始まりのきっかけ

実家に連絡を終えると、画面に表示された時計は12時を過ぎていた。


「昼飯だ」


僕はそう呟くと、カバンから黒いエプロンを取り出した。


それを身につけてシャツのそでをまくると、部屋を後にした。


昼ご飯を作るためにキッチンへと足を向かわせた僕だったが、そこからいい匂いがしていることに気づいた。


顔を出すと、椿が鍋を火にかけて温めているところだった。


「…椿?」


僕が声をかけると、

「あっ、ごめん…おとといの夕飯に使ったミートソースがまだ残っていたから、パスタを作ろうと思って」


椿は申し訳なさそうに呟いた。


「何だ、そうだったんだ」


僕はキッチンの前に立つと、

「何かすることある?」

と、聞いた。


「まだパスタをゆでてないの…。


冷蔵庫の中に残ってるのがあるから、それを出して」


そう言った椿に、

「わかった」


僕は返事をすると、冷蔵庫を開けた。


「わっ、すごい…」


冷蔵庫の中身に、僕は呟いた。


食材がたくさん入っている冷蔵庫に、僕は戸惑うことしかできなかった。


すごいな、作り置きまである。


普段は執筆に忙しいから、時間がある時に作り置きをしては温めて食べているのだろう。


…と言うか、ハウスキーパーの存在っている?


「これだけちゃんとしているんだったら、ハウスキーパーを雇う必要なんてないんじゃないか?」


冷蔵庫からパスタを取り出すと、僕は椿に言った。


「えっ?」


訳がわからないと言うように聞き返してきた椿に、

「だって、食材がぎっしりと入っているうえに作り置きまであるし…正直なことを言うと、ハウスキーパーはいらないんじゃないか?」


僕は答えた。


「…買っているのも作っているのも、私じゃないから」


椿が呟くように言った。


「えっ?」


今度は僕が聞き返す番だった。


「私、基本は家から1歩も出ないの。


食べるものは1階のコンビニで買ってるし、コーヒーが飲みたかったら2階のカフェに行ってるし、服とか何か必要なものがあったらネットで買ってるから」


椿が僕の質問に答えた。


「いや、でもこれ…」


僕は気づいた。


「ああ、光恵さんが全部用意してくれているんだ」


と言うか、光恵さんって料理ができたんだ…。


まあ、独身で1人暮らしをしている訳だけど…。


だけども、キッチンで料理をしている姿もスーパーマーケットで買い物をしている姿も想像することができなかった。


椿は何もしゃべりたくないと言うように、鍋の中のミートソースをおたまでかき回した。


「後は俺がやるから、椿は仕事をしててよ。


食事ができたら呼びに行くから」


そう言った僕に、

「…大丈夫なの?」


椿はジトッとした目で僕を見つめてきた。


「こう見えて、半年前まで1人暮らしをしていたから。


締め切りが近いんだろう?」


そう言った僕に、椿はいぶかしげだったがキッチンを出たのだった。


彼女がキッチンを出たことを確認すると、

「さて、と…」


僕は調理に取りかかった。


大鍋でパスタをゆでている間に冷蔵庫からレタスとトマトとハムを取り出すと、サラダを作った。


ゆであがったパスタの湯切りを済ませると、それを皿に盛りつけてミートソースをかけた。


できあがったパスタとサラダをリビングのテーブルのうえに置くと、サラダの取り皿とフォークとコップを置いた。


これで、昼ご飯の完成だ。


「できたぞー」


リビングのドアを開けて呼びかけると、椿が部屋から出てきた。


「意外だ…」


テーブルのうえに並べられている料理に、椿は驚いた様子で呟いた。


「簡単なヤツで悪いけど」


「悪くないから」


椿はそう言うと、椅子に腰を下ろした。


「サラダ、取ろうか?」


「自分でできるから」


椿は自分の取り皿にサラダを食べる分だけ入れた。


サラダを口に入れると、

「美味しい…」


椿は呟いた。


彼女のその反応に、僕はガッツポーズをしたくなった。


…まあ、所詮は盛りつけただけなんですけれども。


フォークにミートソースパスタを巻きつけてモグモグと食べているその姿は見ていてとても気持ちがよかった。


作ったこっち側としては、とてもいい食べっぷりである。


「ごちそうさまでした」


そう言って、椿は両手をあわせた。


テーブルのうえに並べられた皿は空っぽだった。


「後片づけは俺がやるから、食べ終わった食器はそのままにしていいから」


僕がそう言ったら、

「答えたくなかったらいいんだけど」


椿はそう言って話を切り出した。


「大地って、仕事をしているの?」


椿は聞いた。


「今は無職」


僕はそう答えると、

「半年前まではちゃんと会社に勤めて仕事をしていたんだ」

と、続けて言った。


「去年の春に大学を卒業してから旅行会社に就職して働いていたんだけど、今年の春にその会社が倒産したんだ」


僕は言った。


「旅行会社…ああ、何かニュースで見たことがある。


経営破たんで倒産したって」


椿は思い出したと言うように言うと、水を口に含んだ。


「いきなりだったよ。


そんなこと、一言も聞かされていなかったから驚いた。


いつものように会社に出社したら、“倒産しました”って言う貼り紙が貼られていたんだぜ?」


「そうだったんだ…。


それは、お気の毒に」


椿はあきらかに地雷を踏んでしまったと言う顔をしていた。


「いいんだよ、もう終わったことだから」


僕はそう言うと、

「幸いにも両親は健在だったから路頭に迷わなくて済んだ訳だけど…いつまでも両親のすねをかじって生きている訳にはいかないから、就職活動をしているんだ。


だけども、この不景気のせいでなかなか就職先が見つからなくて…」

と、息を吐いた。


「ただでさえ大変だって言うのに、結婚して地方に嫁いでいた姉が離婚して娘を連れて実家に出戻ってきたんだ」


僕には5歳年上の姉がいる。


2年前に勤め先の会社の先輩とできちゃった結婚をしたのだが、夫の浮気が原因で離婚して我が子を連れて実家に帰ってきたのだ。


姉は出戻りで、弟は無職――我ながら、本当に笑えない。


「…何か、ずいぶんと呪われているみたいだね」


そう言った椿はどうすればいいのかわからないと言う様子だ。


「姉は姉で実家にいる気満々だし…まあ、まだ子供が小さいから仕方がないって言う話なんだけど」


僕はやれやれと息を吐いた。


「それで光恵さんに就職先が見つかるまでの間、住み込みで働けるところがないかって相談したんだ。


その結果、紹介されたのが…」


「椿莉子――私のハウスキーパーだった、と言う訳ね」


そう言った椿に、僕は首を縦に振ってうなずいた。


「光恵さんが担当している作家が君だったなんて知らなかったよ」


「私だって、あなたが萩尾さんと親戚関係だったなんて知らなかったわ。


名字だって違うし」


「光恵さんは俺の母の妹なんだ、名字が違うのは当然のことだよ」


「そう」


椿はそう呟いて水を飲み干すと、コップをテーブルのうえに置いた。


「仕事に戻るわ」


そう言った椿に、

「食事の後片づけが終わった後で他に何かやることはある?」


僕は聞いた。


「洗濯とお風呂掃除をお願いするわ。


それが終わったら、夕飯を作るまでの時間は自分の好きにしていいから」


椿は指示を出すと、椅子から腰をあげた。


「わかった、仕事頑張って」


そう言い返した僕に椿はプイッと目をそらすと、リビングを後にした。


彼女の後ろ姿を見送ると、僕は皿を重ねてキッチンへと持って行った。


ハウスキーパーとしての仕事は、我ながら順調だ。


「下着は抜いてある…」


洗剤を入れるために洗濯機を開けた僕は呟いた。


まあ、当然のことなんだろうけど。


洗剤を入れて洗濯機を動かしている間、風呂掃除を済ませた。


洗濯を終えて服やタオルをハンガーにかけると、ベランダに出して乾かした。


今日はいい天気だ。


この様子なら、夜に取り込んでも大丈夫だろう。


言われた洗濯と風呂掃除を終えると、夕飯までの時間ができた。


「夕飯は確か6時だって言っていたから、遅くても5時に作り始めれば何とかなるな」


そう計算を済ませると、それまでの時間をどうしようかと僕は考えた。


「そうだ、今日結果がくるんだったよな」


この間面接した会社の結果発表が今日だったことを思い出した僕は自室へと足を向かわせた。


カバンからパソコンを取り出すと、それが僕の視界に入った。


椿莉子の『月影に咲く花』の単行本だった。


光恵さんに借りたのはいいけれど、今日までバタバタしていたから読むことができなかったんだよな…。


それも手に取ってリビングへと戻ると、パソコンを起動させた。


結果の報告はメールだ。


届いていたメールを開けて確認をすると、


「ダメだったか…」


僕は呟いた。


思った以上に厳しい現実に、僕は両手で頭を抱えた。


しばらくはハウスキーパーの仕事になれるために、就職活動は休むことにしよう。


パソコンを閉じると、僕は本を手に取った。


…椿は、一体どんな話を書いているのだろう?


恋愛小説を書いていることや絶大な人気を誇っている売れっ子小説家だと言うのは知っているが、作品自体は読んだことがない。


僕は『月影に咲く花』の表紙を開くと、読書に専念した。


――ああ、なんと言うことなんだ…


美しく、丁寧な文章で描かれたその作品に、僕は涙を流した。


時は大正時代、身分が違う2人の悲恋を描いたその話は艶やかで切なくて…そして、美しかった。


小説を読んで泣いたのは、これが初めてである。


グズグズと洟をすすって泣いている僕に、

「はい」


横からティッシュ箱が差し出された。


「――ああ、ありがとう…」


ティッシュを3枚ほど取り出してチーンと鼻をかんだ僕は気づいた。


視線を向けると、

「――つ、椿…?」


椿が僕の前に立っていた。


彼女の視線は、僕の手元にある本に向けられていた。


「トイレから帰ってきたら、リビングですすり泣いてる声が聞こえたから…」


呟くようにそう言った椿に、

「ごめん、心配かけたみたいで…。


あまりにもいい話だったから…」


僕は鼻声で謝ると、本を閉じた。


「そう、よかった…」


感想を述べた僕に、椿は呟くように返事をした。


「時代背景とか心理描写とかとてもすごくて…ラストの2人が心中するシーンもよかったけど、その前の愛しあうシーンがとてもとても印象的で美しくて…」


「その中に不審な点はなかった?」


僕の感想をさえぎるように聞いてきた椿に、

「いや、特になかったけど…?」


僕は答えると、首を傾げた。


不審な点って、何を指差しているんだ?


「そう…それならよかったわ」


椿はホッとしたと言うように返事をした。


「これだけいいものを書いているんだ。


どうして椿莉子が大人気なのかよくわかったよ。


経験が物を言うとは、まさにこう言うことを意味するんだなって思ったよ」


「――ないよ」


椿が言った。


「えっ?」


僕は訳がわからなかった。


「な、ないって…?」


何がないって言うんだ?


椿は言いにくそうに唇を開くと、

「――私、処女だから」

と、呟くように言った。


「…いやいや、ジョーダンは」


「本当よ」


僕の言葉をさえぎるように、椿が言った。


「恋は…」


「ないよ、恋をしたことなんて」


椿はそう言い返すと、目を伏せた。


「――私が転校した理由は、大地も知っているよね?」


呟くようにそう言った椿に、あの頃の出来事が僕の頭の中によみがえった。


――あの子のお姉さん、人を殺したんだって


――好きな男が自分に振り向いてくれなかったからって言う理由で刺しちゃったんだって


――何それ、怖過ぎるんですけど


同時に、おもしろおかしくはやし立てていたクラスメイトたちの顔も浮かんできた。


好き勝手に話を作る彼らの顔がこの世のものとは思えないくらいに醜かったことを、10年経った今でも覚えている。


「――ごめん…」


目をそらしている椿の顔に向かって、僕は謝った。


今の彼女の顔はつらく、悲しみにあふれた顔をしていることだろう。


「でも、この話はとてもよかった」


そう言った僕に、椿は目をあわせてくれた。


「小説を読んで泣いたのは、今回が初めてだよ」


「そう、ありがとう…」


感想を言った僕に、椿は微笑んだのだった。


彼女のその様子に僕はホッと胸をなで下ろした。


「ところで、なんだけど…」


椿はそこで話を区切ると、

「大地は、経験があるの?」

と、聞いてきた。


「経験…?」


呟くように聞き返した僕に、

「その、恋をしたこととか抱いたこととか…」


椿は言うのが恥ずかしいと言うように答えたのだった。


「まあ、それなりに…かな」


それに対して、僕は答えた。


「それなり?」


「うん、それなり」


聞き返してきた椿に、僕は首を縦に振って返事をした。


恋人がいたことがあったと言えばある…だけども、長くは続かなかった。


何故なら、心のどこかで椿と目の前の彼女を比べてしまうからだ。


違うのは当然のことなのに、つい比べてしまう自分に何度嫌気を感じたことだろうか。


椿は、どんな顔をするのだろうか?


椿は、どんな声を出すのだろうか?


椿は…こんな時、何を言うのだろうか?


そんなことばかりを考えて、彼女たちを比べてしまっていた。


――あなたって、何を考えているのかわからない


歴代の彼女たちはそう言って、僕の目の前からいなくなったのだった。


ピタリ…と、椿の手が僕の頬に触れたので僕は我に返った。


「つ、椿…?」


頬に触れたその手は小さくて、華奢だった。


椿の顔が僕に近づいてくる。


「ちょっ…ちょっと、待って!」


突然の出来事に驚いて、僕は椿から離れた。


椿はどうして離れたのかよくわからないと言った様子で僕を見ていた。


「い、一体何をするんだ…!?」


そう言った僕だけど、躰は正直なもので心臓がドキドキと早鐘を打っていた。


ずっと見ていた初恋の女の子が目の前にいること、その子が僕に触れてきたことに、僕は興奮と喜びを感じていた。


「何って…キス?」


そう聞き返してきた椿に、

「き…!?」


僕はどう返事をすればいいのかわからなかった。


「したことあるんでしょ?」


「ま、まあ…」


って、違う違う!


「な、何でそんなことをするのかって俺は言っているんだけど」


「キスしたことがないんだもん」


僕の言葉に椿は答えた。


「だ、だからと言って、これは…」


僕は何が言いたいんだ。


僕はどうしたいんだ。


興奮しているのか喜んでいるのか戸惑っているのか、何が何だかさっぱりわからなくなってきた。


「これは?」


そう聞き返してきた椿に、

「突然そんなことをされたら、誰だって驚くに決まってるだろ!」

と、僕は答えた。


ちゃんと言うことができているだろうか?


不自然になっていないだろうか?


「私はそうならないと思ってるけど」


「いや、なる!」


何なんだ、これは。


子供同士のケンカかよ…。


「じゃあ…」


僕はそう言って、椿の頬に自分の手を触れた。


「試してみるか?」


そこまで言って、僕はハッと我に返った。


やってまった…。


勢いだったとは言え、何クソだったとは言え、やってまった…。


「えっ…」


椿は驚いた様子だった。


ヤバい、これはドン引かれた…。


ハウスキーパー初日に何をやっているんだ…。


いや、待て。


今だったら、ジョーダンだと言って逃げることができるぞ。


そう思ったけれど、

「いいよ」


椿が言った。


「えっ?」


思わず聞き返したら、

「私に教えてよ」


椿が言い返した。


「キスがどんなものなのか、どう言う風にするものなのかって、私に全部教えてよ」


「――ッ…」


そんなことを言われた僕は、どうすればいいのだろうか?


好きな子にそんなことを言われて落ち着いている男がどこにいるって言うんだ…。


「――ど、どうなったって知らないからな」


そう言った僕だけど、椿は特に動じた様子を見せなかった。


歯止めが利かなくなっても、知らないからな?


「まずは、目を閉じて…」


椿は従うように、そっと目を閉じた。


彼女の目を見てキスをする自信は、僕の中になかった。


心臓がドキドキ…と、早鐘を打っている。


落ち着け、落ち着くんだ…。


少しずつ、落ち着いて…彼女と僕の距離を縮める。


その距離が後少しになった時、僕は自分の目を閉じた。


「――ッ…」


僕と彼女の距離がゼロになったその瞬間、僕の唇は彼女の唇と重なっていた。


柔らかかった。


彼女の唇は肉づきがよく、思った以上に柔らかかった。


マシュマロみたい…いや、それ以上かも知れない。


僕が思っていた以上に柔らかくて温かい唇の感触に、ただでさえ早く動いている心臓のスピードがさらに加速した。


ヤバい、どうすればいいんだ…。


ずっと夢見ていた好きな女の子とのキスに、ジョーダンでも何でもなくて本当にどうにかなってしまいそうだ。


僕が椿の唇に触れていた時間は長かったような気もするし、短かったような気もする。


唇を離す時は丁寧に、まるでシールでも剥がすかのようにして、唇を離した。


目を開けて椿を見ると、彼女は目を閉じていた。


「――椿、目を開けていいよ…」


呟くようにそう言った僕に従うように、椿は目を開けた。


熱でもあるのかと聞きたくなるくらいの潤んだ目で椿は僕を見つめてきた。


どうしよう…。


このまま椿を押し倒してしまいたい…。


いや、待て。


そんなことをしたら、ものの数秒で追い出されるぞ。


間違いなく、ハウスキーパーはクビである。


「――ど、どうだった…?」


自分を落ち着けるために、僕は椿に話しかけた。


「――えっ…?」


呟くように聞き返してきた椿に、

「その…初めてのキス、と言うものは」


僕は呟くように答えた。


「――よかった…」


椿が言った。


「自分が書いていた以上だって思った…。


それ以上によくて、驚いた…」


そこまで言うと、椿は恥ずかしそうに自分の顔を手でおおった。


「私ね…正直なことを言うと、キスを軽視していた部分があるの。


特に大切なことだとは考えずにキスシーンを書いていたんだけど…たった今、大地にキスをされてわかった」


椿はそこで言葉を区切って、顔を隠していた手を外した。


「こんなにも、大切なことなんだって」


「――ッ…」


そんなことを言われてしまった僕は、どうすればいいのだろうか?


勘違いをしてしまいそうだ。


椿も僕が好きなんじゃないかと、勝手に解釈をしてしまいそうだ。


「そ、そう…それなら、よかったよ」


ずっと夢見ていた好きな女の子とのキスがこんな形でかなうことになるとは、10年前の僕が知ったら驚くかも知れない。


「もっと知りたい」


椿が言った。


「えっ?」


今度は何を知りたいのだろうか?


そう思いながら聞き返したら、

「小説を書くうえで必要なのは、やっぱり経験なんだって今のキスで思った。


だから…」


椿は僕を見つめると、

「私に、もっと教えて?」

と、言った。


まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかった。


えーっと、僕は彼女から何を何がどうしろって言われたんだ…?


「大地」


椿が僕の名前を呼んだ。


「あ、えっと…」


と言うか、これもハウスキーパーとしての仕事になるのか?


…いや、そんな訳がないか。


「お、俺でいいって言うのか?」


そう聞いた僕に、椿はコクリと首を縦に振ってうなずいた。


「あなたしか頼めないって、私は思ってる」


そう言った椿に、僕の心臓がドキッ…と鳴った。


椿が僕を頼っているんだと思ったら、どうすることもできなかった。


好きな女の子が目の前にいて、そのうえ僕を頼っている。


「――わかった」


僕は言った。


「じゃあ、教えてあげる」


そう言って、僕は椿の頬に自分の手を添えた。


「椿が知りたいと思っていることを全部教えてあげる。


それで、椿の役に立つなら俺は教える」


「ありがとう、大地」


頼みを断ると言う選択肢は、僕の中に浮かばなかった。


好きな女の子の役に立ちたいと、そう思っていた。


「椿」


僕は名前を呼ぶと、顔を近づけた。


それに気づいた椿が目を閉じて、僕を受け入れる準備をする。


僕も目を閉じると、彼女の唇に自分の唇を重ねたのだった。

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