10年ぶりの再会

関谷大地(セキヤダイチ)、24歳。


ハワイアンな音楽が流れているこのカフェは、僕の母方のおばである萩尾光恵(ハギオミツエ)さんの行きつけの店の1つである。


そこで光恵さんに呼び出された僕は、テーブルのうえに置かれたソフトカバーの単行本を見つめた。


光恵さんは『葉月出版社』の編集部に勤務しているのだ。


単行本のタイトルは『月影に咲く花』だ。


…何かどこかで聞いたことがあるタイトルだな。


そう思いながら作者名に視線を向けると、

「椿莉子…って、あの恋愛小説家の!?」


僕は驚いて光恵さんに聞き返した。


「そうよ」


光恵さんは答えると、マンゴージュースをストローですすった。


椿莉子(ツバキリコ)とは、今大人気の恋愛小説家だ。


瑞々しくて繊細な文章と独特の感性で描かれるその小説は多くの読者の心をつかんでいる。


2年前に出版されたデビュー作である『月影に咲く花』は200万部を越え、社会現象にもなったほどだ。


その後も出版される彼女の小説は次から次へとヒットを飛ばし、去年の夏に出版された『四季が通る街』は3回も重版がかかったうえに今年の冬にテレビドラマ化された。


“恋愛小説の女王”と称される彼女だが、かなりの取材嫌いで有名らしく、その顔は全くと言っていいほどに知られていない。


一部ではブスだからじゃないかとか本当は男じゃないかとか、果ては存在しないのではないかと噂されている。


「ハウスキーパーの仕事をして欲しいの」


光恵さんが言った。


「は、ハウスキーパーですか…」


いわゆる、家事代行と言うヤツですよね?


今年の春まで1人暮らしをしていたから、家事はできないと言う訳ではない。


「彼女、仕事で忙しいから家事をやってくれる人が欲しいって」


「はあ、そうですか…。


でも、大丈夫ですかね?」


そう聞いた僕に、

「ああ、全然大丈夫よ。


部屋数はいっぱいあるから、好きなように使ってくれても構わないって言ってたわ。


仕事以外の時間は好きなように過ごしてもいいって言ってたし」


光恵さんは答えた。


住み込みでの仕事が欲しいと相談したら、まさか有名小説家のハウスキーパーがくるとは…。


まあ、いいか。


所詮は、次の就職先が見つかるまでの繋ぎだ。


「わかりました、引き受けます」


そう言った僕に、

「ありがとう、大地くん!」


光恵さんは嬉しそうにお礼を言うと、カバンからスマートフォンを取り出した。


「早速、彼女に連絡をするわ。


いつきて欲しいかどうかも聞くから、それまでに荷物をまとめてね。


ああ、ここは私が奢るから他に頼みたいものがあったら頼みなさいね」


光恵さんはそう言って僕にメニュー表を渡すと、スマートフォンを片手に椅子から立ちあがったのだった。



それから1週間後、僕は目的地に到着した。


「えーっと、ここか…」


スマートフォンの地図アプリを頼りに訪れた先は、60階建てのタワーマンションだった。


1階はコンビニ、2階はシアトルから上陸したと言うコーヒーの専門店、3階がフィットネスジム、4階がエントランス…と、前日に光恵さんから送られたフロアマップを見ながら、僕は絶句していた。


「さすが、恋愛小説の女王だ…」


次から次へとヒット作を飛ばしているその実力はハンパない…。


確か、椿莉子は38階に住んでいるとかって言ってたよな。


そう思いながら、僕は中へと足を踏み入れると、エレベーターで4階へと向かった。


エントランスは、まるでホテルのロビーみたいだった。


そこに設置されてある機械に部屋番号を入力するとチャイムを鳴らした。


ピーンポーン


「はい」


女の人が出てきた。


男ではなかった。


「本日からハウスキーパーとしてやってきました、関谷と申します」


そう言ったら、

「どうぞ」


一言だけ返事が返ってきたかと思ったら、ガチャリと切られてしまった。


えっ、マジっすか…。


いきなりあっさりと切られてしまったことに、僕はどうすればいいのかわからなかった。


こりゃ、相当なまでに気難しい人かも知れないぞ…。


何しろ、取材嫌いだって言うくらいだからな…。


上手に対応しないとクビにされるかも知れない…。


何より、紹介してくれた光恵さんにも申し訳ない…。


いろいろと不安を抱えながらエレベーターに乗ると、彼女が住んでいる部屋の階までのぼった。


エレベーターを降りて部屋の前に行くと、チャイムを鳴らした。


ガチャッとドアが開いたかと思ったら、そこから誰かが顔を出した。


「あっ…」


その顔を見た僕は、驚いた。


「えっ…」


僕の顔を見た彼女も、同じように驚いていた。


これは、どう言うことなんだ?


「あの、椿莉子さんは…?」


呟くように聞いた僕に、

「椿莉子は私だけど…」

と、彼女は言いにくそうに答えた。


マジかよ…。


と言うか、こんなことってあるのかよ…。


「君は…清水さん、だよね?


俺のこと、覚えていないかな?


中学の時、同級生だった…」


そう言った僕をさえぎるように、

「関谷大地くんだよね?」


彼女は僕の質問に答えた。


「ここで話もあれだから入ったら?」


そう言った彼女に、

「じゃあ、お邪魔します…」


僕はペコリと会釈をすると、家の中に足を踏み入れたのだった。


部屋の中は思った以上に広くて、ホテルのスイートルームかと思ってしまった。


「部屋はいっぱいあるから、どこか好きなところを使ってもいいよ」


そう話をしている彼女の背中を僕は追った。


その背中を見ながら、僕は変わっていないなと心の中で呟いた。


身長はあの頃よりも若干伸びたけれど、姿はあの頃のままである。


腰まで伸びたストレートの黒髪に華奢な躰は、何も変わっていない。


「関谷くん?」


彼女が僕の方を振り返った。


僕を呼ぶその声も、あの頃のままだった。


「ああ、うん…」


僕は首を縦に振って返事をすると、彼女の顔を見つめた。


二重のパッチリとした大きな目は、まるで猫みたいだ。


小さな鼻に小さな紅い唇も、あの頃のままである。


何もかもがあの頃のままだから、年齢をとっていないのかと思ってしまったほどだ。


「関谷くん?」


僕を呼んだ彼女に、

「ああ、ごめん」


僕は謝った。


「そんなにも、私が椿莉子だったって言うことが意外だった?」


そう聞いてきた彼女に、

「その、もっと年上の人なんだろうなって思っていたから…」


僕は答えた。


「もう1度確認するけれど…清水さん、なんだよね?」


そう聞いた僕に、

「…今は、清水じゃないけどね」


彼女は呟くように答えた。


「今の私の名字は、津曲よ。


津曲椿(ツマガリツバキ)、それが今の私の名前だから」


彼女――津曲椿は言った。


「そうか、そうなんだね」


僕は返事をすると、

「それじゃあ、君のことはなんて呼べばいいかな?」

と、聞いた。


「“椿”でいい」


彼女が言った。


「えっ、椿?」


「それでいい、私も関谷くんのことを“大地”って呼ぶから」


彼女に名前を呼ばれて、僕の心臓がドキッ…と鳴った。


ずっと抱えていたこの思いを打ち明けてしまいそうになった。


「…わかった、そう呼ぶね」


僕が首を縦に振って返事をしたことを確認すると、

「じゃあ、私は仕事に戻るから」


椿はそう言うと、僕の前から立ち去った。


「うん、わかった」


僕は返事をすると、彼女の後ろ姿を見送った。


いくつかある部屋を見て回って、部屋を決めると、そこに荷物を置いた。


ベッドなどの家具は後で実家から送ってもらうことになっている。


「さて、と…」


実家に到着したことを伝えるために、僕はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。


画面に視線を向けると、電話が1件きていることに気づいた。


光恵さんからだった。


指で画面をタップすると、光恵さんに電話した。


「もしもし?」


「到着した?」


そう聞いてきた光恵さんに、

「うん、まあね」

と、僕は答えた。


「それよりも、何で言ってくれなかったの?」


そう言った僕に、

「えっ、何のこと?」


光恵さんは訳がわからないと言った様子で聞いてきた。


「椿莉子のことだよ。


彼女、俺の中学時代の同級生なんだよ」


「えっ、そうなの!?」


驚いたように聞き返してきた彼女の声に、僕は3センチほどスマートフォンを耳から離した。


「今は名字が変わっているけれど、中学時代の彼女の名前は清水椿(シミズツバキ)だったんだ。


と言うか、教えてくれたっていいじゃんか」


「ごめん、まさか大地の同級生だったなんて知らなくて…」


その様子だと、本当に知らなかったみたいだ。


「もしかしてとは思うけど…大地、椿さんのことが好きだったの?」


「なっ…!?」


おいおい、早速鋭いところを攻めてくるじゃないか…。


「そ、そんなんじゃねーよ!」


僕が言い返したら、

「好きだったからと言って、彼女に手を出すのはご法度よ。


ちゃんとハウスキーパーとして、まじめに仕事をしなさいねー」


光恵さんはからかうように言ってきた。


「だから、違うってば!」


そう言い返す俺に、光恵さんはクスクスと笑いながら電話を切ったのだった。


スマートフォンを耳から離すと、僕は息を吐いた。


「好きだった、か…」


さすがだと、僕は思った。


赤ん坊だった僕のオムツ替えを行ってくれただけのことはあるなと、そんなことを思った。


津曲椿こと清水椿は…僕の中学生時代の同級生で、僕の初恋相手だった。


無口で引っ込み思案な彼女のことが好きだった。


その初恋は、今でも現在進行形で続いている。


「まさか、こんな形で再会することになるとは…」


胸にスマートフォンを抱えると、僕は呟いた。


この様子だと、椿が結婚をしている様子もなければつきあっている人もいないみたいだ。


「チャンスか?」


いや、御法度だ。


初恋だから、好きだからと言う理由で手を出すのは、御法度だ。


僕と椿は学校の同級生じゃない。


ハウスキーパーと売れっ子小説家の関係だ。


この関係だけは、何が何でも保って生活をして行かないといけない。


そう、僕に次の就職先が見つかるまで。


「そうだ、実家に連絡しないと」


僕はスマートフォンの画面を指でタップすると、実家に電話をかけるのだった。


関係だけは壊さないと決意をしたはずなのに、それは約数時間後に脆くも崩れ落ちることになる。


――私、処女だから

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