(七) 夢、鏡、硝子玉

 この悪魔め。これでは、神もおまえを殺そうとお考えになるはずだ。私を、神の性質を植えられた天使であるところのこの私を、もう天使ではなくなると言うなんて。

 つまり悪魔カイレルは、私に宿る神の力が減衰すると考えているのだ。

 何と、邪悪な。


「信仰は、邪悪だよ、ミコ。それは目を曇らせる。思考を狭める。自分を規定してしまう。邪悪な呪いだ」


 せせら笑いながらカイレルは、引きちぎったばかりのピンクのワイルドローズで私の顔をふにふにと押した。生花の花弁はやや冷たくて水気がある。


「うるさい。神の力を侮辱するな」


「神の話してないよ。ミコの話だ。神が不完全だからミコに永遠の神性がないっていうのは、部分点しかもらえない回答。ミコが神性を失っていくのは、ミコ独自の罪のせい」


「私は罪を犯してなんかいない。カイレルを殺すことにずっと失敗はしてるけどそれは、永遠のうちのいつかに達成できればよいと神がおっしゃったことだ。永遠の後に殺せなければ罪だが、その時は来ない。永遠とは、永遠だから」


「しかし殺す努力が目減りしていくことは罪だろうね。だって怠惰じゃん?」


 じゃん? をまるでいつもの軽い口調で跳ね上げて、カイレルは薔薇ばらの花を振る。花弁はなびらは一度に炎を上げ、見る間に黒い灰になって砕けていく。


「ミコはどんどん下手くそになってる。理由ははっきりしてる」


「それは、世界生成から目標時点ターゲットポイントまでの時間がどんどん離れて運命が複雑化するから……」


「違う。殺意がからだ。何故か分かるでしょうミコ、神の意思から少しずつれ始めていることもその理由も、自分で分かるでしょう」


「やめてよ」


「私が言おうか?」


「やめろって……」



映画監督ツムシュテーク役者アラステアにハマっちゃったからだよね。神よりも、造りものの世界にハマっちゃったからだよね。それでミコの優先順位はになった」



 ああ。



「ミコはあの監督の映画とその中のアラステア・ケラハーをまだ観たい。大好きでたまらないからもっと観たい。ずっと観たい。

 そのためにはどうしたらいい?

 簡単なことだよね。

 世界が終わらなければいい」



 また新しい花を千切って灰を振り落としながらカイレルは、歌うように言葉をならべる。


「こんな世界に生まれたものを愛するなんて。ここは神が流れ作業で造った牢獄なのに」


「そっちだっていろんなものにまってるくせに」


「退屈な人生の暇潰しだよ。こうして世界が終わり始めて記憶を取り戻すまで、いつもめちゃめちゃ退屈だからいろんなことするの。だからすぐ捨てるでしょ」


 そう、確かに、泥沼化するまでまった不倫男を急に殺し、はらんでいた胎児を堕胎し、つまらないセミナー商法に乗って散財し、カイレルはただ時間を無駄にするように生きていた。

 記憶は無くとも、その心性はカイレルのもの。

 記憶のない私が好きになった映画を、すべて思い出した今の私も愛しているのと同じことだ。

 そうだ。私はツムシュテークの映画と彼が撮るアラステアに惚れ込んだ。

 

 ヘルムート・ツムシュテークが無事に生まれ、育ち、映画の道に進み、幾つかの傑作を撮るように、アラステア・ケラハーが俳優の道に進みツムシュテークに見出だされるように、そして私がそれを観られるように、世界を設定してしまう。

 だってそれはカイレルとは関係がないことじゃないか。

 ツムシュテークやアラステアと関わりのないところでカイレルを殺せればそれでいいじゃないか。

 その限りにおいて私がツムシュテークの映画を愛好することは許されるのではないか?

 だって、世界の終わりの日まで私にはすることがない。カイレルがそうであるように。


「世界が終わらなければいい、」


 カイレルは柔らかな声で言葉をならべる。


「ツムシュテークが失われないように。彼の相棒ともいえるアラステア・ケラハーが失われないように。映画界が失われないように。映画産業を支える諸々の業界が潰れないように。自分が映画を観るために。

 だからミコ、あんたは映画館のある都市部にしか住まないねえ。そういう風に設定してしまうんだよ自分と私を。これが邪悪でなくて何だって言うの? あんたは看守で首斬り役人でありながら、神に任された牢獄のなかにを作るようになっている。私物化だよ。私欲だ。

 欲はいいよね、それこそ生きとし生けるものの動力。神や天使は、欲は悪魔のものだなんて言うけど、とんでもない。神は立派に欲を持ってる。悪魔を殺したい。閉じ込めて片付けたい」


「やめろ……」


「その神が自分に似せて造った天使ミコだよ。どんなに機能を削られていようがやっぱり欲はあるわけよ。何故なら欲はより下等な、生理的な、根元的な機能だから。神にすら削り落とせない。さて、考えてごらん」


 目が回りはじめている。ゆら、ゆら、と身体がぐらつく。


「神や天使は、欲は悪魔のものだという。

 ならば神や天使ミコの中には悪魔わたしたちがいる」


 そんなことは。

 そんな、ことは。


天使あなたたち悪魔わたしたちで出来ているんだよ」


 煮えた鉄のようなだいだいいろの夜空の下で私は、大きな渦巻きに身体をとられるような幻覚に襲われつつあった。

 すべての知覚がぶよぶよと変容を始めている。

 平たく焼け焦げた夜の底のあちこちから青いほのおが立ち上り、打ち上げ花火のように天に向かっていく。あれは残った棺に眠る女たちが天に回収されていくのだ。

 この世の終わりだ。


 今度の世界では『アラーテッド』まで観られたな、と私は考える。

 ツムシュテーク作品に出会ったのは一九九一年のことだった。その頃私は、カイレルがテレクラ売春にはまり客に殺されるのを待っていた。あの時観たのは『真珠の弾丸パール・バレット』。主演はアラステア。

 別の世界では一九九三年のWTCワールドトレードセンター爆破事件でカイレルを殺そうと思っていたがうまく行かず、翌日封切りの『ハイド&シーク』を観た。悪役がアラステア。

 また別の世界では江陵カンヌン浸透事件の巻き添えで死ぬキノコ採りの民間人としてカイレルを設定していたが死ななかった。それで事件の頃に『紺青アイアンブルー』を観た。主演はまたアラステア。

 そのようにして私はカイレルを殺し損ねるたびにツムシュテークとアラステアの作品を観た。カイレルが殺される予定の――そして結局殺されない――時期から、そのすぐ後の世界滅亡までの短い間にツムシュテーク作品は現れる。

 私は心を奪われた。

 そして世界に、

 手を加えるようになった。


 目が回る。

 灰をかぶった薔薇のアーチの前で、カイレルが笑っている。

 その唇が美しくささやく。



「それに、気付いてる? ツムシュテークはともかく、アラステア・ケラハーはミコの知ってる悪魔王にそっくりだよね。

 そもそもミコがこの世界に閉じ込められたのは、」



 ああ。


 ああ、そうだ、私は。



 かつて神の屋敷に仕えていた頃、私は悪魔王に心奪われ、恥知らずにも神の御前を立ち去って荒野を三日三晩かけて渡り、辿たどり着いた百魔殿のきざはしを駆け降りこの身を投げ出した。

 悪魔の長に自ら汚された罪で私は、幾つもの能力を削り取られこの世界にのだった。二つ名もない雑魚のような悪魔カイレルを殺すためだけに造られた、この小さな硝子がらすだまの中に。だから私は二度と悪魔王に近付くことができない。


 これは神が私に与えたもうた罰。


 カイレルの言うとおり、私はもはやなかば天使ではなく、そして囚人だったのだ。



 そして、百京エクサの位に達するまでこの世界を繰り返してもなお一度も覚えることのできない事実を、カイレルは今回の世界でも告げる。



「可愛い、愚かな、馬鹿な天使ミコ

 それでは今回も、最後にこのことを思い出しなさい。

 アラステア・ケラハーの姿は昔、私が適当に造り出したものなんだよ。役立たずの神もその事を知らない。

 あの百魔殿で夜通しおまえの身体と魂を楽しませてもらったのは、この私。悪魔王ともあろうお方が、一介の雑魚天使なんかとお会いになるはずがないでしょう?

 可哀想に、ミコはずっとスクリーンに私の仮の姿を追い求めていたんだよ。

 ほら、思い出した?

 






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