねぇぞ。いいな?」
いったいどういう了見なのか。
仁王像のケンカを買った張本人が、わたしにそんなことを言いつけたの。
8
夜の浅草からひとり病院に戻り、看護師さんたちにさんざ怒られまくってから。
携帯端末で先輩の動画を研究した。イヤホンはコンビニで買ってきていた。
先輩の言いつけを、わたしは守らなかったんだ。
明日は退院だ。早起きして、退院の手続きをささっとすませ、逃げることならいくらでもできるだろう。でも……。
この「とっておきの偶然!」が、わたしが嫌いなわたし自身を、ほんの少しでも変えてくれるかもしれない。そんなかすかな期待があった。
そんな希望的観測を胸に、小さな画面で、動画をよくよく研究すれば――。
侍と職人で視線を左右切り替えたり、人物によって声色を変えたり。馬上から槍でたが屋の命を狙う目線は下向きだし、はるか上空をぽーんと飛ぶ侍の首を目で上に追う動きもあった。
「朝、目が覚めて、先輩になっていたらどうしよう」
なんてありえない不安が浮かぶくらい、わたしは動画の先輩を真似た。
所作のついた十分間は、信じられないほど長かった。最初の三十秒間の所作を覚えるだけでも難しく、目線の動きに限定したって、何度も何度も一時停止と再生を繰り返した。音と演技は違うから、一発じゃ覚えられないんだ。
人情味たっぷりの怒れるたが屋。部下にたが屋を襲わせる侍。やじ馬A&Bのすっとぼけた会話。
視線や動きや表情が、こんなに感情を表すものか。
先輩から「能面みたい」と言われたわたしからすれば、これは新鮮な経験だった。
ベッドに正座の練習は深夜まで続き、気づけば端末の横で、寝落ちしていた。
そうして翌朝、午前八時過ぎ。
ピンクの着物を、ネット上の動画を参考に、藍色の帯でひとりで無理やり着付けた。退院後の日常生活のために大手通販サイトで注文しておいたマイ点滴ポールを握り締め、本番の舞台となる春の屋上庭園に、雪駄で足を踏みいれた。
「……あ。ここ、素敵だなぁ」
約束の屋上庭園は、植えこみに春の花がいっぱいの、こじゃれた公園のような空間だった。そよと春風がほほをなぜる。四方の金網のむこうには、ぬける春の青空が見えた。なにも気負いがないのであれば、本当に晴れやかな憩いの場だ。
ふさぎこんで顔を下にむけていた入院中には、こんなきれいな庭園が自分の真上にあるなんて、気がつく余裕はなかったよ。
袂から出した高座扇子で、ベンチに携帯端末を固定した。
夜通し覚えた所作がきちんと身についたか、録画して確認したかったんだ。
着るものだけはいっぱしのズブの素人がひとり、地べたに正座。
足の甲に砂利が食い込む。かなり痛い。雪駄を足の甲に敷いて痛みをごまかし、まずは一回通し稽古。
『おうおうっ、そこの
中断し、撮ったばかりの映像を見れば、ますます正解がわからなくなる。
「うーん、なんか、ちがう?」
先輩の動画ですぐに正解の再確認。
「……へぇ。なにかに立ちむかう人って、こういう表情するんだなぁ」
どれくらいの時間、演技と録画を繰りかえしたんだろう。
途中、つかれて、足袋の両足を投げだした。ピンクの着物で、地べたに寝転ぶ。
空は一面、青い春。青春なんて、わたしの過去にはまるでなかった。
でもわたし、いま少しだけ、楽しいなと思えている。何かに対してこんなに一生懸命になっている、初めての自分を見つけたから。
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