今が幸せだから
椿が自分のこととお姉さんに関しての真実を書いた声明文を『葉月出版社』に提出したのは、その日の夜のことだった。
『葉月出版社』のホームページに椿莉子の声明文がアップされたのは、それから2日後のことだった。
自分の言葉で正直に打ち明けたおかげでマスコミなどの各方面からの連絡はなくなり、ネットの騒ぎは多少は収まったと言うことだった。
「でも、まだ油断はできないわ。
一見は収まったかも知れないけど、またいつ騒ぎになるかわからないから」
電話口でそう言った光恵さんに、
「わかってる、俺が椿を守るから」
僕はそう宣言したのだった。
ネットと言うものは、本当に恐ろしいものだ。
誰かがおもしろ半分に事実をアップしたら、それに反応した輩がおもしろ半分に煽って、さらには脚色をする。
たとえ当人が本当のことを言っても、彼らは当人の声に決して耳を傾けることなく、事実を煽るだけ煽って、本日のことを消そうとするのだ。
もちろん、彼らは当人が苦しんでいることも知らなければ泣いていることも知らない。
そのせいで当人が死へ追い込まれたとしても、彼らにとってはどうだっていいのだ。
竹中さんが訪ねてきたのは、あれから2週間が経った昼下がりのことだった。
「椿ちゃんのお姉さんのことをネットにアップした人物がわかったよ」
そう言って竹中さんが連れてきた人物に、僕と椿は驚いた。
「お、お前…!?」
その人物の登場に驚愕している僕の隣で、椿は信じられないと言う顔をしていた。
「そう、彼女だよ。
彼女が椿ちゃんのお姉さんのことをネットにアップして、今回の騒動を作ったんだ」
竹中さんはそう言って、彼女に冷たい目を向けた。
「海老名、お前がやったのか?」
そう問いただした僕に、
「――ごめんなさい…」
海老名は震える声で謝ってきた。
そう言った彼女は、同窓会で再会した時よりもやつれていた。
黒い髪に白髪が入っていることもあってか、老けたようにも見える。
「お前、一体何をして…!?」
今にも海老名を殴りそうな僕に、
「リビングに場所を移動しよう。
ここで話をするのはあれだ」
竹中さんはそう言って止めてきた。
「海老名さん、ちゃんと隠さずに2人に全てを話すんだよ」
そう言った竹中さんに、
「はい、わかりました…」
海老名は震える声で返事をして、首を縦に振ってうなずいた。
…一体、何をしたんだ?
海老名が竹中さんに怯えていることは明白だった。
場所をリビングに移動すると、
「ごめんなさい!」
海老名は僕たちに謝った。
それに対して、僕は怒りがこみあげたのがわかった。
「お前、自分が何をやったのかわかってるのか!?
お前がやったことは椿を傷つけたのも同然なんだぞ!?
何でこんなことをしたんだ!?
そんなにも椿のことが気に食わないか!?
そんなにも椿のことが嫌いか!?」
早口でまくし立てるように怒鳴っている僕に海老名は何も言い返せないと言うようにうつむいた。
「――私…」
海老名は呟くように話を切り出した。
「――私、関谷くんのことが好きだったの…」
「はっ…?」
海老名からいきなりそんなことを言われた僕は何を返事すればいいのかわからなかった。
「中学生の時からずっと、関谷くんのことが好きだったの…。
でも関谷くんは、いつも清水さんのことばかり見てた…。
関谷くんは知らなかったでしょうけれど、あなたが清水さんのことを好きだったのは誰から見ても明白だったわ…。
いつも関谷くんは清水さんのことを目で追っていたから…」
椿が驚いたと言うように目を大きく見開いて僕に視線を向けた。
僕は自分の顔が熱くなっているのがわかった。
確かに椿が好きで、椿のことを見ていたのは事実だけど…。
周りが気づいていたと言うその事実を10年越しに知った僕は、ただ赤面するだけだった。
「どうしてあの女ばかりって、いつも思ってた…。
私がこんなにも関谷くんのことを思っても、関谷くんは私のことを見てくれない…。
いつも清水さんのことばかり見てる…。
清水さんがいなくなった時は、このうえないくらいに嬉しかったわ…。
やっと関谷くんは私のことを見てくれるって、そう思った…」
海老名は話し過ぎたと言うように深呼吸をした。
「でも、関谷くんは変わらなかった…。
清水さんがいなくなったと言うのに、それでも清水さんを思い続けた…。
私はその思いを伝えることができなくて、そのまま卒業した…」
僕たちは黙って、海老名の話に耳を傾けていた。
「10年経って、急だったけれども関谷くんが同窓会に出ることになって…私、嬉しかった。
これで思いを伝えようと思ったのに…10年経っても、関谷くんは変わらなかった…。
それどころか、清水さんのことを“椿”って名前で呼んで清水さんを擁護してた…」
そのことを思い出したのか、海老名は洟をすすった。
「私がこんなにもあなたのことを思っているのに…。
どうして清水さんのことを思っていて、それどころか名前で呼んでて…」
「――それで、椿のお姉さんのことをネットにアップした訳か…」
そう言った僕に、海老名は首を縦に振ってうなずいた。
「興信所に頼んで関谷くんのことを調べてもらったの…。
そしたら関谷くんは清水さんのハウスキーパーとして働いているうえに、一緒に暮らしていることまでわかった…。
私、悔しくて悔しくて…清水さんが憎いって、心の底から思った…。
清水さんは、私から関谷くんを奪った――それが悔しくて、憎くて、ネットにアップした…」
「――アップしてどうなったの?」
それまで海老名の話に耳を傾けていた竹中さんが言った。
「椿ちゃんのお姉さんのことをアップして、今回の騒動を起こしてどうなったの?
関谷くんの気持ちが少しでも自分に向いてくれた?」
そう問いただした竹中さんに、海老名は首を横に振った。
「今はもちろんのこと、中学時代も彼に気持ちを伝えようと言う気はなかったの?」
「そ、それは…」
「密かに思っているだけで、見ているだけでよかったとでも言いたいの?
ストーカーじゃあるまいし、気持ち悪い」
竹中さんは忌々しそうに言うと、呆れたと言わんばかりに息を吐いた。
海老名は青い顔でフルフルと震えていた。
何かを言い返そうと唇を開こうとするけれど、震えているせいで開くことができないようだった。
「はっきり言うと、君がやったことは“意中の人に振り向いてくれなかったから相手を刺した”って言う椿ちゃんのお姉さんと一緒のことをしただけだからね。
やったこともそうたいして変わらないから。
関谷くんは自分に振り向いてくれない、それどころか相も変わらず椿ちゃんを思って愛している。
君は椿ちゃんを傷つけたことに心の底から満足しているけれど、本当に欲しいものは手に入れることができなかった」
竹中さんはそこまで言うと、僕たちに視線を向けた。
「どうする?」
そう聞いてきた竹中さんに僕は何を答えればいいのかわからなかった。
椿は首を傾げて、竹中さんを見つめていた。
「君たちが彼女を訴えたいと言うならば訴えることができるよ。
場合によっては慰謝料を請求することができる。
まあ、彼女にとって君たちに慰謝料を払うことは痛くもかゆくもないことかも知れないけどね。
他にも彼女とその家族に謝罪を要求することだってできるし」
僕たちに海老名の処分を任せると言いたいらしい。
「確かに、海老名がやったことは腹立たしいです。
彼女が自分を思っていることに気づかなかった俺も俺ですけれども、自分の気持ちは変わりません」
僕はそう言葉を区切ると、椿に視線を向けた。
「――判断は、椿に任せます」
そう言った僕に、椿は驚いたと言うように目を見開いた。
「今回の件で1番傷ついたのは椿です。
噂に踊らされた多くの人間のせいで、椿は傷ついた。
本当のことを言っているのに、誰も自分の言葉に耳を傾けてくれない。
椿が今までどんな思いで生きてきて、その苦しみを考えたら…だから、椿に判断を任せます。
俺は椿が出した答えに何も言いません」
「――ッ…」
椿は何も言えないと言った様子でうつむいた。
「椿ちゃん、難しいことを言っている訳じゃないんだ。
僕も関谷くんが椿ちゃんに判断を任せるならば、それでいいって思ってる。
もし、すぐに出せないならば…」
「――謝罪とか…」
竹中さんの話をさえぎるように、椿が口を開いた。
「謝罪とか裁判とか慰謝料とか、そんなことは考えていません。
だけども…私は、あなたのことを許さないです」
椿はうつむいていた顔をあげると、海老名を見つめた。
「――もう2度と、私たちの前に現れないでください。
私たちに関わらないでください。
もう2度と私たちに会わない――それが、あなたが死ぬまで行う償いです」
自分の中で出したその判断を海老名に宣告した。
「だそうだよ」
竹中さんが海老名に言った。
「もちろん、ちゃんと守ってくれるよね?」
確認するように聞いた竹中さんに、
「――はい、わかりました…」
海老名は返事をすると頭を下げた。
「本当に、すみませんでした…」
海老名は謝った。
「それじゃあ、僕と彼女はこの辺で失礼するよ」
竹中さんはそう言って腰をあげると、彼女に立ちあがるようにとうながした。
海老名はゆっくりと腰をあげると、竹中さんと一緒にリビングを後にしたのだった。
僕たちも腰をあげると、彼らを見送るためにリビングへと足を向かわせた。
竹中さんと海老名が家を出ると、
「――椿は、それでいいのか?」
僕は椿に聞いた。
「えっ?」
そう聞き返してきた椿に、
「あれで本当によかったのかって聞いているんだ。
竹中さんの言う通り、訴えてもよかったと思うし、慰謝料や海老名とその家族に謝罪を要求してもいいんじゃないかと思ってる。
ましてや、1回や2回くらい殴ったってバチなんか当たらないだろう」
僕は言った。
「私は」
椿は唇を開くと、
「自分のそばにいてくれる人がいれば、それでいいって思ってる」
と、言った。
「今の私には、大地を始めとする多くの人たちがそばにいる。
そんなひどいことをしたくないし、そばにいる人たちを悲しませたくないと思ってる。
自分がつらい思いをしたことを他人にもして欲しくないと思ってる。
それに…」
椿はそこで言葉を区切ると、
「私は、とても幸せだから」
と、言った。
「もう手に入らないと思っていた大切な人や愛する人がいる今が幸せだって思ってる。
私はその幸せを大切にしたいの」
「椿…」
名前を呼んだ僕の目が潤んだのがわかった。
優しい人だと、僕は思った。
椿はフッと微笑むと、僕の頬に手を伸ばした。
「大地や環さんが私のために怒ってくれただけで、もう充分だから。
もう私は1人じゃないんだって、そう思ったから」
「そうか…」
僕は呟くように返事をした。
「それにしても、いつも私のことを目で追っていたんだね?
私、全然気づかなかった」
そう言った椿に、
「まあ、それは…」
俺はどう返事をすればいいのかわからなくて、首を縦に振ってうなずくことしかできなかった。
「告白をしよう…とは思ってたよ。
だけど、あの当時はそんな勇気がなかったんだ。
もし嫌われたり、迷惑がられたらどうしよう…なんて」
自分の顔が熱くなっているのがわかった。
「でも、いいか…」
椿はそう呟くと、背伸びをした。
コツンとお互いの額をあわせたかと思ったら、
「今こうして大地と一緒にいることができているんだもん」
と、椿は言った。
「そんなかわいいことを言うなよ…」
椿のことを抱きたいと思ってしまう。
そっと椿の腰に手を回すと、
「――ッ…」
自分の唇を彼女の唇と重ねた。
椿の両手が僕の首の後ろに回ったかと思ったら、ギュッと強く抱きしめられた。
そんなことをされてしまったら、理性が崩壊してしまう…。
もう我慢ができない…。
チュッチュッと何度も唇を重ねながら、お互いの服を脱がせながら寝室へと足を向かわせた。
ベッドのうえについた頃には、何も身に着けていなかった。
「――椿…」
ささやくように名前を呼んで耳元にくちづけをすれば、
「――ひゃっ…!」
ビクンと、椿の躰が震えた。
「――好きだ、愛してる…」
僕がそう言ったら、
「――私も大地が好き…」
椿は返事をしてくれた。
あの頃は気持ちを伝えることに躊躇して、目で追っているだけで幸せだと自分に言い聞かせていた。
どれだけ悔やんでもあの頃は戻らない…けれど、結果的には椿と再会して、今は一緒にいる。
この瞬間を噛みしめながら、僕は椿と唇を重ねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます