一、『たがや』〈4〉



 久しぶりの、自分ですらブランドがわからぬほど地味な長袖ボーダーシャツは、違和感そのものを着ている気がした。

「あの、なぜここへ?」

「いいから、いいから!」

 四月の第二土曜日の浅草は、外国人観光客でごった返していた。ちょうど「江戸吉原 おいらん道中」っていう純和風パレードがちょっと離れた千束のほうで催されていたことも、混雑に拍車をかけているのだろうか。

 輸液パックのない点滴ポール片手に歩けば。

「おねーさーん。どうして金属の棒なんか持って歩いてんのかなー?」

「ニンジャ! ヘイ、ニンジャ!」

 雷門交番で職務質問されるわ、外国人観光客からは忍者の武器だと勘違いされて記念写真を迫られるわ、ひさしぶりの人ごみはなかなかタイヘンだった。

 わたしはビハインドに先導され、浅草・雷門をくぐった。

 ひょっとしたら、彼が薫陶を受けた高名な師匠筋なんかを紹介してくれて、明日の口演に備えるのかもしれない。

 などと当たりをつけたのだけれど、彼がわたしを浅草へ連れてきた目的は。

「点滴ちゃん、形からはいるぞっ」

 買い物だった。

「いやぁ、オレ、後輩を買い物に連れてくるの、楽しみだったんだよなぁ」

 聞けば今年、西杜大学の落研入部者は、ゼロ。代々続いた「新入生歓迎買い物ツアー」をできずに、ちょっと凹んでいたらしい。

「ん……後輩? わたし、なんで後輩扱いなんですか?」

 休学して留年しただけで、同い年のはずなのに。

 そもそも、入部してないと思う。

「うちの部ではさ、途中で入ってきた人は何歳であっても後輩になるんだ。これがプロの噺家一門なんかだと、一日遅くたって後輩になるんだってよ。俺の責任と監督で、あしたは点滴ちゃんに落語をやらせんだ。後輩みてぇなもんだろうに?」

 そうかな? とは思ったけれど、ともあれこれ以後、わたしは彼を先輩として扱わねばならないらしい。

 でも、こちらとしても、まぁそこに特段の異論はない。わたしはわりと流される。嫌なら、辞めれば、それでいいし。

「まずは、カゼを買うよーん」

 カゼというのは扇子のことだという。ちなみに仁王像が言っていた「正面を切る」っていうのは、高座からきちんとお客さんにむかうことなんだそうだ。

「手ぬぐいはマンダラっていう。でもさぁオレたちは学生だから、そういう専門用語なんかは使わない人も多いけどね」

 雷門を抜けてちょっと先にある、扇子の専門店へやってきた。

 格子戸をがらがらとひき、敷居をまたいですぐ、わたしはハッと息をのんだ。

 キレイだなぁ……。

 目にも涼やか、和風の美。色とりどりの扇子の数々が、所せましと飾られていた。

「お。いい顔してんな。カゼは、オレが買ってやるよ」

「あ、いえ、あの……」

 言いにくいけど、声をしぼり出す。

「要らないです」

「おいおいおい、さみしいこと言うんじゃないよ。つーか、扇子しか売ってない店ん中で、よくもそんなことが言えたもんだな。ははは」

 メガネの店主がレジからじろりとにらむのを横目に、先輩は眉を困らせわたしの失言を軽く笑った。

「うちの落研にはさ、先輩がカネ出し合って後輩に扇子を贈るっていう、古くてキレイな文化があるんだわ」

 飾られている色とりどりの扇子の中から、鼻歌交じりの先輩は、白一色の扇子を手に取った。

「高座扇子っていってな、高座で見栄えがするように、普通の扇子より大きいんだ。まじめに練習してりゃあ一年くらいで破れちまう。でもオレなんかいかんせんカネがねぇから、入部のときに先輩たちに買ってもらったやつを、直しながらいまだにずーっと使ってんだよな」

 白い高座扇子の代金は二千円ちょっと。

 自分の扇子も買い換えるお金がないはずの先輩が払ってくれた。

 その後、他の店で雪駄や足袋を買い、ついでにあげまんじゅうも買い食いし、マンダラを買い、浅草で最近有名だというメロンパンを割ってふたりで半分こし、さてさて、残すは今日のメイン・イベント。

 先輩には先導されて、暮れ始めた浅草には後ろから追いたてられて。

 わたしたちは最後の店に到着した。

「さあラストは古着屋だ。関東の落研連中の間では、けっこう有名な店なんだぜ」

 店に入るや、店のおばさんに挨拶しながらレジ前を素通りし、店のどんつきへとわたしをつれていく。

 そこは赤札でいっぱいの、女性向けのセールのコーナー。

「この辺の棚は、着物も帯も、洗えるポリエステルがほとんどだ。なんたってここの古着屋は安い。そのうえ仕入れはマメだから、掘り出し物がけっこう出る」

 言いつつ先輩はとっかえひっかえ、わたしの肩首に着物をあてては戻し、何度も何度も品定め。真剣に悩んでくれている。

「うーん。暖色系で派手なくらいのほうが、健康的に見えていいかもしんねぇな」

 似合いそうなものをさがして相手に手渡す行為って、思いやりや優しさを手渡す行為なのかな? 先輩の思いやりの先に立ち、真剣に悩んでくれている顔を見ていたら、なんだかあたたかい気持ちになった。

「……ん!」追って満足そうに笑っていた。

 先輩は着物を決めると、ワゴンから帯をさっと手にとった。

 レジへと戻り、店のおばさんに着付けの手伝いをお願いする。

 おばさんはわたしと着物を回収すると、大きめの試着室に一緒に入り、カーテンをジャッと雑にしめた。

 試着室内の鏡に反射したおばさんは、てきぱきと動きながら感心していた。

「お嬢さん、これ、いい着物だよ。カレシさんは、よくこんな上物を見つけたね」

 カレシと言われてパニックになって、小刻みにぷるぷると首を横にふるだけで、どう返事をしたのかは覚えていない。ただ、鏡の中のわたしは、耳まで真っ赤な焼け石みたいに熱をもって固まっていた。

 着付けが終わっても、わたしはなかなか試着室の外には出られなかった。おばさんが試着室から出てすぐ、カーテンを内からジャッと閉め直してしまったくらいだ。

 カーテンの隙間から顔だけ出して、おずおずと、先輩に声をかける。

「き、き、着てみました。あの、か、か、かなり……派手/

「おう。そしたらカーテンをあけろ。さっさと出てきて見せてくれ」

 待ちきれない、という感じの先輩の前に、わたしは意を決して進みでる。

「ど、ど、どう、です、か?」

 体の芯からカーッと湧き出す気恥ずかしさで、わたしはまっすぐ先輩を見あげることができない。

 上目でおずおず先輩を見ると、にこーっと、おもいっきり破顔していた。

「思った通り、よく似合う! 自分でもそう思うだろ?」

 似合うかどうかの基準なんて、知らない。けれども「よく似合う!」とほめられたことただそれだけで、わたしの胸は身の丈に合わない幸福感でいっぱいだ。

「鏡ん中よーく見てみろって!」

 先輩が人さし指で示す先、ふり返った鏡の中には。

 ピンクの着物に藍色の帯で、伏目にほほえむ、初めて見るわたしの姿があった。

 日も暮れたころ、わたしたちは浅草の居酒屋にいた。

 ここは通称「ホッピー通り」というらしい。台東区から指導が入るギリギリ加減で公道スレスレにテーブルとイスを置く、ざっくばらんで大らかな下町テラス席だ。

 通行人がすぐ傍をかすめる環境で誰かの視界に入りながら食事をとるという経験は、わたしにとっては異国に来たくらいのカルチャーショックだった。

「なぁ、点滴ちゃん。なんでウケたと思う?」

 突然の質問に、熱々の焼き鳥の皿から先輩へと目線を上げた。

 先輩がグラスを持って苦い顔なのは、ビールのせいってわけでもなさそうだ。

「昼の『学生・病院寄席』で、点滴ちゃんはズブの素人なのに、なんで笑いがとれたと思う?」

 たしかに病院の高座では、多少の笑い声がつぶった目の向こうから聞こえてきた。

「えーと……。大会用の台本を、カンペキに暗誦できたか/

「んなわけねーだろ。まぁ、とんでもなくすばらしい記憶力っていう、特殊な能力が大きなアドバンテージになったことは間違いねぇ。しかしだ」

 ビールを傾ける先輩は、なんだか悔しそうにも見えた。

「本当はさぁ、暗記だけしたってウケるわけねーのよ」

 鶏皮のためにあけたわたしの口が「え?」と固まり、タレの香りだけが鼻に届く。

「カーナビがあの台本をしゃべって、笑いとれるかい?」

 とれない、絶対。

「オレは『思いっきりスベってこい』っていったんだぜ? 点滴ちゃんは付け焼刃のど素人なんだ。所作もなにもねぇ。笑いが起きるわけがないんだ。本来はな」

「だったら、なんで笑った人がいたんですか?」

「決まってんだろ。おもしろかったからだ」

 放り投げた。あんまり答えになってない。

「点滴ちゃんは、オレにはない才能を持ってんだよ」

 わたしはこの話題を深追いしないことにした。

 だって先輩はちょっと悔しそうで、やっぱり少し苦い顔。

 わたしはどう返すのが正解かわからず、先輩は先輩でなにか思案気にビールを飲む。周囲の楽しげな喧騒の中、わたしたちの席だけがすっかり静かになってしまった。

 先輩はわたしを直視して、ぼそりと告げた。

「点滴ちゃん。さっきのピンクの着物、すげー似合ってたなぁ」

 ほめられた気恥ずかしさもあり、わたしはうつむく。うつむきついでに、足元に置いた紙の買い物袋に目をやった。

 さっき試着室から出たわたしを、先輩はびっくりするくらいほめてくれた。

 それが、こんなに派手な着物を買う決め手になったんだ。

「あのぉ、先輩」

 着物の話題になり、それを買った目的に、思いが至ったためだろう。胸の奥でかすかにくすぶっていた焦りが、とうとう口から漏れてしまう。

「明日、わたし、いったいどうしたらいいんですか?」

 先輩との買い物は本当に楽しかったけど、結局、落語の練習はしなかった。

 格好だけはいっぱしになったけど、元部長だというあの落語ツウを笑わせるための参考になることは何ひとつなかった。

「今日と、同じでいい。つーか、同じがいい。ああ、目は開けとけよ。でねぇと、あの元部長っつーオッサンがまたキレるから」

「え、でも……」

「点滴ちゃんは、そのままが一番良い」

 そのままが一番良い。

 先輩がどういう思いで言っているのか、このときのわたしにはわからなかった。

 でも、先輩にそういってもらったことで、胸がほわっとあたたかくなった。誰かに認めてもらうことが、こんなに心に火を灯すなんて、わたしはずっと知らなかった。

 先輩の声を聞くだけで、わたしは不思議と「明日だってだいじょうぶ」っていう前向きな気持ちになれたんだ。

 それはきっと、この人の、声の力なんだろうなぁ。

「なぁ、点滴ちゃん」

 先輩は、まるでわたしの心を読んだかのように、「声」にまつわる話を始めた。

 まっすぐな目でわたしを見つめる。

「『話す』は『放つ』、なんて話があるんだ」

 わたしは黙ったまま、真剣な目を見つめかえした。

「『話す』ってのはさ、自分の気持ちを、矢のように『放つ』ことなんだよな」

 じっと見つめてくる先輩から、わたしは目が離せなかった。いつも他人と視線を合わせられないわたしからは考えられない。今日初めて会ったっていうのに。

 手にしろ目にしろ、どうして先輩が相手だと、だいじょうぶなのかな?

「『話す』ってのはさぁ、自分の気持ちや心や命を、削って、言葉に乗っけて相手に『放つ』ことなんだ。相手に届ける行為なんだ」

 仁王像に怒った先輩の声が思いだされる。

 ――声にだしたことを、オレは絶対に守る!

 ヘラヘラとした擬態で見えない先輩の芯の熱さは、色を持たないくせに触れば火傷するほど熱い水蒸気に似ていた。

「だから明日はさ、そのまま、自分の気持ちを言葉に乗っけて放ってみろ。あの落語フリークのオッサンにだって届くかもしんねぇぞ。……しかし、うらやましいね」

 先輩はグラスをあおった。

「点滴ちゃんには記憶力以外に、自覚のねぇ、とびっきりの才能があるんだぜ?」

「あの、えーと」するんと、出てきた。「わたし、がんばります」

「おや、点滴ちゃん?」

 伝票を手に、ふらと先輩は立ちあがった。満足そうに、目じりが下がる。

「『がんばります』だなんて、たまにはポジティブなことも言えるんじゃねぇか」

 うれしそうに指摘する先輩を、わたしはあわてて追いかけた。

 本当だ。教えてもらわなかったら、気づかなかった。

 自分の口からするんと出たのは「がんばります」なんてたったひと言のポジティブ発言。それでも、なんだか少し変われた気がして、ものすごくうれしかった。

 きっと、先輩のポジティブがうつったんです。

 とは思ったけれども、言わない。ヒミツ。教えない。



【次回更新は、2019年7月2日(火)予定!】

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