いざ、しゃべります。

並木飛暁/メディアワークス文庫

いざ、しゃべります。

一、『たがや』

一、『たがや』〈1〉


 わりと残念なわたしの人生にぜんぶで何回「とっておきの偶然!」が用意されているのかは知らないけれど、そのうちの一回はまちがいなく、今年四月に西杜にしもり大学付属病院の階段を十二段一気にずざ――――――――――っと黒髪ロングをふり乱しながら滑りおちたあの瞬間だったんだろうなぁとは、今、ふりかえって確信している。

 明日の退院がうれしくて、ぽーっとしていたせいだろう。

 一歩踏みだした紺色パジャマの左足が、なんにも踏まずに、ガクンと沈んだ。

 右手に握った点滴ポールに力いっぱいすがったけれど、バランス崩せば、天井仰いでひっくり返る。蛍光灯が目に入る。階段の角に、お尻をモロに強打し激痛。そのままウォータースライダー状態で、声もだせずに1F床まで猛スピードで滑りおちた。

 このとき、点滴ポールが、わたしの右手を離れていった。

 輸液パックのさがっていない。

 チューブも針もついていない。

 金属の棒がただ一本に、黒い小さな四つの車輪の点滴ポールが。

「……痛たたた」

 尻や背中や腰を刺してくる強い痛みで、とても立てない。鬼おろしでごりごりに削られた気分。紺パジャマの下、後ろ半身はきっと真っ赤。

 心療内科の入院の次は、まさか外科に運ばれちゃうの?

 とは思ったけれど、それでも、頭を打っていないことに安堵した。退院が延期にならないことを願った。

 今年こそ、まっとうに、西杜大学に通うんだ……って思ったそばからこの滑落。

 わたしの人生、だいたい、いっつもこんな感じ。

 せっかく一歩を踏みだしたって、出鼻はことごとくくじかれる。つまんないのが初期設定。順風満帆って四字熟語は知っていても、そんなの体験的にわかんないよ。だって、縁がないもん。

「おいおい、あんた。平気かい?」

 だから、椿事ちんじだった。

 心を病んで暗く湿気ったわたしなんかに、手を差しのべてくれる人がいたんだ。

「ほら。つかまれよ」

 反射的にすがろうとしたわたしの右手は、それでも、途中で止まってしまった。

 他人と距離を縮めるのは、精神的にも物理的にも、ついつい恐いと思ってしまう。

 でも本当は、誰かを待ってるわたしの右手。

「……あ」

 宙ぶらりんで止まった右手が、男性のごつごつした手にぎゅっと強く握られた。

 見あげた先の長身の男が、恐くて、身がすくんだ。わたしの言葉は続かない。

 金髪ツンツン。右耳に銀の輪のピアスが三つ。そのくせなぜだか、ライトグレーの着物を着てる。黒のシマシマの帯よりも上、がっしりとした上半身は、明らかにスポーツ経験者だと思われた。ほんのかすかな柑橘系の香りが鼻をくすぐる。

「くら~い顔して、目に力がねぇけど、頭とか打ってねぇよな? 平気かい?」

 ……あれ?

 点滴ポールを手放しているのに、わたし今、平気だ。

 このとき金髪和服の言う「平気」と、わたしの感じた「平気」には、非常に大きなくい違いがあった。

「なぁ、聞こえてんのか?」

 尻もち姿で考えた。他人からの気遣いには、どう返すのが正解なんだろう。

 普段は人としゃべらない。自分の声も懐かしい。男性と話すなんて、入院先の心療内科のおじいちゃん担当医くらい。

 階段下で尻もちのわたしは、金髪和服に右手をぎゅっと握られたままの、無言。

 見おろしてくる金髪和服の視線から逃げるようにうつむけば、長い黒髪が外の世界からわたし一人をシャットアウト。わたし、だれかと目なんか合わせられない。

「おいおい、返事くらいしてくれや」

 いつだって、誰が相手だって、わたしの口から、心から、すんなり言葉は出てこないんだ。

「無事ならそろそろ立ちあがろうか。そんなにおびえられちまうとさ、オレがアンタのこと襲ってるみたいに見えちまうんだ。見てみろよ、周囲のじーさんばーさんの不安そうな顔を。自分の手術や骨粗しょう症より、よっぽど心配してくれてるぜ?」

 滑舌よく、気さくにおどける金髪に、手をひっぱられて立ちあがった。

 立ちあがれば、するりと、彼の手がわたしから離れていった。

 そのときだ。

 いつもの恐怖がやってきたのは。

 ぞわわわわっと背筋をせりあがるや、その恐怖は、離れられない恋人みたいに肩越しの背後からわたしを抱きしめた。その場にうずくまる。震えが始まる。

 うずくまったわたしの頭の上から、柑橘の微香をまとった心配そうな声が届いた。

「おいおい、どうした? やっぱり体調悪いのか?」

 もしかしてさっき「平気」だったのは、この人の……。

 手の、おかげなのかな?

 金髪和服の雪駄を至近に見おろしながら、柑橘の香の中、ほとんど死に体のわたしは執念深いゾンビさながらゆっくりと右手を前へ伸ばした。

 やや顔をあげて歯を食いしばり、人さし指一本を、彼の小指にそっと絡める。

「あ? なにしてんだい?」

 これが今のわたしにできる、精一杯の意思表示だった。

「なんだい、オレの指なんか握って」

 あっけにとられる金髪和服。やんわりと手を離そうとしたみたいだったけど、お願い、離さないで。わたしは指一本で、彼の小指にギリギリすがった。

 ……ああ、やっぱりそうだ。

 この人の手のおかげなのか、いつもの恐怖はだんだんと薄まっていった。

「もしかして」

 金髪和服はしゃがみこむと、わたしの前髪越しに、顔をのぞきこんできた。

「まだ、オレの手ぇ握ってたいってぇの?」

 うつむきながら、ほんのかすかにうなずいたの。



 人さし指を絡めたまま、わたしたちは大学付属病院1Fロビーへ移動した。真正面の受付カウンターには、ひっきりなしの患者たち。ロビーのソファに並んで座った。

 点滴ポールと、金髪和服の左手。

 ソファに座ったわたしの視線は、ふたつの間を行ったりきたり。

「入院中に逆ナンパかよ? 地味な見ためで、ぐいぐい来るね。へへ」

 へらへらとおどけるこの人は、わたしも在籍する西杜にしもり大学の、落語研究会の学生だった。いかつい見た目の、落研男子。

 今日は『学生・病院寄席』というお昼のイベントのために、ここ西杜大学付属病院に来ているとのことだ。

 高座名は「西杜亭ビハインド」というらしい。

 これが残念な名前なのか、あるいは学生落語界隈での通常なのか、わたしは知らない。そもそも学生落語に縁はない。興味がない。知識もない。

 今のわたしの関心は、ごつごつと大きなこの人の手にしかむいていない。

「オレさぁ、黒髪ロングの女の子は好きだけど、もうちょっと前髪は切ったほうがいいかな~。完っ全に目が、顔が、隠れてっかんね。それ、前、見えてる? なんか暗いっ。そう、暗く見えるんだ。もったいないよ、カワイイのに!」

 え、カワイイ?

 ありえないほめ言葉を聞いて、正しい返事が見つからない。ほほはこわばる。

「あ。よく見りゃカワイくもねぇか?」

 ……ひどいよ。どのみち、ほほはこわばる。

「冗談だってば、冗談。で、西杜大の何年生? え、2年っ? 同い年じゃーん! 学部は? ああ、文学部……を、んんんっ、休学中?」

 はしゃぐ子犬のテンションで、ビハインドは能弁。饒舌。立て板に水。

 しかしわたしが「なぜこんな珍妙な点滴ポールを持っているのか」という詳細を、訥々と、寡言に、横板に雨だれで説明すると。

「……へ?」

 さすがに怪訝な顔をして、疑いの目をむけてきた。

 実は、わたしは――。

 人前で点滴ポールを手放すと、震えて、パニックになって、卒倒する。

 いや、笑いごとじゃなくて。

 いや、ひとつも笑えないか。

 自分でも、ドン引きだもん。

 とある理由で心療内科に長期で入院した直後、点滴を外す段になると、ぞわわわわっと恐怖が背筋をかけあがった。「この点滴を外したら、わたし、死んじゃうんじゃないの?」って。以来、輸液もチューブもついていない、このポールが必携に。

 ブランケット症候群。

 という強迫性の依存症なのだと、おじいちゃん担当医は断じていた。

 大きな不安やネガティブな感情をかかえた人がなりがちの症状らしい。愛用のタオルとか、お気に入りのぬいぐるみとか、なにか特定のものを手放すとパニック状態になっちゃうっていう。

 でも、どうして、この人の手を握っていれば、わたしは卒倒しないんだろう?

「なぁ、点滴ちゃんさぁ」

 同い年とわかるや、見た目どおりの安直なアダナで呼ばれた。

「せっかくだ。笑おうぜ。今日の『学生・病院寄席』、聞きに来いよ」

 興味がない。

 それをどんな言葉で伝えるのが正解なのかわからず、口が動かない。

「いいから聞きに来いって。必ず、笑わせてやる。オレは声に出したことは守るタイプだ」にこりと笑って、おどけてみせた。「なにせ普段は高座でウソしかしゃべらねぇからな。バランス取らねぇと」

 無言でひかえめに首をふると、わたしの黒髪も嫌々をするように揺れた。

「なにさ、人生ずーっとそんな能面みたいな調子でここまで生きてきたのかい?」

 無表情で、うなずく代わりにさっきの返事を投げかえした。

「落語、興味ないです」

「おいおい、落研全否定? 淡々と刺してくるね。ははは」

「おもしろくないです。座って動かない人が暗記した話をしゃべるだけの簡単な/

「……おい、コラ」

 突如わたしの言葉尻にかぶられせた彼の語気は、猛烈な熱を帯びて、荒かった。

「いいかい、点滴ちゃん。自分の言葉に責任もてよ。世の中、口約束を平気で破るやつがごまんといる。けれどもだ」

 怒りのにじんだ真剣な表情に、わたしは卑屈な上目で臆する。

「声ってのはさぁ、自分のここから出てんだぜ?」

 力をこめた握りこぶしで、自分の胸をどんと殴った。

「心も体もふるわして出てきた声は、その人の魂だ。オレはそう思ってる。今、あんたは声に出してこう言った。落語なんて『暗記した話をしゃべるだけの簡単な』もんだと。それ、本心で言ってんのかよ?」

 暗記なんて、一発でできる。

 本心で言っていることにまちがいはないんだけど、いったいどう返事するのが正解なのかわたしはわからず、うつむき、黒髪ロングのベールの中で黙りこんだ。

 ドスのきいた低音で、無表情に彼は命じた。

「じゃあ、やってみろ」

 袂に手を突っこんだビハインドは、携帯端末とイヤホンを荒っぽく突きだした。

「暗記なんて簡単なんだろ? 聞け。『たがや』ってんだ。たが屋ってのは、まぁ、桶なんかの修理職人のことなんだけど……」

 【侍とたが屋が橋の上でもめて、侍の首が飛ぶ噺】だ、などと雑に言い添える。

「一字一句、一発ですべて覚えろ。簡単なんだろ? できねぇとはいわせねぇぞ」

 啖呵をきった彼からイヤホンを受けとると、わたしは淡々と、耳に挿しいれた。

「へ?」

 自分からけしかけてきたはずなのに。

 彼の怒りの渋っつらは、もう、拍子抜けしてゆるんでいた。

「ホントにやるつもりかい?」

 だって拒否する理由も無い。暗記なんて、簡単だもの。

「十分間のネタを、耳から一発で、だぜ?」

 啖呵をきったはずのビハインドの顔は、今や怒りよりも、驚きをまぶした興味でいっぱいだった。

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