一釣さんとチョコレート
チョコレート専門メーカー『キルリア』との共同イベントは、明日になった。
「よし、できた」
1人暮らしの我が家のキッチンで、あたしは言った。
あたしの目の前に並んでいるのは3種類のチョコレートである。
1つ目はイベント部のみんなにプレゼントするカップチョコレートだ。
アルミカップの中にはミルクチョコレート、ビターチョコレート、ホワイトチョコレートの3種類に分けて入れて、そのうえにはアーモンドやアゼランやマーブルチョコレート、カラーチョコスプレーで飾りつけをした。
2つ目はお世話になった秦野さんにプレゼントするチョコレートだ。
こちらは彼女の旦那さんも一緒に食べれるようにと思って、ガトーショコラにした。
最後は…一釣さんにプレゼントするチョコレートだ。
「一釣さん、食べてくれるといいな…」
あたしが作るお菓子が好きだと言った彼のことを思いながら、あたしは目の前のチョコレートを見つめた。
「さて、ラッピングをしなきゃ」
明日はいつもよりも早起きをして、イベント会場へと向かわなきゃいけない。
用意したそれぞれの箱にチョコレートをつめると、包装紙とリボンでキレイにラッピングをした。
ラッピングし終えたチョコレートを冷蔵庫に入れると、あたしはお風呂に入るためにバスルームへと足を向かわせた。
――ジリリリリッ…!
ふとんの中から手を伸ばして、鳴っている目覚まし時計を止めた。
いつもよりも1時間早い6時に起きると、あたしはふとんから這い出た。
パジャマからボーダータートルネックと白パンツに着替えると、そのうえから紺色のロングカーディガンを羽織った。
腰近くまであるストレートの黒髪をブラシでとかすと、白のリボンヘアバンドをつけた。
チーズトーストとストロベリーティーの朝食を済ませて、歯を磨いてメイクを終えると、昨日の夜にラッピングをして用意したチョコレートを冷蔵庫から取り出して紙袋に入れた。
充電したばかりのスマートフォンをカバンの中に入れて、忘れ物がないかのチェックをした。
…よし、ないな。
コートとマフラーを身につけて、カバンと紙袋を手に持つと、玄関の方へと足を向かわせた。
今日のイベントはあちこち動き回ることも考えてみると、パンプスよりもスニーカーの方がいいかも知れない。
そう思いながら、あたしは靴箱から黒のハイカットスニーカーを取り出した。
それを履いてキュッと靴ひもを結ぶと、
「行ってきまーす」
ドアを開けて、自宅を後にした。
冷たい朝の空気を肌に感じながら、あたしは駅へと向かった。
イベント会場は、『三坂百貨店』と言うデパートの10階の催し物広場で行われる。
10時にデパートが開店するため、その2時間前に準備と最終確認も兼ねて訪ねた。
「おはようございます」
会場に到着すると、『キルリア』の秦野さんはもうすでにきていた。
「おはようございます、相楽さん」
あたしがきたことに気づいた秦野さんがあいさつを返した。
秦野さんは赤のリブネックセーターに細身のジーンズだった。
パーマがかかっている髪はハーフアップにしてバレッタで留めていた。
耳には大きめの真珠のピアス、足元は黒のパンプスを履いていた。
あたしと身長はそんなにも変わらないはずなのに、今日の秦野さんの服装はとても似合っていた。
「今日を迎えましたね」
そう声をかけてきた秦野さんに、
「はい、迎えました」
あたしは返事をした。
実のところを言うと、あたしは緊張していた。
イベントを担当すること自体が初めてと言うこともあり、ここへついたとたんに緊張が躰を襲った。
「大丈夫ですよ、相楽さん」
秦野さんはポンと、あたしの肩をたたいた。
「相楽さんが頑張っていたことは一緒に打ちあわせをした私がよく知っています。
私もできる限り、相楽さんのフォローをしますから」
心強い秦野さんに、
「はい」
あたしは首を縦に振って返事をした。
秦野さんと打ちあわせをしていたら、次々と同僚たちがやってきた。
あたしたちは同僚たちと共に最終確認を行いながら、開店時間を待った。
その中に、一釣さんの姿を見つけた。
彼は白のシャツに黒のケーブルニットのセーター、チェック柄のパンツを身につけていた。
トレードマークであるメタルフレームの眼鏡もかけている。
背が高くてスタイルがいいせいか、どんな服も似合ってしまうから不思議だ。
「相楽さーん」
秦野さんに呼ばれたので、
「はーい、今行きまーす」
あたしは返事をすると、彼女のところへ行った。
開店時間は、刻一刻と迫っている。
今は一釣さんに目を奪われている時間はない。
でも…飲み会のタクシーの中で、彼が何も行動を起こしてくれなかったのは残念だった。
一釣さんはあたしを自宅まで送った後、すぐに帰ったのだ。
大雪警報の夜のこともあるから、期待はしていなかった。
だけど、本当は何かしてくれるんじゃないかと期待していた。
「相楽さん、これ」
差し出された紅茶をコクリと1口だけ飲むと、
「はい、いいですよ。
あんまり蒸しちゃうと、逆に苦味が出てしまいますから。
氷の方は足りてますか?」
あたしは言った。
「全部冷蔵庫にあります」
午前10時、デパートが開店したのと同時に『キルリア』と『マイダス』の共同イベントがスタートした。
『キルリア』の社長である飛永詩文(トビナガシフミ)がコーヒーよりも紅茶が好きで、特に『マイダス』をひいきにしてもらっていると言うことから、今回の共同イベントが決まった。
チョコレートと相性がいいお茶をいくつか集めて、打ちあわせを何度も重ねた。
今日が休日と言うこともあってか、デパートには多くのお客様が来店してきている。
当然のことながら、イベント会場にもやってくるお客様もたくさんいた。
『キルリア』のチョコレートが目当てだったり、『マイダス』のお茶が目当てだったりと理由はいろいろとあるかも知れないけれど、イベントそのものは順調だ。
その間、担当者のあたしと秦野さんはあちこちを走り回った。
足りなくなった茶葉を店頭に並べたり、氷の補充やお湯の追加などとやることがあって、とにかく目まぐるしい。
秦野さんもチョコレートの試食を用意したり、同僚に呼ばれたらあっちへ行ったりこっちへ行ったりと大忙しだった。
一釣さんの姿を探して見つけると、彼はお客様にお茶の試飲を勧めていた。
デカフェシリーズの1つであり、その中でも1番よく売れているピーチティーの試飲である。
忙しいのに一釣さんの姿を探して見てしまう自分に、あたしはペチリと自分の頬をたたいた。
一釣さんはいつも通り、まじめに仕事をしている。
「さっ、仕事仕事」
あたしは自分に言い聞かせると、一釣さんから目をそらした。
これと言ったハプニングやトラブルも特になく、午後8時にデパートが閉店したのと同時に共同イベントが終了した。
「皆さん、お疲れ様でしたー」
あたしと秦野さんは声をそろえて、イベントの終了を告げた。
イベントに関わった同僚たちはホッとした表情を見せながら、イベントの成功を喜んでいた。
「相楽さん、お疲れ様です。
イベントの成功おめでとうございます」
そう言って声をかけてくれた課長に、
「ありがとうございます!
課長、お疲れ様でした」
あたしは返事をすると、頭を下げた。
「秦野さん、ウチの相楽がお世話になりました」
課長は秦野さんに視線を向けると、彼女に声をかけた。
「とんでもないです。
今回のイベントは、相楽さんが頑張ってくれましたから」
秦野さんは照れくさそうに笑いながら、課長に言った。
「秦野、よくやったぞ」
今度は秦野さんのところの課長が声をかけてきた。
「ありがとうございます、課長」
秦野さんは自分の課長にお礼を言った。
「相楽さんもお疲れ様でした」
「ありがとうございました」
あたしはお礼を言うと、頭を下げた。
後片づけはデパートの従業員たちがやってくれると言うことなので、あたしたちは控え室の方へと場所を移した。
控え室に置いていた紙袋から秦野さんにプレゼントするチョコレートを手に取ると、彼女の方へと向かった。
秦野さんは帰り支度をしているところだった。
よかった、間にあった。
「秦野さん、お疲れ様です」
そう言って声をかけたあたしに、
「ありがとうございます、相楽さん」
秦野さんは笑顔でお礼を言った。
「あの…これ、もしよろしかったら」
あたしは秦野さんに真っ赤なハートの形をした箱を差し出した。
「今日までありがとうございました」
そう言ったあたしに、
「わーっ、ありがとうございますー」
秦野さんは嬉しそうに、あたしの手から箱を受け取った。
「開けてもいいですか?」
そう聞いてきた秦野さんに、あたしはどうぞと返事をした。
パカッと秦野さんが箱を開けると、
「ガトーショコラだ、しかもハートだ」
彼女は嬉しそうに声をあげた。
「これって、相楽さんの手作りなんですか?」
「はい、自分で作りました」
「わーっ、美味しそうですね」
「ほんのお礼ですが、今日までありがとうございました。
また秦野さんと一緒に仕事ができることを心待ちにしています」
「私も相楽さんと仕事ができて嬉しかったです。
もしまた一緒になったら、その時はよろしくお願いしますね」
「はい、お疲れ様でした!」
秦野さんは笑顔で手を振りながら、あたしの前から立ち去った。
秦野さんを見送って控え室に戻ると、
「まほろ、お疲れ様」
カイちゃんがオレンジジュースを差し出した。
「ありがとう、カイちゃん」
あたしはカイちゃんにお礼を言うと、彼女の手からオレンジジュースを受け取った。
それから同僚たちに顔を向けると、
「皆さん、本日はありがとうございました!」
お礼を言って、頭を下げた。
「今回のイベントが成功したのは皆さんのおかげです。
本当に、ありがとうございました!」
そこまで言い終えると、紙袋から大きな丸い箱を取り出した。
イベント部のみんなにプレゼントするチョコレートだ。
たくさんチョコレートが入れることができるようにと思って、大きめの箱を選んだ。
「これは、あたしからのほんのお礼です。
本当にありがとうございました!」
あたしは箱をテーブルのうえに置くと、ふたを開けた。
みんなは箱を覗き込んで、
「わーっ、美味しそう!」
「これ、相楽さんが全部作ったの?」
「かわいいー」
と、いろいろなことを言ってきた。
「相楽さん、ありがとう」
「あっ、ナッツが入ってる!」
「私のはマーブルチョコレートだ!」
自分が気に入ったカップチョコレートを手に取ると、美味しそうに食べ始めた。
一釣さんに視線を向けると、自分の分が回ってくるのを待っているところだった。
みんながチョコレートに気をとられている隙に、あたしは紙袋から一釣さんにプレゼントするチョコレートを取り出すと彼に歩み寄った。
一釣さんの肩をトントンとたたいたら、彼は振り向いた。
「一釣さん、ちょっと…」
小さな声でそう言ったあたしに、一釣さんはわかったと言うように首を縦に振ってうなずいた。
彼と一緒にこっそりと控え室を後にすると、
「相楽さん、何か用?」
一釣さんが聞いてきたので、あたしはチョコレートを差し出した。
赤いリボンとチェック柄の包装紙に包まれた小さな箱だ。
「えっ、俺にくれるの?」
差し出されたそれとあたしの顔を見ながら、一釣さんが聞いてきた。
「…一釣さんは、特別ですから」
呟くように、あたしは答えた。
「一釣さん、あたしが作るお菓子が好きだって言ったじゃないですか。
だから…」
一釣さんはフッと微笑むと、
「ありがとう、相楽さん」
あたしの手からチョコレートを受け取った。
一釣さんがチョコレートを手に取ったのを確認すると、
「おっ、わっ…!?」
あたしは彼の躰に両手を回して、抱きついた。
「えっ、どうしたの?」
あたしの思わぬ行動に一釣さんが戸惑っている。
「――あたし…」
あたしの心臓がドキドキと鳴っている。
今から言うことに、あたしは緊張を隠すことができない。
落ち着け、落ち着くんだあたし…。
少しだけ深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、
「――あたし、一釣さんを独り占めしたいです…」
唇を動かして、音を発して、彼に告げた。
「えっ?」
そう聞き返してきた一釣さんの顔を見あげると、眼鏡越しの目が大きく見開いていた。
「一釣さんを、あたしだけのものにしたいんです…」
眼鏡越しの瞳があたしを見つめている。
あたしの思いは、彼に伝わっただろうか?
自分をコントロールするのはもうやめて、欲張りになって、彼に自分の正直な思いを伝えた。
ニヤリと眼鏡越しの瞳が笑ったその瞬間、ゾクリ…とあたしの背筋が震えた。
ああ、あの感覚だ。
そっと、一釣さんの唇があたしの額に触れた。
あたしの頭のうえに、一釣さんの手がポンと置かれた。
「相楽さんがよかったらだけど…」
一釣さんはあたしの顔を覗き込むと、
「俺ン家にくる?」
と、聞いてきた。
ドキッ…と、あたしの心臓が鳴る。
「――はい…」
呟くように、だけどはっきりとあたしは返事をした。
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