一、『たがや』〈3〉
5
気絶から回復し、ことの顛末をビハインドから聞き、愕然とした。
「……ああ、またやってしまった」
半身起こし、横座りのままつぶやいた。傍に倒してあった点滴ポールを悔しさついでに握り締める。
記憶をなくしているくせに、そのなくした過去自体に凹んでいる泥酔者の気持ちがよくわかる。酔ってうっかり知らない男性の家に泊まったことなどないけど、小説なんかと比較するに、だいたいこんな気分なのかもしれない。
他人の目がなく家でひとりのときには、ポールなしでも自由に動けるのになぁ。
「うちの先輩ふたりには、帰ってもらったぜ。片方は問題ないけど、もう片方は激ギレしてたな。ははははは」
そんな、笑っている場合じゃないよ。罪悪感につぶされそうだ。
前髪が必死に隠すわたしの表情を見とめ、彼はわたしの心中を察したようだ。
「そしたら点滴ちゃん。一緒に謝りに行きますかね」
ビハインドは、ピッと、病院の天井を指さす。
え、上?
「先輩たちに謝るのは、週明け月曜日でいいじゃないの。口演を聞きに来ていたオッサンの肩に、そのポール、直撃してんだよ。そっちが先だ。2Fにいるってさ」
先導され、わたしはその肩にケガをさせてしまったオジサンに、謝りに行くことになったんだ。
2Fの外科待合場所で、中年女性看護師さんが心配そうに教えてくれた。
「荒っぽい人よ。『念のための検査なんか要らねぇ!』って、かなり暴れたの」
ジャマにならぬよう壁際で、その男性が診察室から戻るのを待つ。
「あの、ビ、ビ、ビハインドさん?」
正直、まだこの珍妙な名前には慣れていない。
「んあ? 『ビー』とか『ビーくん』でいいよ。みんなそう呼んでるし」
「ケガをさせてしまった方は、何科に入院されているんですか?」
「いや、入院患者じゃなかった」
「じゃあ、お見舞いの?」
ビハインドは淡々とかぶりをふる。
「ふらーっと来た、壮健なオッサン」
「???」
「だから、ふらーっと『学生・病院寄席』を聞きに病院に来た、壮健なオッサン」
「……そんな人、いますか?」
「いるよ。つーか、いた。ほら。あの人」
ビハインドの指の先には、男らしい眉毛と体躯の、還暦過ぎほどの仁王像。
六十歳のことを耳順というはずなのに、耳順を経ても、あんまり他人に耳を貸さなそうな印象を受けた。
診察はたったいま終わったらしい。動く仁王像は、わたしたちライトグレーの和服と紺パジャマのコンビを見つけると、ホリの深い大きな目玉でぎょろりとにらみつけてきた。大きく肩を怒らせて、のしのしと近づいてくる。
腹からのよく通る大きな声で、まずはわたしに呼びかけた。
「おう。おね―ちゃんは、さっきの『病院寄席』の/
「すみませんでしたっ!」
相手の言葉も終わらぬうちに謝ったのは、横から入ってきたビハインドだった。
金髪頭をあげるや、太鼓持ち然にへらへらへつらう。
「いやいやいやいや~、ケガをさせてしまって、本当にすみませんでした。肩のおケガはだいじょうぶですかね? ホントに、ホンっトに、もうしわけないです!」
「ケガ? はっはっは」
病院には似つかわしくない、やっぱりよく通る、元気な声が返ってきた。
「んなもんしてねぇよ。オレは見た目どおりに頑丈なんだ」
などとしゃべりながらも、筋肉質の仁王像の視線はチラチラと、ビハインドのかげに隠れるわたしをずっと気にしているようだった。
「でもな、おねーちゃん」
笑っていたはずの仁王像は、表情を一変させてわたしをにらみつけた。
「オレは、お前に、頭にきてんだよな」
仁王像の表情は、あからさまな怒りでいっぱい。
長身のビハインドを脇にぐいと押しのけて、仁王像はわたしに詰め寄る。
「さっきの開口一番は、なんだい。長い前髪でバレないとでも思ったのか? おねーちゃん、目ぇつぶってただろ?」
それは、他人の視線が恐いから……。
「カゼも使わねぇ、正面も切れてねぇ」
落語の専門用語かな? 発言の意味が、ちょっとよくわからなかった。
「目ぇつぶってネタやるだなんてさぁ、わざわざ聞きに来てくれたお客のことを、バカにしてんのかい? そもそも、なんだっ、その金属の棒はっ」
「いやいやいやいやっ。あんま怒んないでくださいよ~っ」
ビハインドがとりなそうとするけど、仁王像はさらに声を張った。
「だいたい、なんで女が落語やってんだ? カレシいないの? なに、ヒマなの? 女なんか、ヘラヘラどっか遊びに行って、甘いもん食って、テキトーに写真撮ってSNSで見栄を張ってりゃそれで充分じゃねーか」
どうやら相手方に、わたしの話をまともに聞くつもりはないらしかった。
「くそっ。なんだか見てるだけで腹たつヤツだな。どけ!」
仁王像は大きなぶ厚い掌で、わたしを肩ごと雑に押しのけた。
わたしは無言。だって聞く耳を持たない人に、声を届けたいとは思わない。
どんなにひどいことを言われたって、わたしがガマンすれば、ま、それでいいや。
こうしてわたしの頭にはまたひとつイヤな記憶が黒い染みのように増え、それはお風呂やトイレや日常生活で突然に再生されては、わたしを苛むのだろう。精神を蝕むのだろう。
相手がわたしを侮蔑したことなんかすっかり忘れた後であっても。いつでも。どこでも。何度でも。
けれども。
「……オッサン、待てよ」
ビハインドから静かに放たれたのは、心からのまっすぐな怒気。
「謝れ」
相手に食らわせることを前提とした、レーザービームのような熱い声。
「ケガさせちまった手前、黙って聞いてりゃふざけたことばっかりいいやがって」
さっきまでの太鼓持ちがウソみたいに、堰と啖呵を同時にきった。
「いつの時代だよ、その異常な女性蔑視発言。それをナチュラルにぶっ放せるって、頭おかしいんじゃねぇか? 頭がおかしいっつってもなぁ、毛の少なくなった頭の外側の話じゃねぇぞ。脳ミソの少ねぇ内っ
「なんだと……っ」
仁王像は大きな目玉でビハインドのことをぎょろりとにらむ。湯気も出さんばかりに皮膚の下ではちきれそうな真っ赤な怒りを、顔いっぱいに湛えたまま。
「えええええ、ビ、ビハインドさぁぁぁん……」
横からそっと和服の袖をひっぱったけど、「うるせぇ」と振り払われた。
「点滴ちゃんをバカにしたこのオッサンを、オレは許さねぇ。自分のことなんだぞ。点滴ちゃんも文句のひとつくれぇ言えってんだ。ほらっ、今っ、なんか言え!」
他人がわたしのためにこれほどまでに怒ってくれるなんて、そんな経験は今までなかった。もう、それだけで充分だった。周囲の患者たちの視線が集まってきた。よけいな騒ぎは避けたいなとはチラと思って、上目で様子をうかがった。
仁王像の語気は荒く、顔は赤い。
「お前もこのパジャマ女も、本当に落研なんだよな? なんだ、この点滴ポールは。そもそも実力の無いヤツを高座に上げるんじゃねぇ。オレが西杜大の落研で部長をやってたころは、そんなヤツぁもう鉄拳制裁でボッコボコだったぞ」
どうやら仁王像は、西杜大の落研OBらしかった。
「あぁそうかい。でもな、先輩だろうが関係ねぇや。とにかくオッサン、謝れよ」
「なぜだ? オレが謝る必要がどこにある」
「かぁーっ。話を聞けっ。この子をバカにしたのを謝れって言ってんだよ」
「話を聞けだぁ、なにを偉そうに……ん?」
ふっと、死神がろうそくを消したみたいに、仁王像の顔から怒りが消えた。
なにやら黙考し始める。
「おいおい、オッサン。黙っちまって……どうした急に」
いったい何を考えていたのか、少ししてから、仁王像はにやりと歯をこぼした。
「よし。はなしを聞いてやる。OBのオレに聞かせてみろよ、はなしをよぉ」
仁王像の発言の意味がわからずに、わたしたちは顔を見合わせる。
「明日、オレの前で一席ぶて。『
仁王像は鼻で笑った。
「この病院にはな、屋上に庭園がある。明日の正午、そこでさっきの『たがや』をやれ。オレを笑わせれば、いくらでも謝ってやる。その代わり、笑わせることができなければ……」
わたしに向いたねばつく目つきから、何らかの魂胆があることは明らかだった。
「そのおねーちゃんに、こっちの言うことを、なんでも聞いてもらうぞ」
「よーし、やってやんよ!」
戦う目をしたビハインドは、わたしを首根っこごと抱えこんだ。
「おい、点滴ちゃん。このオッサンに、目に物みせてやるぞ!」
わたしに顔を近づけたまま、反対側の手で、力任せに自分の胸をどんと殴った。
「声にだしたことを、オレは絶対に守る!」
その男気は素敵です。
けれどもそこに、わたしの意向は関わらないのね、とは薄ぼんやりと思ったんだ。
「……怒ってる?」
怒っているわけではないけれど、怒っていないわけでもない。
が、わたしとしても、仁王像にはケガをさせてしまったわけで、そこはきちんと許してほしいと思う気持ちはあった。
「返事しない女の子は、けっこうな確率で怒ってるよなぁ」
2Fからふたりでエレベーターに乗りこんだ。
「『もう放っておいて!』って言ってても、放っておくと『なんで心配してくれないのっ?』って。どちらにしたって泥沼だからなぁ」
明日、落語ズブの素人のわたしが、落研OBの元・部長を笑わせるなんて。
売り言葉に買い言葉とはいえ、この人、いったい何考えてるんだろう?
7Fのボタンを押し、扉がしまり、チラと横目でうかがうと。
え?
あごに手を当て、わたしの体の上から下までを、舐めるようにじーっと見ていた。
エレベーターという密室で、男性の視線がわたしの体のラインを何度もなぞる。入院生活で慣れきっていたけど、そういえばわたしは薄い紺パジャマ姿。今さら顔が真っ赤になり、全身の凝視にけっこうな嫌悪。
点滴ポールを抱きかかえるようにして、彼の視線を警戒してしまう。
「なぁ、点滴ちゃん」
ふたりきりの密室で、ぐいと近づき、キラキラした目で勢いこんで聞いてきた。
「普段、なんにもしてないのに笑われることって、ないか?」
「え? ああ……しょっちゅうですけど」
子どものころからそうだった。普通にしゃべって、なぜだか笑われてしまう日常。バス停でただ並ぶだけで、笑われるのなんか茶飯事。
高校の体力測定で反復横跳びをしたときだってそうだった。わたしが真剣にぴょんぴょん動くだけでクラスは大爆笑、体育教師は大激怒、わたしはひとり大腐り。
その日の放課後、暗い顔でひとりうつむき加減に歩いていても、見知らぬおばちゃんに「楽しそうな足どりね」なんてウキウキと声をかけられる始末。
どうやらそういう、ただ生活するだけで笑われやすい雰囲気を、わたしは持っているらしかった。
「やっぱり、そうだよな? 生まれてこのかた、そういう感じなんだよな?」
強く念押しされ、流されるようにうなずいた。嫌でしかたのないコンプレックスを、あんまり意識させないでほしいの。そんなことを確認するために、さっきはじーっとわたしのことを舐めるように見ていたんだろうか?
7Fに着き、上品な電子音と共にエレベーターの扉があいた。
「……よし、決めたっ。出かけるぞ」
エレベーターをでたビハインドは、着替えてこいと真顔で指示した。
「出かける?」
わたし、今日まではまだ、入院患者なんですけど。
彼は袂から扇子を取りだすと、パシッと手で受け、ひとつ笑った。
「いざ、浅草!」
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