一、『たがや』〈2〉
3
びっくりした。
『えー。時は安永。江戸時代』
イヤホン経由の思いがけない彼の美声に、わたしは一発で魅了されたんだ。
『ちょうど杉田玄白たちが、翻訳したての『解体新書』を世にだしたころのお話なんだそうですが……』
艶のある低音。
淀みない発声。
なんなら十分間ひたすら伸ばした『えー』だけでも、ずっと聞いていられそうだ。
『毎年五月の二十八日、当時の隅田川では両国の川びらきってぇのがございまして、まぁ、いまで言う花火大会みたいなもんなんスかね……』
動画の彼は、今とおんなじライトグレーの濃紺無地の着物に、黒縞の帯。金髪&三連ピアス。へらへらしてないシャープな顔つき。なにより、耳に届くは低めの美声。さすがに柑橘系の香りは、画面越しには届かなかったけど。
初めて聞いた落語自体は、正直、ほとんどわからなかった。
それでも、画面から目が離せなかった。この人がどうやらすごい人らしいということだけは、何も知らない素人のわたしにだって十二分に伝わった。クールな佇まいや口調の中にも、熱を孕んでいるのが、目や耳を通して伝わってくる。
わたしはこの人の声にひきこまれ、じっと話を聞きつづけた。
『横一文字に刀を払うとっ』
画面の中のビハインドは、持っていた扇を刀に見立て、架空の侍の首をはねた。
『侍の首は中天にぽーんと飛んでった。そこで周りの見物人がぁ……』
おどろいた。残り時間を確認すれば、あっという間にラストシーンのようだった。
口に手を添えた金髪和服は、天にむかって威勢よく声を張りあげる。
『上がった上がった上がったぃ! たーがやーっ!』
万雷の拍手の中、正座で額づく金髪男子。
十分ほどの動画が終わると、わたしは物足りなさを感じてしまった。落語はひとつもわからないのに、もっと聞きたくなっていたんだ。
彼の声は、わたしに、とびっきりの安心感をもたらした。干天の慈雨がひび割れた地面にしみこむみたいに、わたしの心を潤し、満たし、穏やかにした。
イヤホン外せば、眉間にシワの険しい顔で、わたしにガンをくれる落研男子。
「……点滴ちゃん、笑ってんね? まぁ、悪い気はしねぇよ」
どうやらわたし、本当に珍しいことなんだけど、無意識にほほえんでいたみたい。
「しかし、ずいぶんな余裕だな。いまから暗誦してもらうんだぜ?」
端末とイヤホンを返しながらうなずく。
「さすがに
点滴ポールを握ったまま、大学病院の忙しそうな受付カウンターを遠くぼんやり眺めつつ、口をひらいた。
『えー。時は安永。江戸時代』暗い小声でするすると、いまの十分間を復唱する。『ちょうど杉田玄白たちが、翻訳したての『解体新書』を世にだしたころのお話なんだそうですが、毎年五月の二十八日、当時の隅田川では両国の川びらきってぇのがございまして……』
侍の首が飛ぶラストまでを、ひとつもトチらず諳んじた。
終わって彼の顔をチラと上目でうかがえば、目をパチパチと驚いている。
「……すげぇな。ホントに一字一句、間の取り方まで、なんなら
もう、彼は怒っていなかった。珍しいものを見つけた子犬みたいに顔を寄せ、興味深そうに、前髪に隠れたわたしの顔をほぼ不躾にのぞきこむ。
「なぁなぁ、どういうしかけだい?」
「わたし、一回耳から聞いたことって、一発で完全に覚えちゃうんです」
でも、わたしにとってこの異常な記憶力は、本当に邪魔なものだった。
「このせいで、入院したんです」
異常な記憶力に、生まれ持った強烈なネガティブ思考が合わさったことが、心療内科入院の原因だった。
生まれてこのかた、そもそも、ぼっち。
大学合格後、かすかな夢やわずかな希望を胸に東京へやって来ても、女子の派閥に、人の集まりに、とけこむことができなかった。
気がついたころには友人ゼロ。
地元と状況は変わらなかった。
大学生活ではただただネガティブな経験だけが忘れられない記憶として、わたしの頭に堆積しつづけた。すべては些細なことなんだけど、「ちりも積もれば」って言葉もある。想像してみてほしい。自分の脳みそが、日々ネガティブな言葉や記憶の点描で、どんどん黒く侵蝕されていくのを。
半年後にはすっかり病んで、後期の半年間は休学した。
わたしごときが、調子に乗って、上京なんてするんじゃなかった。
独り暮らしのワンルームにこもれば、症状は悪化の一途をたどった。一月の「新年おめでとう」のころには、めでたく入院の運びとなった。
病んでいる自分に病む。
悲観と厭世は
心を病めば、体も病む。
点滴で露命をつないだ。
お見舞いに来た友人なんかいなかった。
「ふーむ。そいつぁ、えらいこっちゃ」袂に手を入れ、感心した様子で何度もうなずく。「一流のプロ棋士が、一度さした試合の棋譜を再現できるようなもんかねぇ」
興味はわたしのつまらない過去なんかじゃなく、異常な記憶力にむいていたけど。
「ははは! よし、決めた。点滴ちゃん、行くぞ!」
彼は晴れやかな顔で立ち上がると、先ほどの階段下と同じように、わたしに右手を差しだした。
「さっきもいったけど、今日は『学生・病院寄席』の日なんだ。ちょうどいいだろ? 今の『たがや』を、そのまんま高座にかけてくれよ」
言っている意味がよくわからず、わたしは少しだけ怪訝な顔になってしまう。
「なーに、思いっきりスベってこい。『開口一番』っつって、オレや先輩たちの前座なんだから」
どうやら彼は、わたしを舞台に上がらせようとしているみたいだ。
なにをムチャクチャなことを。
……でも、ね。
この人と一緒にいたら、わたし、今の自分から変われるかもしれない。そんな予感は、薄っすらとしかし確かにそこにあったんだ。だって、この人の声も、手も、今まで感じたことのないような安らぎをわたしに与えていたんだから。
彼は差しだしていた右手を引っこめ、照れくさそうに頬をかいた。
「じつはさぁ、点滴ちゃん。助けてほしいってのもあるんだよな」
なんでも、先月にサークルの先輩が大学もサークルも卒業した。他の先輩や同級生はいろいろあって来ておらず、今日病院に来ている部員は全部でたったの、三人。
今日は新年度最初の『学生・病院寄席』らしいのだが、首尾よくいかねば今後の活動にも支障をきたす。実は部の存続が、今年は危ういのだということだった。
「点滴ちゃんの力を貸してほしいんだ。頼むよ」
わたしなんかで、いいのかな?
などと、迷っている自分に気がつき、おどろいた。
自分がなにかを能動的に選択することなんて、今までほとんどなかったから。
「あっ、もう開演時間だ。いくぞ!」
すると男性のごつごつした手に、ぎゅっと手を強く握られる感触。
「ひゃ! ……え? あ、あの……」
こちらの返事も待たずに、彼は病院の廊下を雪駄でぐいぐい先導する。
「あ、そうそう。サゲの直前で、侍の首をはねるところなんだけどさ」
いまのは所作をつけずに諳んじただけ。本来は握った扇子を刀に見立て、床と平行にスパンとなぎ払うものらしい。けれども、わたしは扇子なんか持っていない。
「コレで、やっちまおうぜ!」
いたずらっぽく笑う彼が見ていたのは、もちろん、わたしの点滴ポールだ。
4
右手に点滴ポールを持ったまま、紺パジャマのわたしはリハビリ室に到着した。
部屋にはいるや、あろうことか指示されるまま、そのまままっすぐ『学生・病院寄席』の高座にあがった。他のふたりの先輩に、会う暇なんかもちろんなかった。
(うわぁ……)
正座をし、高座からリハビリ室を一望すると、お客さんの海だった。
ずいぶん年配気味の海で、全体的に暗く渋く、ナメたらきっとしょっぱいんだろう。パイプイスが何列も並び、三十人は優にいるかも。
高座から正座で客席を見おろすわたしを、お客さんたちは露骨な好奇の目で見あげかえす。輸液のぶら下がっていないただの鉄の棒は、病院内ですらこんな扱い。
でも、やっぱり、人の目のある中でこれを手放すなんて考えられなかった。
現実から逃げるように、目をつぶった。
真っ暗だ。
この世からわたしの存在が消えたみたいで、なんだか落ちつく。
あとはこのまま真っ暗な中で、暗記を披露すれば、それでいいや。
『えー。時は安永。江戸時代。ちょうど杉田玄白たちが、翻訳したての『解体新書』を世にだしたころのお話なんだそうですが……』
やっぱり簡単じゃないか。このときは、正直そう思っていた。
暗記して、それっぽい動きをそれっぽくつけて、それっぽくしゃべる。なんてことはない。わたしの異能で耳から覚えた台本を、口から音にすればいいだけ。
台本が大会用の質の高いものだからか、年配のお客さんが若い女の子に優しいからか、理由は知らぬが、目をつぶった真っ暗な中でもときに耳には笑い声が届いた。
『横一文字に刀を払うとっ』
そうしてとうとうラスト目前、点滴ポールを刀の代わりに、全力でなぎ払ったその瞬間――。
ズキン、と背中に痛みがはしった。
そりゃそうか。さっき十二段も一気に、階段を滑りおちたんだ。
掌は、ふわと、ひらかれていた。わたしの右手が……軽い。
え、これ、まずいよね?
どうやら飛んでいったのは、侍の首なんかじゃなかったみたい。
つぶった目をますますぎゅっとした。右手もぎゅっとしたけど今さらだった。背中からのいつもの恐怖が、すでにわたしを背後からぎゅっと捕まえていたのだから。
そこからの記憶は、ない。
ただ、固定の三脚で撮られた映像を、後に確認したところ――。
飛んでいった点滴ポールは、客席最前列のオジサンの肩に、ほとんど刺さるように直撃した。
いっぽう高座のわたしは、刀を右に払った格好のまま暫くじっと固まっていたんだけれど、震え、立ちあがるなり。
「きょええええい!」
黒髪ロングをふり乱しながら、高座から老人の海にダイブした。
あわててビハインドが押さえに駆けつけたものの、紺パジャマ姿のわたしはカンフー映画さながら彼の腕を巧みにあしらった挙句、右の拳で思いきり、黒縞の帯をめがけてボディ・ブローを決めていた。
自分でいうのもなんだけど、格闘技経験ゼロのわたしですら思わずほれぼれするくらいの、それはそれは美しいフォームだった。ただし表情は「修羅」って感じ。
ビハインドは、ゆっくりと膝から崩れた。
追って×字になる位置で、気絶したわたしが、その上に倒れた。
わたしのせいで、『学生・病院寄席』は中止となった。
【次回更新は、2019年6月29日(土)予定!】
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