第7話
無事に授業が始まる直前に滑り込むように教室へ戻ると、その直後に入ってきた教師が、理由は告げなかったがどういうわけか教卓側の壁全面を占める巨大な黒板に『自習』とだけ簡潔に書いて去っていく。
この学園では講師の気まぐれと言う物があり、突然自習時間になる事は珍しくはなかった。
隣の席に座るスティへと視線を向けると、生真面目にもちゃんと自習をしていた。
王太子の婚約者として、ちゃんと王妃になれるかどうか分からない現状でも努力を惜しまないその姿は守ってあげたくなるくらい健気だなと抱き締めたくなる。
私にはあんなア――おめでたい頭の王太子の為になんて到底出来ない。
――こんな健気な未来の妃を蔑ろにして何しているんだ。
そう言えばと、自習しているノートを先程覗き込んだ時に気になった箇所を改めて見る。
「……スティ、そこのスペルが違うよ」
「あ、本当。ありがとうシャル」
「少し頑張りすぎだよ? 無理しないでね」
私は、隣の席へ椅子をよいしょと寄せ、スティの頭をよしよしと撫でると、やっぱり頬を膨らませ顔を赤くして怒った。
あの兄にして、どうしてこんな可愛い妹が出来上がるのか本当に謎だと思う。
いや、顔というか全体的に容姿は似ているのだ。
ただ、中身がどこをどう見ても似ていない。絶対に。
「そう言えば、腕は大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。少し青痣になっていたから湿布と包帯で治療をしてもらったけど、少し大げさに見えてしまうかもね」
からりと笑いながら下手に心配をさせないような言い方で伝えると、スティは「まぁっ」と明るめに心配してくれる程度で済んだ。
貴女の婚約者に腕を掴まれてこうなった、なんて絶対口が裂けても言えない。
絶対に抗議に行ってしまう。
クリス様にはどういうわけか、グランツにされた事がバレてしまっているけど、毎回行動する事に監視されているような事になるならばやりづらくなるかもしれない。
推しだから好きだけど、スティの為に今行動している私には不要な感情だ。
「ねぇ、クリス様って婚約者とかいないの?」
「お兄様? もしかして、シャルはお兄様の事が気になるの?」
「ち、違うよ! なんでそうなるの」
「だって……。最近のシャル、お兄様と仲よさげに見えるから……。それに、もしシャルがお兄様と結ばれたら義理でも本当の家族になるでしょう? そうなったら義理の姉妹になるでしょう? それはそれで嬉しいのよ……?」
その発想は無かったと言葉が出なかった。
スティは、私とクリス様が成就する事を望んでいると知り、めちゃくちゃ嬉しくてにやけそうになるのを頑張って下唇を噛んで我慢する。
というか、丸眼鏡の地味なモブがあんな貴公子というか王子顔の綺麗な男に好かれるとかどんな少女漫画だよと言いたい。羨ましすぎる。
――あ、これ乙女ゲームだった。
クリス様が、いつからシャルティエの事を好きなのか気になる。
もしかすると、私が転生に気づいて多少人柄が変わってしまったから印象が変わってクリス様の感情が少し変わったとかそういう風な都合のいい事になっていたら心の底から叫んで喜びたい。
私の覚えている限りでは、クリス様とそれ以前に何か良い感じな事があったか思い出すがあまり思い出せない。
シャルティエの記憶を思い起こそうとすると、靄がかかったようになる。
前世の私の記憶もそうで、名前や細かな個人情報をなかなかどうして思い出せない。
覚えているのは経験と知識だけで、主に『せかうる』の内容ばかりだ。
記憶が前世と今世が混ざってしまい、そのショックで思い出が殆ど消え失せたのかもしれない。とても悲しい。なんて役に立たない。
ゲームでのクルエラ視点の二人の結婚式の際、彼の様子からして結婚自体が不本意だったのかもしれない。
転生して、ゲームの世界だと気付いてしまい、でも生まれて育ったこの世界は確実に今の現実で、それでいて私の好きな人は今私の事を見ている。
――でも、この体は〝シャルティエ〟だ。
私はシャルティエだが、こんなタイミングで前世を思い出して自分の知る人物に転生してしまったのが不幸だった。
自分の知る他人に転生してしまったのだから自分なのか〝シャルティエ〟なのかわからなくなって、正直混乱している。
このまま、シャルティエとして生きて過ごして良いのか分からなくて怖くなる時がある。
ただ、悩んで怖がっている暇があるなら、早くスティとグランツの運命を助けてやりたい。悩むのは後でも出来る。
彼をアホだの馬鹿だと言ったが、あの昼休憩の反応が気になる。
私のせいだとでも言いたげな反応は忘れていない。見逃しもしていない。
前に話していなかったが、私の知る限りスティは、グランツに対してのクルエラの態度が不敬に近いから失礼な物言いや、毒見のしていない食べ物を贈るのを止めろと注意した程度だ。
グランツに「エストアール様に嫌がらせをされている」だとか「エストアール様から因縁をつけられている」とありもしない事を告げ口しているのだと情報収集した時に聞いた。
あぁ、思い出しただけでモヤモヤしてきた。
そんな気持ちを振り切るように、ガバッとスティの手を握りって意気込みを告げる。
「スティ! 私、頑張るからね!」
「え……? シャル、貴女はもう十分頑張っているわよ……?」
「そうだよ、シャルは真面目だからもう少し落ち着いてゆっくりした方がいいよ」
「いいえクリス様! 私はもっと頑張ってスティの役に立てるように邁進してまいり……ま――」
――今クリス様の声がして……?
はたと、声のする方を振り返ると、そこには自習時間になったとは言え、授業中だと言うのに、先程逃げるように別れたばかりのクリス様がいい笑顔をこちらに向けてひらひらと手を振っていた。しかも私の真後ろで。
「ひっ!」
「シャル、授業中にそんな大きな声を出してはしたないよ」
「いえ、クリス様こそどうしてここへ?」
「言い忘れていた事があって、自習だと聞いたから来てみたんだ」
どこからそんな情報を仕入れるんだよとツッコミを入れてしまいそうになりつつ「そうなんですか」と生返事をする。
二年生の教室で、それはもう女子をメロメロにしてしまいそうな穏やかな笑みを浮かべる私の悩みの種は、私の隣でしゃがんでこちらを見上げている。
――だから顔が良すぎるし、声も良すぎるし、というかさっきから近いから心臓に悪い!
ドキドキする胸を、深呼吸して落ち着かせていると、しっかりとした大きな手で私の青痣の無い方の腕を握る。
「それはそうと……シャル少し良いかい?」
「こ、ここではダメですか?」
「ダメ」
――普段から、そんな色気のある声で喋るお人がそんな『ダメ』と言われると完全に骨抜き確定で負けてしまうじゃないですか。
無駄な抵抗をやめてスティに一言だけ言い、廊下へ出た。
授業中の廊下は静まり返っていて、まるで違う世界に居るみたいに感じて少し寂しい。
しかし、私の手を握ったままの彼が側に居るからそうでもない。
「それで何か……?」
「うん、クルエラにさっき呼び出されてね。君と別れた後に会ってきたんだ」
「……え?」
クルエラがクリス様に何の用なのだろうと思ったが、呼び出された程度ならば彼女は生徒会の手伝いで出入りが多いから変な話ではない。
「さっき彼女から、グランツの事について相談があると手紙を貰ってて、化学準備室へ連れ込まれたんだよ」
「あのー、クリス様。それは妄想では無くて事実なんでしょうか?」
「あはは、こんなに真面目に報告しているのに……」
露骨に肩を落として、わざとらしく落ち込んだ声色で言うクリス様が少し可愛く見える。
正直、めちゃくちゃ妬いている。
グランツルート走っているくせに、更にクリス様と逢引しているなんてどういう了見なんだと言いたい。逆ハーレムルートなんて聞いたことないぞ。
しかし、将来結婚する未来があっても今は婚約者ではないから私がそんな事をいう権利はない。
そして、改めてクリス様はそれ以降のことも事細かく報告してくれた。
「つまり、クルエラに呼び出されて向かったら化学準備室へ連れ込まれて、グランツがあの一件から少しよそよそしくて構ってくれないと相談されたんだ。あとは色々とね」
「――それって、えっ……えっ……? クリス様、クルエラ様に押し倒されたのですか!?」
「流石にそれは直球すぎるよ」
相変わらず穏やかに目を細めて笑うクリス様に、私は恥じらいもなく尋ねると淑女らしくないと遠回しに注意された。
しかし、今はそんな事どうでも良い。これはクルエラの重要な情報だ。
それはもう喉から手が出る程に欲しかった重要な情報だ、せめて証拠が欲しい。
口頭でならいくらでも言えるからだ。
私は急かすようにクリス様に握られた手を握り返し、背の高い彼の顔を見る為にぐいっと顔を持ち上げて見た。
「し、シャル――!」
「それで、何か証拠は無いのですか!?」
「……僕を呼び出す為に置かれていた手紙がある。これを君に託すよ」
なんて素晴らしい人なんだろうと、先程まで色々心の中で言っていた気持ちに掌を返してみる。
何故か顔が赤いクリス様は、手の甲で口元を隠しながら握られた手を離して両手を合わせて拝んだ後、差し出された二つ折りの手紙を受け取ると、微かにクリス様の指が掠めてやんわりと当たった温もりに胸がどきりと高鳴った。
こういうのに弱い。
それに悟られないよう手早く離れて、ゆっくりその二つ折りにされた手紙を開いて中身を確認すると、女性の手書きらしい字体でつらつらと目的が綴られていた。
「〝親愛なるクリストファー様、お昼休憩の際に少しご相談をしたい事があります。化学準備室の前でお待ちしております。クルエラ〟……何と言いますか、下手な誘い文句ですね」
「はは、そうだね――じゃあ、シャルだったら何て僕を誘ってくれるのかな?」
「……はい?」
幻聴じゃないのはわかっている。
ただ、何を言っているんだこの人はと言いたい気持ちをその一言に込めたのだが、相手には通用しないようだ。
肌はゆで卵のように綺麗で、通った鼻梁に、顎のラインが綺麗で素敵なそのお顔は至近距離で私の顔を眼鏡を通してジッと向けられている。
さらりと揺れる銀色の髪が外の日に当てられてキラキラと輝いているような気がする、とんでもないくらい美し過ぎる。イケメンな神か何かかと思った。
「……シャルの誘い文句、聞いてみたい」
「ひゃ!」
耳元で小声で囁きかれて変な声が出てしまう。
すると、私の手首を掴むとそのまま歩き出して立入禁止区域の屋上へと連れて行かれた。
2019/08/10 校正+加筆
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