(三) 七月二十日 水曜日
水曜日の朝になると、『
それから丸一日の間に、男に未来はないと思い詰めての無差別殺傷が複数起こり、逆に女を全員殺せば新しい世界の住人を確保するため男も救われるのではないかと
暗くなる前にカイレルが、案外軽いんだよぉ、と言いながら空色の
カイレルは代金のことは何も言わずただ、今夜は棺を並べて寝ようよ、と言った。知ってるもの同士近くにいた方が何となく安心じゃん、と。
私はそれをぞんざいに了承した上で聞いた。予言を誰も検証しないのは何故なのかと。
カルト・スピリチュアルの皆々様が一心不乱に広報遊ばしている『裁きの日』の話はほとんど同一テキストなので、どう控えめに考えても何か原典があるはずだ。それは誰が書いたのか? 何故一斉に発信されたのか? カルト同士足並みを揃えるようなことが可能なのか? 何らかの協定があるのか?
何より、その内容にはどのような根拠があるのか? この多様性の時代に、ある条件の女が救われると言っても女の定義がわからない。動物は? 植物は? ノアの箱船より厳しく人間の女についてしか生き残りの道が示されないのはおかしいのではないか。
「だってこれじゃ、世界あまりにもチョロすぎるでしょ。『裁きの日』が起きるかどうかを疑う人が何故いないの? 世間もメディアもてんから信じ切っているみたいで気持ち悪い。ノストラダムスの騒ぎから学習してないどころか悪化してんじゃん」
二十世紀末にはSNSがなかったから即日炎上は難しかったんだろうねえ、まあ私生まれてないから知らんけど、とカイレルは穏やかに言った。
「ミコ、みんなが信じるのは、今回は本当だからだよ。『裁きの日』のことは、全ての人の記憶に書き込まれて蓋をされてる。その蓋が開いただけだから、疑いようがない。『根拠あるのか』じゃなく『そうだった、忘れてた』なんだから。原典は私たち全員が大昔から持ってたの。ミコはまだ思い出さないんだ?」
カイレルがダンゲルマイヤーさとみに心酔し始めたのはいつだっけ。去年のクリスマス、いい感じだと言っていた歳上の骨董商に七股掛けられていたのが分かる前後だっただろうか。大体、頭がまともだったら五十男が二十代半ばのまだ子供みたいな女とホテルに行ったりしないものだ。馬鹿なカイレルはあの男に写真を撮られて、……そういえば、その後どうしたんだっけ? とにかく骨董商は死んだ。
ともかくあの年末あたりからカイレルはハイヤーセルフがどうのアセンションがどうのと時代遅れのニューエイジ思想を口走るようになり、安物のパワーストーンのブレスレットを買い、意識クレンジングセミナーだか何だかのネット記事を読み漁り、音叉の528Hzが魂を浄化するとか言い出し、遠隔波動ヒーリングにかぶれ始めた。その何とかヒーリングのシニアマスターがダンゲルマイヤーさとみだった。
私は原則的には他人の信仰に口を出すものではないと思っているから、カイレルが他者、とりわけ私に害を及ぼさない限りはカイレルの左手首がつるつるキラキラの石でどんどん重武装されていこうが来世を信じようが構わなかった。そういうお綺麗なフィクションを信じて目覚めていく物語に乗って、特別そうな何かに破産しない程度のお金を溶かすことであの骨董商みたいなクソ中年から離れられるのなら、どちらにしても搾取されているにはしても、まだしも許容できると思っていた。何しろカイレルは妊娠させられたのだ。……そういえば、あの胎児はその後どうしたんだっけ? とにかくカイレルは妊娠を途中でやめた。
ダンゲルマイヤーさとみ師の話をするカイレルは、あのクソ中年骨董商の話をする時よりも遥かに風通しよく明るい表情をしていた。まあ、それはそれでカルト特有のとろんと均一風味のある光を宿した目つきではあったけれど。
それでこの七月十六日、つまり先週の土曜日の早朝、ダンゲルマイヤーさとみが信者たちに向けて発した『裁きの日』テキストを目にしたカイレルはすぐさまやすらぎ葬祭から棺のカタログを取り寄せたというわけだ。
発信されたテキストは
そして誰も疑っていない。いや、疑っている者は少しはいるのだろうけれど、『裁きの日』の到来と滅びを信じて振舞う人々の生み出した大きな
知っていた。
そういうものだ。
世界はこれまでもそうして、目を
その日見た最後のニュースは政府の会見映像で、助からない運命の男より生き延びる女を多く保護した方がいいから医療その他のリソースを今すぐ女性・女児優先に回せという声が大きくなっていることを受け、政府としては裁きの日などという根拠のない噂に取り合う気はないし、それを理由に男女差別が行われることを強く非難する、と発言した官房長官が居並ぶ記者の
それから私は、官房長官の隣に立っていた手話通訳者について、SNSのサブアカウントに動画リンクつきで書き込んだ。通訳者は恐らく独断で官房長官の言葉を伝えず、全く別の文章を伝えていたからだ。通訳者曰く、「政府は『裁きの日』の情報を長い間
予想通り、世間の潮流に逆らった私の呟きはそれほど広く拡散されることがなかった。代わりに
世の中とは、そうしたものだ。そちらの方が受ける。事実よりも、物語をこそ求める。
そのようにして水曜日は深夜に向かっていった。
二十一時頃、向かいの家に救急車がやって来て、しばらくいて走っていったのは誰かを搬送したのか。直後、その家は出火し巨大なキャンプファイアのように盛んに燃え始めた。消防がやかましく駆け付けてくる。長年引きこもっていた中年の娘を殺し損ねた父親が、娘を乗せた救急車を送り出した後で自宅に放火し焼け死んだのだという。表に出ていた人たちの声があまりにも大きくて、そう聞こえた。
誰も眠ろうとしていないようだった。
棺に入る女と、その周りで起きている男。世界はそんな風になっているらしかった。たくさんの実況チャネルが開かれ、SNSには別れの言葉が飛び交い、大手通販サイトは注文受付を停止している。
表の喧騒、消防車やパトカーの音、そんな騒がしい夜の片隅で私とカイレルは空色とピンクの棺を並べて、服を着たままその中に入っていた。
カイレルはダンゲルマイヤーさとみのメッセージ動画を観ている。
私はニュースサイトとSNSを行ったり来たりしている。
何もかも無駄になるのかもしれない。
今夜で世界が終わるのならば。
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