一釣さんと大雪警報

ここ最近流れている寒波の影響からか、数日前から雪が降っていた。


躰の芯まで凍ってしまうんじゃないかと思うくらいの寒い日々が続いている。


窓の外に視線を向けると、真っ白で何も見えない状況だ。


「帰り、大丈夫かな」


降っている雪を見ながら、カイちゃんが呟いた。


「交通機関は今のところは順調らしいけど…」


スマートフォンでチェックする限りは交通機関に特に乱れはないようだ。


でもいつ止まるかわからないから油断はできない。


「とりあえず、帰るまでに交通機関が大丈夫なことを祈るしかないね」


そう言ったカイちゃんに、あたしはそうだねと返事をするとパソコンに視線を向けた。



仕事にキリがついて会社を出たのは、6時を少し過ぎてからだった。


「じゃあ、また明日ね」


カイちゃんとは別方向なので会社の前で別れると、あたしは駅へと足を向かわせた。


「寒い…」


雪はやむどころかさらに降っているような気がする。


右を見ても左を見ても真っ白で、何がどうなっているのかよくわからない。


駅に到着すると、改札口の前にボードがあることに気づいた。


何だか嫌な予感がする…。


そのボードを覗き込んで見ると、大雪のために電車が遅れていると言うことが書いてあった。


えっ、大丈夫じゃなかったの!?


この大雪の中で歩いて家に帰ろうと言う気は起きなかった。


タクシー乗り場に視線を向けると、そこは大行列だった。


この寒い中でタクシーを待つのは間違いなく無理だ。


何より、いつ帰れるかどうかもわからない。


バス乗り場にも視線を向けたけれど、結果は同じだった。


「参ったな…」


電車が復旧するまで近くの喫茶店で待とうか…と思ったけれど、いつになるのかわからない。


「相楽さん?」


聞き覚えのあるその声に名前を呼ばれて、ビクッと躰が震えた。


声の持ち主に視線を向けると、

「一釣さん…」


一釣さんだった。


「一釣さんも、今から帰るんですか?」


呟くようにそう聞いたあたしに、

「ひどくならないうちに早く帰ろうと思って」


一釣さんが答えた。


「電車止まってるの?」


そう聞いてきた一釣さんに、

「みたいです…」


あたしは呟くように返事をした。


だから、どうしようと途方に暮れていると言う訳である。


心の中でそう呟いたら、

「相楽さんがよかったらなんだけど」


一釣さんがそう言って話を切り出してきた。


「はい?」


そう聞き返したあたしに、

「俺ン家にくる?」


一釣さんが言った。


「…えっ?」


俺ン家って、一釣さんの家ですか?


「ここから歩いて10分のところにあるんだ」


一釣さんが話を続けるけれど、あたしはすぐに返事をすることができなかった。


と言うか、

「…いいんですか?」


会社の先輩の家とは言え、いいのだろうか?


呟くように聞いたあたしに、

「いいよ」


一釣さんが言い返した。


でも待て…。


一釣さんがあたしに行ってきたいろいろなことを思い出してみようか…。


…絶対に変なことをされるに決まってる!


「どうかした?」


あたしの様子に、一釣さんが聞いてきた。


「…い、いえ、何も…」


それに対して、あたしは首を横に振って答えた。


「その様子から察すると、だいたいはわかるけど」


眼鏡越しの瞳がニヤリと、あたしに笑いかけてきた。


「相楽さん、顔に出やすいもん。


自覚がなかった?」


一釣さんの手があたしの頬をなでてきた。


まるで猫をなでているような手つきだと思った。


えっ、そうなんですか?


全くと言っていいほどに気づきませんでした。


と言うか、あたしは猫じゃないです!


「わ、わかりました、そうしますそうします」


あたしはコクコクと、首を縦に振ってうなずいた。


「うん、いい子だね」


一釣さんは頬をなでいたその手を離すと、満足そうに首を縦に振ってうなずいた。


またからかわれた…。


あたし、思いっきり一釣さんに遊ばれてます…。



10分歩くと、グレーの壁のマンションが見えてきた。


あそこが一釣さんが住んでいるマンションのようである。


マンションは8階建てで、6階の東側の部屋が一釣さんの住んでいる部屋だった。


「少し散らかってるけど」


一釣さんはそう言うと、床に置いていた文庫本を何冊か拾うと本棚に入れた。


モノトーンで統一された1LDKの部屋だった。


口では散らかってるなんて言ったけど、ちゃんとキレイにしているじゃない。


本当にまじめだなと思った。


エアコンをつけると、部屋が温かくなった。


「どこか適当なところに座って」


一釣さんはそう言い終えると、キッチンの方へと足を向かわせた。


その後ろ姿を見送ると、あたしは床のうえに腰を下ろした。


冷たかった。


カチリと音がしたのでキッチンの方に視線を向けると、やかんを沸かしているところだった。


そこから目をそらすと、今度は本棚に視線を向けた。


文庫本とコミック本が並んでいた。


作家名順と巻数順に並んでいるところを見ると、本当にまじめだ。


「はい」


一釣さんの声がしたのと同時に、あたしの前にマグカップが差し出された。


「…ありがとうございます」


あたしが一釣さんの手からマグカップを受け取ったことを確認すると、彼はあたしの隣に腰を下ろした。


マグカップの中に入っていたのは、『マイダス』で取り扱っているデカフェのマスカットティーだった。


デカフェとは、本来カフェインを含んでいる飲食物からカフェインを取り除いたり、通常はカフェインを添加する飲食物にカフェインの添加を行わないことで、カフェインを含まなくなったもののことを指差している。


ちなみにデカフェはフランス語で、一般的にはカフェインレスやカフェインフリーと呼ばれている。


マグカップに口をつけると、温かいマスカットティーが喉を通って、それまで冷えていた躰が温まったのがわかった。


「テレビつけてもいい?」


そう聞いてきた一釣さんに、

「どうぞ」


あたしは返事をすると、彼はテーブルのうえのリモコンを手に取ってテレビをつけた。


テレビの画面に映ったのはニュースだった。


「すごいね、雪」


テレビを見ながら話しかけてきた一釣さんに、

「警報が出ていますね」


あたしもテレビを見ながら返事をしたのだった。


一釣さんはマグカップをテーブルのうえに置くと、腰をあげた。


襖を開けると、そこからふとんを取り出した。


…ベッド、ありますよね?


取り出したふとんを床のうえに置くと、

「来客用のふとん、相楽さんはこっちで寝てもらうから」

と、一釣さんが言った。


「えっ、来客…あっ、そうですか」


何だ、あたしのために出してくれたのか。


ビックリした…。


何でベッドがあるのにふとんを出したのかと思ってた…。


そう思っていたら、

「一緒のベッドで寝たかった?」


一釣さんがニヤリと笑って、あたしの顔を覗き込んできた。


「そ、それは、ないです…。


だって、ベッドはシングルですよね…?」


「それはそうだけど…でも、相楽さんが一緒に寝たいと言うなら」


「ふとんで寝ますふとんで寝ます!」


もう、やっぱり変なことをするんじゃないですか!


と言うか、またからかわれたー!


「そう、残念」


一釣さんはそう言うと、マグカップを口につけた。


何が残念なんですかー!?


心の中の叫び声を隠すように、あたしはマグカップに口をつけた。


「夕飯を作ってる間、風呂に入って待っててよ」


そう言った一釣さんに、

「はい」


あたしは返事をした。


「着替えは用意しておくから」


「…ありがとうございます」


これって、恋人同士か新婚夫婦みたいなやりとりだよね?


あたしたちって、そんな関係なのかな?


…いや、違うと思う。


好きとは言ったけれど、つきあっているのかどうかと聞かれたら答えることができない。


ちゃぷん…と、湯船に躰を沈めるとあたしは息を吐いた。


「――一釣さんは、あたしのことをどう思っているんだ…?」


興味を持ってるとか口説いてる真っ最中とか、それでキスされて、ちょっかいとかも出されて、家に連れてこられて…本当に、一釣さんは何を考えているのだろう?


バスルームは清潔感がたっぷりで、ちゃんと掃除をしているのだと思った。


…そりゃ、そうか。


シャンプーとリンスはこれを使っているんだ。


それでボディソープは、

「あっ、あたしのところと一緒だ…」


同じものを使っていると言うことに、あたしは呟いた。


失礼だとは思いながらも、いろいろと物色をさせてもらった。


だって日頃の行いを考えたらこれくらいは大丈夫だと思いますよ。


バスルームを後にすると、脱衣カゴにバスタオルと着替えが置かれていた。


着替えは黒のジャージだった。


バスタオルで濡れた躰を拭くと、一釣さんが用意してくれたジャージを身につけた。


「うわっ、大きいなあ」


そう呟いた後、袖をめくってあたしの躰にあわせた。


183センチもあるんだから、当然のことか。


と言うか、本当に背が高い。


「お風呂ありがとうございましたー」


一釣さんがいるキッチンに顔を出すと、いい匂いがしていた。


コトコトと、鍋が沸騰していた。


一釣さんは鍋からあたしに視線を向けると、

「ジャージ、やっぱり大きかったんだ」

と、言った。


「えっ…ああ、大丈夫です。


着替えを貸してくれてありがとうございました」


あたしはジャージを貸してくれたお礼を言った。


「何を作ってるんですか?」


鍋の方に視線を向けると、あたしは聞いた。


「ポトフ、もう少しでできるから」


一釣さんはそう言うと、鍋のフタを開けた。


「わーっ、美味しそう」


コンソメの香りがするスープの中にはベーコンとキャベツ、にんじんとじゃがいもが入っていた。


「何か嫌いなものはある?」


そう聞いてきた一釣さんに、

「えっと、レバーが嫌いです」


あたしは答えた。


「レバーなら大丈夫か、ポトフに入れてないし」


あたしの返事に一釣さんはそんなことを呟いた。


鍋にフタをしてあたしに視線を向けると、

「何かいいね」

と、言った。


「えっ?」


あたしは訳がわからなかった。


「俺のものを相楽さんが身につけてるのって」


一釣さんはそう言うと、ニヤリと眼鏡越しから笑いかけてきた。


「なっ…!?」


「大学の時にクラブで使ってたジャージを取っておいてよかった」


「な、何を言ってるんですか!?」


そう言い返したあたしに、

「相楽さんが本当に俺のものになったみたいで嬉しい」


一釣さんが言い返した。


「お、俺のものって…」


あたしたちって、つきあっているのかな?


それすらもよくわからないんですけど。


その日の夕飯はご飯と鮭の塩焼き、カブの漬物、そしてポトフだった。


「いただきます」


両手をあわせて言うと、箸を手に持った。


先にポトフを口に入れると、

「…美味しい」


思った以上に、とても美味しかった。


「よかった、相楽さんに言ってもらえて」


そう言った一釣さんに、あたしは訳がわからなかった。


「いつも美味しいお菓子を作って持ってきてくれるから、気に入ってもらえなかったらどうしようって思ってた」


「…お、お菓子と料理は別だと思いますよ。


それにお菓子作りは趣味みたいなものですし」


あたしが言い返したら、

「俺は相楽さんが作るお菓子が大好きだよ」


一釣さんが言った。


今の“大好き”は、あたしじゃなくてお菓子の方だ…と、あたしは自分に言い聞かせた。


「そ、そうですか…」


あたしは呟くように返事をすると、ご飯を口に入れた。


「もちろん、相楽さんそのものもだけど」


そう言った一釣さんに、あたしは口に入れたご飯を吹き出しそうになった。


思わず一釣さんに視線を向けると、彼は食事をしていた。


箸の持ち方がとても上手だった。


そんなところにも、彼のまじめな性格を感じてしまった。


一釣さん、どんな家庭で育ってきたんだろう?


お父さんとお母さんはどんな人で、何をして働いているのだろう?


兄弟姉妹はいるのかな?


そんなことを思ったあたしに、

「どうかした?」


一釣さんが聞いてきた。


「あっ…い、いえ…」


あたしは首を横に振ると、食事をした。


あなたのことを考えていましたなんて、とてもじゃないけど言えません。


あなたがどんな家庭で育って、どんな両親で、どんな兄弟姉妹に囲まれていたのかを考えていましたなんて…。


「相楽さんって、1人っ子?」


そう聞いてきた一釣さんに、

「えっ…ああ、はい、そうです」


あたしは首を縦に振って返事をした。


「へえ、しっかりしてるから妹か弟がいるのかなって思ってた」


そう言った一釣さんに、

「そ、そんなことはないですよ。


両親が、あなたは1人っ子だから自分で責任を持ってちゃんと考えて行動しなさいって言う人だったので」


あたしは言い返した。


「1人っ子だから甘やかされたなんてことはなかったんだ?」


「…まあ、そうですね」


何でこんな話をしているんだ?


そう思いながら、

「一釣さんは、兄弟姉妹がいるんですか?」


あたしは聞いた。


「2つ上の姉がいる。


7年前に結婚して、今は旦那の仕事の都合で大阪に住んでる」


一釣さんはあたしの質問に答えた。


へえ、お姉さんがいるんだ。


「教師の父と専業主婦の母と姉の4人家族だよ」


一釣さんが言った。


「お父さん、先生なんですか?」


あたしは聞き返した。


「元先生だけどね。


女子校で世界史の担当をしてた」


「厳しかったですか?」


そう聞いたあたしに、一釣さんは首を傾げた。


「…あたしの勝手なイメージなんですけど、お父さんが先生って厳しそうかなって」


もしそうだとしたら、一釣さんのまじめな性格とか育ちのよさが出ていることにも納得ができる。


「特に厳しくはなかったかな。


門限とかもなかったし、禁止されてることとかもこれと言って特にはなかったな。


友達関係についても口出しされることもなかったし」


「…結構伸び伸びと育てられたんですね」


「あー、でもあいさつのことに関してはよく言われてたかな。


例え家族間だったとしてもはっきりとあいさつをしろって。


おはようございますとかおやすみなさいとか」


「…な、なるほど」


やっぱり、まじめだった。


「相楽さんは?」


「えっ、あたしですか?」


「俺ばっかり答えさせて、自分は答えないつもりだったの?」


眼鏡越しから二重の目に見つめられて、

「…はい、答えます」


あたしは首を縦に振って返事をした。


時々、本当に時々だけど黒いオーラのようなものが出てくる時があるよね…。


もう何なんでしょうか…。


「父は翻訳家で、母は主婦業のかたわらで自宅で料理教室を開いていたんです。


たぶん、あたしがお菓子作りが好きなのは母の影響なのかなって」


「へえ、そうなんだ」


「父も母もどちらも仕事で忙しかったから、そんな風に育てられたんでしょうね」


「責任を持って考えて行動しろって?」


「そうですね」


それが当たり前だと思ったから特に疑問は持たなかった。


「相楽さんのしっかりした性格とお菓子作りはそこからきてたんだ」


一釣さんはそう言うと、眼鏡越しの目を細めた。


「相楽さんのことが知れて嬉しいよ」


そう言った一釣さんに、あたしの心臓がドキッ…と鳴った。


もしかしたら、彼にこの音が聞こえてしまったんじゃないだろうか?


「あ、ありがとうございます…」


あたしは呟くようにお礼を言うと、食事を始めた。


「相楽さんが俺のことを知りたいって言ったのと同じように、俺も相楽さんのことを知りたい」


「――ッ…」


何でそう言うことを平気で言ってしまうのだろうか?


普段のまじめでぬぼーっとしているイメージからは想像できません…。


夕飯の後片づけはあたしがやることになった。


家にきて、ふとんや着替えを用意してもらったうえに食事までごちそうになったのでお礼としてやりたいとあたしは言った。


あたしが後片づけをしている間、一釣さんはふとんを敷いていた。


テーブルを部屋の隅へと置いてせっせとふとんを敷いているその姿を見ながら、あたしは後片づけを終えた。


やっぱり、まじめだな。


キレイに敷かれたふとんのうえに腰を下ろすと、あたしはそう思った。


一釣さんはお風呂に入っていた。


テレビに視線を向けると、バラエティー番組がやっていた。


「あたしもあたしで我ながらよくついて行ったよな…」


テレビでは今流行りのお笑い芸人が漫才を披露しているが、内容が全くと言っていいほどに頭の中に入ってこなかった。


よくよく考えてみたら、ここは一釣さんのテリトリーではないか。


一釣さんはどう言う気持ちで、あたしを自分のテリトリーにあげたのだろうか?


口説いてる真っ最中だから?


…よくわからない。


興味を持ってるとか口説いてる真っ最中とか、普段の姿とあたしの前で見せる姿とか…本当に、一釣さんは謎だらけだ。


そう思っていたらガチャッとドアが開いた音がしたので視線を向けると、一釣さんがお風呂から出てきたところだった。


お風呂あがりの一釣さんは、上はTシャツ、下はスウェットのズボンを身に着けていた。


髪を洗ったのか、バスタオルで頭を拭きながら一釣さんはキッチンへと足を向かわせた。


あたしは目をそらすと、テレビの方に視線を向けた。


落語家が落語を披露しているけれど、内容は頭の中に入ってこない。


あたしの躰は妙な緊張感に包まれていた。


そう言うことをする訳じゃない。


一釣さんはベッドで、あたしはふとんで寝るんだから、そう言うことをする訳じゃない。


「相楽さん?」


「…は、はい!」


返事が若干遅れてしまったうえに変になってしまった。


どうしよう、緊張してることがバレたかも…。


「寒くない?」


そう聞いてきた一釣さんに、あたしはホッと胸をなで下ろした。


よかった、バレていなかった…。


「寒くないです…」


あたしは一釣さんの質問に答えた。


「そう、それはよかった」


一釣さんは返事をすると、あたしの隣に腰を下ろした。


「あの…」


「んっ?」


「一釣さんって、どっちなんですか?」


そう聞いたあたしに、一釣さんは訳がわからないと言う顔をした。


「すみません、何でもないです…」


我ながらバカな質問をしたと思った。


「俺が知りたいって?」


「えっ、いや…」


一釣さんはニヤリと笑って、あたしの顔を覗き込んできた。


「顔、真っ赤だよ?」


えっ、ウソ?


両手で顔を隠そうとしたら、その手を取られてしまった。


「もっとよく見せて」


「――ッ…」


眼鏡越しでニヤリと笑っているその目に、ゾクッ…と背筋が震えた。


「――きゃっ…」


あたしの視界に入ったのは、天井だった。


えっ…あたし、押し倒されたの?


背中に感じるのは、柔らかいふとんである。


次に視界に入ったのは、一釣さんだった。


「外して」


そう言った一釣さんに、

「えっ?」


あたしは訳がわからなくて聞き返した。


外すって、何をですか?


そう思っていたら、

「眼鏡を外して」


一釣さんが言った。


「えっ、なっ…!?」


あたしが一釣さんの眼鏡を外すんですか!?


「じ、自分で外してくださいよ…」


あたしが呟くように言い返したら、

「手がふさがってるからできない」


一釣さんに言い返された。


彼の両手はあたしの横を挟むようにしてあって、彼自身を支えている。


眼鏡越しの二重の切れ長の目が上からあたしを見つめている。


それにゾクリと躰が震えてしまったのは、何故なのか自分でもよくわからない。


二重のその目に逆らうのは無理だと判断すると、あたしは震えている両手を彼の眼鏡の方に伸ばした。


心臓がドキドキと、鳴っている。


あたしは、一体何をしようとしているんだ…?


眼鏡は、一釣さんの一部だと言っても過言ではない。


その一部に触れて、そのうえ外そうとしている。


彼の服を脱がせるんじゃなくて、眼鏡を外すんだから…。


何度も自分にそう言い聞かせると、眼鏡に触れた。


そっと、まるで壊れ物を扱うように、彼の顔から眼鏡を外した。


眼鏡を外したその顔があたしの前で露わになった。


二重の切れ長の目がニヤリと笑った。


「…これ、どこに置けばいいんですか?」


外した眼鏡に視線を向けて聞いたあたしに、彼はあたしから眼鏡を受け取るとそれをベッドの枕元に置いた。


「いい子だね」


一釣さんは唇を動かして音を発すると、

「――ッ…」


自分の唇をあたしの唇と重ねた。


「――んっ…!」


彼の舌が唇をなぞったことに驚いて口を開いたら、待っていたと言わんばかりに舌が口の中に入ってきた。


「――んうっ…」


弄ぶように動き回るその舌に、あたしの躰が震える。


唇が離れたかと思ったら、一釣さんがまたあたしを見つめた。


「――いい表情…」


「――あっ…」


チュッ…と、一釣さんの唇があたしのあごに触れた。


「――それが、一釣さんの本当の姿なんですか?」


そう聞いたあたしに、

「えっ?」


一釣さんは聞き返した。


「普段の姿とあたしに見せているその姿、どっちが本当の一釣さんなんですか?」


「ああ、そう言うこと」


一釣さんはなるほどと呟いた。


「そうだな…」


一釣さんはそう考えた後で、

「どっちも俺だよ」

と、言った。


「普段の姿も今見せている姿も、どっちも俺だよ」


一釣さんはそう言って顔を覗き込むと、

「そんな俺は嫌いか?」

と、聞いてきた。


あたしはフルフルと、首を横に振って答えた。


そんなあたしの答えに満足したのか、一釣さんはニヤリと笑った。


その笑みに、ゾクリ…と背筋が震えたのがわかった。


一釣さんはあたしの耳元に唇を寄せると、

「――まほろ…」


あたしの名前をささやいてきた。


一釣さんがあたしの名前を呼んだ…!


今起こったその出来事に、あたしは夢でも見ているんじゃないかと思った。


「――まほろ…」


一釣さんはあたしの名前をささやくと、耳に唇を落とした。


「――んっ…」


ピクリと躰が震えたあたしに一釣さんはフッと笑うと、耳に息を吹きかけてきた。


「――あっ…」


舌が触れたかと思ったら、それは耳の輪郭をなぞってきた。


「――んっ、あっ…」


自分が出している声が恥ずかしくて、何より一釣さんに聞かれたくなくて、あたしは手で隠すように口をおおった。


「――ッ、んむっ…」


一釣さんがあたしの顔を覗き込んできた。


「何で口を隠してるの?」


そう聞いてきた一釣さんに、

「――は、恥ずかしいからに決まってるじゃないですか…」


あたしは呟くように返事をした。


「――い、一釣さんにも声を聞かれたくないですし…」


もう、何でこんな恥ずかしいことを言わなきゃいけないのよ…!


一釣さんはニヤリと笑うと、

「俺は、まほろの声が聞きたいな」

と、言った。


「――ッ…」


「俺がまほろをそうさせてるんだと思うと、ゾクゾクする」


一釣さんはそう言うと、口をおおっているあたしの手を取った。


「――あっ…」


チュッ…と、手の甲に彼の唇が落とされた。


子供の頃に絵本で見た王子様がお姫様の手の甲にキスをするあのシーンだと思った。


あたしと目があうと、一釣さんは今度は人差し指を口に含んだ。


「――ッ…」


まるで飴を舐めるように、一釣さんはあたしの指を口に含んでいた。


見せつけるようにして赤い舌を出して舐める一釣さんに、あたしは自分の躰が震えていることに気づいた。


一釣さんは舐めていた指を口から離すと、

「――ッ…」


あたしの額に唇を落とした。


心臓がドキドキと早鐘を打っている。


今からあたしたちは…いわゆる、“そう言うことをする”んですよね?


別に、初めてと言う訳ではない。


一釣さん以前にキスだってしたし、躰の関係も経験済みだ。


「――ひゃっ…!」


一釣さんの大きな手がジャージの中に入ってきたかと思ったら、ブラ越しから胸をさわってきた。


怖いと言う訳ではない。


でも心臓がドキドキとし過ぎて、どうすればいいのかわからない。


どうしよう…!


いよいよ…いや、もうすでに始まっているんですよね?


落ち着け、落ち着くんだあたし…。


あたしは大丈夫だ…って、何が大丈夫なんだと自分でも思うけど。


「――ッ…!」


すっ…と、一釣さんがあたしから離れた。


えっ、何が起こったんですか?


思わず一釣さんの方に視線を向けると、彼は枕元に置いていた眼鏡をかけていた。


「――あ、あの…?」


話しかけたあたしに、

「そんなに身構えられたらどうしていいのかわからない」


一釣さんが言った。


「は、はい…?」


意味がよくわからなくて聞き返したあたしに、

「もう寝ようか」


一釣さんはそう言うと、ゆっくりとした動作で立ちあがった。


「ど、どこへ行くんですか?」


あたしが聞いたら、

「トイレ」


一釣さんは返事をすると、パチリと部屋の電気を消した。


部屋が暗闇に包まれたかと思ったら、ドアが開いた音がした。


本当にトイレに行ったみたいだ。


「――な、何よ…」


緊張したあたしがバカだった。


ドキドキと心臓を鳴らせていたあたしが大バカだった。


期待を抱いたあたしが世界最大級のウルトラバカだった。


と言うか、一釣さんも一釣さんで何をしてくれるんだ…。


トイレに行っている当人に八つ当たりをしても、ドキドキした時間も緊張した時間も期待を抱いた時間も全て帰ってくる訳ではない。


あたしはふとんを頭からかぶった。


「――一釣さんのバカ…」


一釣さんのことを知れば知るほど、自分の気持ちは止まらなくなっている。


泣いた顔も、笑った顔も、怒った顔も、全部見たいと思っていた。


何もかも全てを知りたいと、そう思っていた。


でも…一釣さんのことを知れば知るほど、あたしって欲張りになるんだね。


もっと欲しい、もっと知りたいって、そう思っちゃう。


独り占めしたい、誰にも見せないで、あたしだけにしてって思っちゃう。


あたしは、相当なまでに一釣さんのことを好きになってしまったんだと自分でも思った。

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