(八) 遠い月の下
中空に浮かんでいる。
どちらが上か下かも分からない。ここに重力はまだない。
色もなく影もない。私の意識に外から入力されるものは何もない。
世界が生まれる前だからだ。
この時だけ私は完全に一人だ。神の造り
ここで次の試行世界に条件を与える。
今度はカイレルをどうしようか。何だかもう面倒くさい。これまでの流れだと二〇二四年、キプロスで三十年越しの連続殺人が摘発される。その被害者の一人に
私はどうなってしまうのだろうか。
多分いま私は泣いていると思う。世界が始まる前のこの時、私にはまだ身体がないから、頬を涙が滑り落ちる感触もないけれど。それでも涙が溢れる時の、鼻と眉間の奥のぎゅうっとなる感じ、胸の中に熱い泉が湧いたようなあの感じは蘇っている。
この中空にいる時、私はいつもそうだ。頭は次の世界の設定をしようと動いているのに、気持ちの方はまるで別人のように泣いている。
もうやめたい、と泣いているのではない。
私は壊れているのだと思う。
何度も殺し損ね、何度もやり直し、その中で私は目的外の行動を繰り返し、そして毎回最後にカイレルからあの言葉を聞く。
――おまえは私に恋しているんだよ。
*
奔流のように遠い遠い記憶が蘇り、私は
いや、アラステアではない。気まぐれにそのような姿をとったカイレルが私を抱いている。身体に与えられる
そして、ああ何ということだろう、私はほとんど半狂乱のうちにこう口走るのだ。
――ずっと、ずっと、お
――ずっと? 永遠にこうして? 耐えられるのか。やってみようか?
*
――おまえは私に恋しているんだよ。
世界の終わりに毎回それを聞かされる。
私が一番最後にそのことを思い出し、それから世界の何もかもが崩壊していくまでの間、カイレルはようやく混乱し切った私の身体に触れるのだ。悪魔は混沌を愛する。
鼻の奥にまだ灰の匂いが残っている。押し付けられた背に
そうしてまた、
――ねえ、本当はツムシュテークの映画より、こうしてほしいから私を死なせる世界を造れないんだよね?
――泣いてるの? 何度やってもこれが興奮するの?
――すごいなあ。本当に神の失敗作だ。ミコほど邪悪な天使はいないね。
楽しそうに。
楽しそうに。
自分がそう仕組んだくせに。
悪魔王の使いのふりをして私を神の元に送り返し、予定通り神を怒らせて一緒にこの世界に封じられた。
ただ一晩の私の
カイレルは気が狂っている。
そして私も。
全ての記憶を取り戻した世界の終わりのわずかな時間、悪魔に
設定は終わった。さあ、また世界を始める。終末までの百三十八億年を始める。
私はまた全ての記憶を失い、人の身体に生まれ直して滅びの時を迎えるまでの
カイレルを殺すこの世の終わりへ。
カイレルが生き延びるこの世の終わりへ。
次の
*
一瞬――、
私は遠い月を見上げている自分に気がつく。
高い天窓から
暗く冷たい百魔殿の片隅。
熱を帯びた悪魔の肌。
私の身体中に口付けたその唇から、静かに言葉が落ちてくる。
「
ああ、と私は嘆息した。
繰り返す。繰り返す。何度も、反復する。少しずつ違いながら同じ場所へ向かう世界を、世界の終わりを、無限に繰り返す。神を
そんな牢獄におまえは耐えられるか、と問われている。
硝子玉の中で、私が誘導する人間たちはこの悪魔を本当に殺してしまうかもしれない。悪魔と悪魔王を殺せるのは人間だけだからだ。
でも殺さずに済めば、悪魔は滅亡のたびに私を抱き、私とひとつになってくれる。悪魔が視せる予知の夢は、そのことを告げている。
この欲を、この快楽を、永遠に私のものにできるのだと。
「どこへでも行く。あなたと一緒にいられるのなら」
三つの目が細められるのが暗がりでもはっきり分かる。
「お願い。私を、あなたの地獄へ」
月光を
熱い。
頭の中が焼けるよう。
魂が透明に濁っていくよう。
これが悪魔王じゃないことはわかっている。
夢の中のカイレルが言った通りだ。私のような下っ端の天使が駆け込んで悪魔王とすぐに会えるわけがない。百魔殿は神の館より遥かに広く、位の高い悪魔でも悪魔王に直接
本当のところ、別に、悪魔王でなくともよかったのだ。
私は悪魔王ではなく自分が堕落することそのものに恋をしたのだから。
ただ神を裏切りたくてたまらず、その欲をもっと知ってめちゃくちゃになりたかっただけなのだから。
私は、邪悪だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます