(八) 遠い月の下

 中空に浮かんでいる。

 どちらが上か下かも分からない。ここに重力はまだない。

 色もなく影もない。私の意識に外から入力されるものは何もない。

 世界が生まれる前だからだ。

 この時だけ私は完全に一人だ。神の造りたもうた硝子がらすだまの中にたった一人。

 ここで次の試行世界に条件を与える。

 今度はカイレルをどうしようか。何だかもう面倒くさい。これまでの流れだと二〇二四年、キプロスで三十年越しの連続殺人が摘発される。その被害者の一人にえようか。大丈夫、現場は首都ニコシアだから映画館は複数ある。

 私はどうなってしまうのだろうか。

 多分いま私は泣いていると思う。世界が始まる前のこの時、私にはまだ身体がないから、頬を涙が滑り落ちる感触もないけれど。それでも涙が溢れる時の、鼻と眉間の奥のぎゅうっとなる感じ、胸の中に熱い泉が湧いたようなあの感じは蘇っている。

 この中空にいる時、私はいつもそうだ。頭は次の世界の設定をしようと動いているのに、気持ちの方はまるで別人のように泣いている。

 もうやめたい、と泣いているのではない。

 私は壊れているのだと思う。

 何度も殺し損ね、何度もやり直し、その中で私は目的外の行動を繰り返し、そして毎回最後にカイレルからあの言葉を聞く。


――




   *



 奔流のように遠い遠い記憶が蘇り、私はる。闇深い百魔殿の片隅、天窓からわずかな月光だけが漏れ落ちる石造りの部屋で、美しいアラステア・ケラハーに組み敷かれている自分を遠く眺める。

 いや、アラステアではない。気まぐれにそのような姿をとったカイレルが私を抱いている。身体に与えられるよろこびを知らなかった天使わたしが、悪魔カイレルに肉欲を引き出されて熱にまみれ、のたうち、むせび泣く。何度も丸まってはる私の汗ばんだ背を、腹を、胸を肩を、白いのどを、かすかな月光とカイレルの視線だけが照らしている。

 そして、ああ何ということだろう、私はほとんど半狂乱のうちにこう口走るのだ。


――ずっと、ずっと、おそばに置いてください。もう神の元へは帰れない。あなたといたい!


 アラステアカイレルは目を細めて笑う。


――? 永遠にこうして? 耐えられるのか。やってみようか?



   *




――


 世界の終わりに毎回それを聞かされる。

 百京エクサの位に達するまでこの世界を繰り返してもなお一度も覚えることのできない事実を、毎回、毎回。

 私が一番最後にそのことを思い出し、それから世界の何もかもが崩壊していくまでの間、カイレルはようやく混乱し切った私の身体に触れるのだ。悪魔は混沌を愛する。

 鼻の奥にまだ灰の匂いが残っている。押し付けられた背に薔薇ばらとげや葉が刺さり満開の花を押し潰した感触が残っている。あの禍々まがまがしいだいだいいろの夜の底で、カイレルはアラステアになり、ツムシュテークになり、意地の悪いことに神の姿にまで変わりながら私を抱いた。

 そうしてまた、ささやくのもいつもの言葉。


――ねえ、本当はツムシュテークの映画より、私を死なせる世界を造れないんだよね?

――泣いてるの? 何度やってもこれが興奮するの?

――すごいなあ。本当に神の失敗作だ。ミコほど邪悪な天使はいないね。


 楽しそうに。

 楽しそうに。

 自分がそう仕組んだくせに。

 悪魔王の使いのふりをして私を神の元に送り返し、予定通り神を怒らせて一緒にこの世界に封じられた。

 ただ一晩の私の譫言うわごとから思い付いて簡単に生涯を賭けたカイレルはほとんど気違いだと思う。期待通りにならない可能性だってあったのに。

 カイレルは気が狂っている。

 そして私も。

 全ての記憶を取り戻した世界の終わりのわずかな時間、悪魔に嘲笑あざわらわれながらめちゃくちゃに抱かれることを心待ちにするこの私も、確実に気が狂っているのだ。


 設定は終わった。さあ、また世界を始める。終末までの百三十八億年を始める。

 私はまた全ての記憶を失い、人の身体に生まれ直して滅びの時を迎えるまでの微睡まどろみに沈む。

 カイレルを殺すこの世の終わりへ。

 カイレルが生き延びるこの世の終わりへ。

 次のおうへと。




   *




 一瞬――、


 私は遠い月を見上げている自分に気がつく。

 高い天窓からのぞく月と私の間に、三つの目を暗く輝かせた悪魔王アラステアがいる。

 暗く冷たい百魔殿の片隅。

 熱を帯びた悪魔の肌。

 私の身体中に口付けたその唇から、静かに言葉が落ちてくる。


えたか? 憐れな天使よ、おまえはに耐えられるのか?」


 ああ、と私は嘆息した。

 繰り返す。繰り返す。何度も、反復する。少しずつ違いながら同じ場所へ向かう世界を、世界の終わりを、無限に繰り返す。神をたばかり、もはや逃れ得ない永遠の硝子玉に閉じ込められる。

 そんな牢獄におまえは耐えられるか、と問われている。

 硝子玉の中で、私が誘導する人間たちはこの悪魔を本当に殺してしまうかもしれない。悪魔と悪魔王を殺せるのは人間だけだからだ。

 でも殺さずに済めば、悪魔は滅亡のたびに私を抱き、私とひとつになってくれる。悪魔が視せる予知の夢は、そのことを告げている。

 この欲を、この快楽を、永遠に私のものにできるのだと。


「どこへでも行く。あなたと一緒にいられるのなら」


 からませた指すら熱く、私はあなたを切望する。

 三つの目が細められるのが暗がりでもはっきり分かる。


「お願い。私を、あなたの地獄へ」


 月光をさえぎって、あなたは再び私にし掛かる。私ののどからは発泡した砂糖にも似たあえぎしか出なくなる。

 熱い。

 頭の中が焼けるよう。

 魂が透明に濁っていくよう。


 これが悪魔王じゃないことはわかっている。


 夢の中のカイレルが言った通りだ。私のような下っ端の天使が駆け込んで悪魔王とすぐに会えるわけがない。百魔殿は神の館より遥かに広く、位の高い悪魔でも悪魔王に直接まみえたものは少ないと聞く。

 本当のところ、別に、悪魔王でなくともよかったのだ。

 私は悪魔王ではなく自分が堕落することそのものに恋をしたのだから。

 ただ神を裏切りたくてたまらず、その欲をもっと知ってめちゃくちゃになりたかっただけなのだから。


 私は、邪悪だ。





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