一釣さんとお酒

あれから数日が経った。


チラリとオフィスの片隅に視線を向けると、パソコンとにらめっこをしている背中がいた。


一釣さんだ。


いい意味でも悪い意味でもぬぼーっとしている、あの一釣さんだ。


この間の、あたしの身に起こったあの出来事は夢だったのだろうか?


そう思ったとたん、頭の中に一釣さんにキスをされた記憶が鮮やかと言っていいほどによみがえった。


ギェーッ!


叫べるものなら大きな声で叫びたい…けれど、ここはオフィスである。


落ち着け、落ち着くんだあたし…。


あれは夢だ、夢に違いない…!


そう言い聞かせるものの、何度もよみがえってくるその記憶にパニックになりそうになる。


当の本人は相変わらずぬぼーっとしてるくせに、何であたしばっかり…!


そう叫びたい気持ちを押さえていたら、


「相楽さんと一釣さん、ちょっときてくれませんか?」


課長に呼ばれた。


えっ、何かミスがあったかな?


いや、ツッコミを入れるべきところはそこではない。


「はい」


一釣さんは返事をすると、椅子から立ちあがった。


「あっ、はい!」


あたしも慌てて椅子から腰をあげると、課長のデスクへと歩み寄った。


やっぱり、一釣さんも呼ばれた…!


一釣さんがあたしの隣に並んだ。


こうして隣に並ぶと、本当にデカいな…。


当たり前だけど、158センチのあたしとは大違いだ。


「実は君たちにもうすぐ行われる合同飲み会の幹事をやってもらいたいんだ」


課長が言った。


「えっ、幹事ですか?」


あたしは聞き返した。


「相楽さん、しっかりしてるからどうかなって」


課長が笑いながら言った。


あっ、そうなんですか…いや、ツッコミを入れるべきところはそこじゃない。


「あたしは構いませんけど、一釣さんが選ばれたのは?」


あたしは隣にいる一釣さんに視線を向けた。


向けられた当の本人は相変わらずぬぼーっとしていて、何を考えているのかよくわからない。


「一釣さんは1回も幹事を引き受けたことがないから」


課長があたしの質問に答えた。


「…そうなんですか?」


意外だ。


あたしよりも長いくせに1回も飲み会の幹事を引き受けたことがないとは。


でも納得できるような気もする。


「一釣さん、聞いてますか?」


あたしは彼の顔の前でヒラヒラと手を動かした。


「飲み会の幹事をあたしと一釣さんがやることになったんですよ」


そう言ったあたしに、

「いいですよ、引き受けます」


一釣さんが返事をした。


えっ、マジですか…?


何かいろいろと気まずいような気がするんですけど…。


「そうか、よかったよ!」


一釣さんの返事に課長は嬉しそうだ。


「それじゃあ、2人共頑張ってくれよ!」


そう言った課長に、

「はい、わかりました」


一釣さんは返事をした。


「はい、頑張ります…」


あたしも返事をすると、一釣さんに視線を向けた。


そのとたん、彼と目があった。


これは予想外だ…。


一釣さんは眼鏡越しからニヤリと、あたしに笑いかけてきた。


ゾクリ…と、その笑みに背筋に何かが走ったのを感じた。


同時に、一釣さんにキスをされたあの出来事が頭の中によみがえる。


ああ、もう何だか嫌な予感しかしないよ。


すでに先が思いやられて仕方がないよ。


一釣さんから逃げるように、キスをされた出来事を封じ込めるように、あたしは彼から目をそらした。


気まずい…。


あたしの気が休まらないよ…。


ドキドキと早鐘を打ち始めている心臓に、頭の中はパニック寸前だ。


落ち着け、落ち着くんだあたし。


「相楽さん」


「はっ、はい!」


一釣さんに名前を呼ばれたせいで変な返事の仕方になってしまった。


「いろいろと頑張りましょうね」


そう言った一釣さんに、

「はい…」


あたしは返事をすることしかできなかった。


と言うか、“いろいろ”って何だ!?



昼休みになった。


あたしとカイちゃんは会社近くのラーメン屋で昼ご飯を食べていた。


「飲み会の幹事を任されるなんてついてないね」


しょう油ラーメンを食べながら、カイちゃんが言った。


「イベントの方は状況的に落ち着いたからいいんだけどね」


あたしは塩ラーメンを食べながら言い返した。


「一緒に幹事をやることになったのは、あの一釣さんでしょ?


一釣さんに幹事が務まるのかな?


あの人、1回も幹事を引き受けたことがないそうじゃない」


カイちゃんの口から一釣さんの話題が出てきたので、あたしはラーメンを吹き出しそうになった。


「みたいだね」


あたしはそう返事をすると、餃子を口に入れた。


その時、テーブルのうえに置いていたスマートフォンが震えた。


手帳型のケースを開けて画面の確認をすると、LINEにメッセージが届いていた。


「誰から?」


そう聞いてきたカイちゃんに、

「京やんから」


あたしは返事をした。


「高校の同級生の?」


「うん」


画面をスクロールしながら友人から届いたメッセージを全て読んだ。


「よし、これだけ情報があれば充分だな」


あたしはそう呟くと、お礼のメッセージを送信した。


「何かやけに張り切ってない?」


そう聞いてきたカイちゃんにギクッとなったけれど、

「別に幹事を任されること自体は嫌いじゃないからね」


あたしはごまかすように返事をした。



一釣さんがあたしに声をかけてきたのは、6時を過ぎてからだった。


「相楽さん、そろそろ行きますよ」


「あっ、はい」


カバンを手に持って準備万端の一釣さんに返事をすると、あたしは今までやっていた仕事を終了させた。


パソコンの電源が切れたことを確認すると、あたしはカバンを手に持った。


「それじゃあ、お先に失礼します」


「お疲れ様でーす」


同僚たちに見送られながら、あたしと一釣さんはオフィスを後にした。


エレベーターの前に到着すると、下のボタンを押した。


「もうきてるって」


スマートフォンを見ていた一釣さんはそう言うと、スマートフォンをジャケットのポケットの中に入れた。


「そうですか」


あたしは返事をすると、エレベーターが到着するのを待った。


「商品企画部との合同飲み会だったよね?」


そう聞いてきた一釣さんに、

「はい」


あたしは返事をした。


「今回の飲み会の相手が商品企画部の方でよかったよ。


向こうに同期がいるし、そのうえ幹事を務めるみたいだから」


「そうなんですか」


一釣さんの同期って、どんな人なんだろう?


そう思っていたら、あたしたちの前にエレベーターが到着した。


あたしと一釣さんはエレベーターに乗った。


ここにいるのは、あたしと一釣さんの2人だけである。


エレベーターが1階に向かって降りて行く。


頭のうえに表示されている階数を眺めていたら、

「警戒してる?」


一釣さんがそう声をかけてきたので、あたしは彼の方に視線を向けた。


ニヤリと笑いかけてきたその顔に、あたしの背筋がゾクッ…となったのがわかった。


「け、警戒って…」


一釣さんはクスリと笑うと、

「場所も場所だから何もしないよ」

と、言った。


「場所って…」


「この間は別だけど」


おそらくそれは、2人きりのオフィスでキスをした時のことを指差しているのだろう。


「そんなに物欲しそうな顔をしないで欲しいな」


そう言った一釣さんの手があたしの髪をさわった。


「も、物欲しそうって…」


あたしは一体、どんな顔をしていたのだろうか?


「髪の毛キレイだね、サラサラしてる」


腰近くまであるあたしの黒い髪を弄びながら、一釣さんが言った。


「あ、ありがとうございます…」


中学生の時から伸ばしているストレートのロングヘアーを褒められて、特に悪い気はしない。


「終わったら欲しいものをあげるから」


一釣さんが言い終えたのと同時に、エレベーターが1階に到着した。


扉が開いたのと同時に、一釣さんがあたしの髪から手を離した。


一釣さんと一緒にエレベーターを降りると、

「おう、光也!」


黒髪短髪の男の人がこちらに向かって手を振りながら歩み寄ってきた。


彼の隣には暗めの栗色の髪をポンパドールにした背の高い女性がいた。


「久しぶりだな、宏」


一釣さんは親しそうに彼に向かって笑いかけた。


「商品企画部に勤めてる同期の横溝宏(ヨコミゾヒロム)」


一釣さんが紹介したので、

「初めまして、イベント部の相楽まほろです」


あたしは横溝さんに自己紹介をした。


「横溝です、今回はよろしくお願いします」


横溝さんはそう言って自己紹介をした。


「初めまして、横溝と同じ商品企画部に勤めている近藤美衣(コンドウミエ)です。


今回はお世話になります」


ポンパドールの女性こと近藤さんが自己紹介をしてきたので、

「よろしくお願いします、相楽まほろです」


あたしは会釈をするように頭を下げた。


自己紹介を終えたので、あたしたち4人は会社を後にすると話しあいをするために近くのドトールへと入った。


…さて、これはどう言うことなのだろうか?


あたしの隣に座っているのは女性の近藤さんではなく、一釣さんである。


向かい側に座っているのは横溝さんと近藤さんだ。


こう言う場合って、男と女の2組に分かれて座るんじゃないかと思うんだけどなあ…。


何でこうなったんだろうかと思いながら、あたしはオレンジジュースをストローですすった。


「飲み会の日取りは、来月の初めだったっけか?」


横溝さんがスマートフォンを見ながら聞いてきたので、

「ああ、そうだよ。


『キルリア』とのイベントがある10日前」


ストローでアイスティーを混ぜながら一釣さんが返事をした。


「50人くらいが参加するんですよね?


どこか広いところがあればいいんだけど…」


近藤さんはどうしたもんじゃろかと言うように、両腕を組んだ。


「あの、ここならどうでしょうか?」


あたしはカバンからスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリを起動させた。


「昼休みに友人に頼んで、会社近くにある飲み会をいくつかピックアップしてもらったんですけれども」


テーブルのうえにスマートフォンを置くと、彼らは画面を覗き込んできた。


「ああ、なるほどね」


横溝さんが言った。


「1番目のところは会社から歩いて5分くらいのところにあって2階が座敷になっているんだそうです。


メニューも豊富で、値段もお手頃だそうです」


画面を指でスクロールしながら言ったあたしに、

「じゃあ、早速行きましょうか」


近藤さんが言ったので、あたしたちは首を縦に振ってうなずいた。


スマートフォンの地図アプリを頼りに目的地に向かうと、

「ここですね」


あたしはそう言ってスマートフォンから顔をあげた。


「店名は『スケキヨ』で間違いないです」


そう言ったあたしに、

「外観は飲み屋と言うよりも、割烹料亭って言う感じですね」


近藤さんが言った。


彼女の言う通り、確かにそんな感じだ。


「でもボードに書いてあるメニューは居酒屋だよ」


横溝さんが表に出ているボードを指差した。


一釣さんは熱心にボードに書いてあるメニューを読んでいる。


何がそんなに珍しいのか、やっぱり一釣さんはよくわからない。


「とりあえず、試しに入ってみよう」


横溝さんがそう言ったので、あたしたちは店内に足を踏み入れることにした。


店員に案内された席に腰を下ろすと、お酒と料理をいくつか頼んだ。


…これ、先ほどのドトールと同じ並び方じゃないか?


あたしの隣は、またしても一釣さんである。


男と女に分かれて座るものじゃないかと思うんですけど。


――警戒してる?


エレベーターの中で交わした一釣さんとの会話が頭の中によみがえった。


ここは変なことを言わない方が安全かも知れない。


「なかなかいいところですね」


近藤さんが店内を見回しながら言った。


「そうですね、参加者たちも気に入るかも知れませんね」


あたしは会話に参加した。


「相楽さん、よくここを見つけましたね」


そう話しかけてきた近藤さんに、

「見つけたのは高校の時から仲良くしてる友達なんですけどね。


彼はいろいろなところに知りあいがいることもあってか顔が広いんです。


あんまりにも知りあいがいるから、最終的にはいとも簡単に国家機密を手に入れちゃったらどうしようなんて」


あたしは笑いながら答えた。


「へえ、すごいですね」


「すごいですよ、去年の春に大企業のお嬢さんと結婚したこともあってかさらに顔が広くなっちゃって」


そのネットワークのおかげで何度か危ないところを救われたことがあるから結果的には助かっているんだけど。


そんなことを思いながら左手をテーブルから下ろしたら、隣に座っている一釣さんの右手とぶつかった。


「――ッ!」


思わず声が出そうになってしまったが、我慢した。


声を出して、変に思われたら面倒だ。


ぶつかった右手から逃げようとしたら、その手が触れてきた。


触れたのは小指だけだけど、それでも反応しそうになる。


ツツッ…となぞるように小指に触れてくるその手に、背筋がゾクッ…となったのがわかった。


ここで逃げたら、次は何をされるのだろうか?


恐怖と期待があたしの中でフツフツとわきあがっていることに気づいた。


「あっ、そうだ」


横溝さんが思い出したと言うように言った。


「どうした?」


そう聞いてきた一釣さんは何事もなかったかのような様子である。


どうして何事もなかったかのように演じることができるのか、一釣さんは本当にわからない。


「実は…俺、結婚することになったんだ」


横溝さんが言った。


「えっ、そうなんですか?」


あたしは返事をすると、恋する乙女のように顔の前で両手をあわせた。


「おめでとうございます!」


祝福の言葉を言ったあたしに、

「ありがとう、相楽さん」


横溝さんは笑顔で返事をしてくれた。


「それ、今言うことなのか?


と言うか、いつの間に結婚することになったんだよ」


たった今話を聞かされた一釣さんは不服そうだ。


あたしが逃げたからと言うのも少しは関係しているのかも知れない。


「この機会に言おうかななんて」


ハハッと笑いながら言った横溝さんに、

「相手は誰なんだよ?」


一釣さんが聞いた。


「それはもちろん…」


横溝さんはそう言って、隣に座っている近藤さんに視線を向けた。


向けられた近藤さんはポッと顔を紅くさせると、目をそらすようにうつむいた。


「えーっ、そうなんですかー!?」


あたしは声をあげた。


これはもしかしなくてもそうのようだ。


「マジかよ…」


そんな展開に、一釣さんも驚いているようだった。


まさか横溝さんと近藤さんが結婚間近だったなんて知らなかった。


「それで、結婚式はいつなんですか?」


そう聞いたあたしに、

「今年の秋くらいに挙げる予定だよ」


横溝さんは答えると、近藤さんを見つめた。


近藤さんはエヘヘと照れくさそうに笑った。


「本当におめでとうございます」


あたしは改めて祝福の言葉を言うと、あわせていた両手を下ろした。


それと同時に、

「お待たせしましたー」


先ほど頼んだお酒と料理が運ばれてきた。


一釣さんと横溝さんは生ビール、あたしはピーチウーロン、近藤さんはカシスオレンジである。


お酒が入っているグラスを手に取ると、

「乾杯!」


横溝さんの音頭と同時にカチンと、グラスをあわせた。


頼んだ料理を口に入れると、

「おっ、これは美味い!」


思った以上に美味しかった。


「ここいいですよ!」


近藤さんがきゅうりの浅漬けを口にしながら言った。


友達のおかげとは言え、なかなかのいいところを見つけたと思った。


「そうだ、宴会もできるかどうか店員に聞いてみないと」


横溝さんはそう言って店員を呼んだ。


料金プランはお手頃で、2階の座敷は仕切りを外せば最大で70人も入れることができるそうだ。


さすがに高価でレアなお酒はメニュー外だけど、焼酎は種類が多く、カクテルも作ることができるそうだ。


「よし、合同飲み会の会場はここで決定だな!」


そう言った横溝さんに、あたしたちはもう1度乾杯をした。


「ところでさ、光也にはつきあっている相手はいないの?」


2杯目に差しかかったと言うこともあってか、そう聞いた横溝さんの顔は赤みがかっていた。


「えっ、俺?」


話を振られた一釣さんは少し驚いた様子だ。


「今までそんな話を聞いたことがなかったなって」


横溝さんは笑いながら言った。


「もう30な訳だし、そう言うところはどうなの?」


「あー、うーん…」


一釣さんは困ったと言うように人差し指で頬をかいた。


こう言う話題は苦手なのようだ。


言われてみれば、確かにそんな話を1回も聞いたことがなかったかも。


だって、一釣さんこんなんだし。


歴代の彼女たちには「何を考えているのかわからない」と言われて振られたのかも知れない。


たぶん…いや、きっとそうだ。


そう思ったら笑いが出てきそうになった。


一釣さん、かわいそうだよ。


かわいそうなのに笑いが出そうになっている自分は、相当なまでに性格が悪いよ。


だって、“他人の不幸は蜜の味”って言うじゃないか!


…我ながら最低だ。


トイレと称して逃げて、トイレで笑おうか。


ツツッ…と、それまで何もしてこなかった一釣さんの右手が小指をなぞっていることに気づいた。


えっ、また…?


チラリと一釣さんに視線を向けると、当の本人は何事もないと言う顔をしている。


テーブルの下ではそう言うことをしているのに、どうして表情を保つことができるのだろうか?


「いるにはいるかな」


形のいい唇が動いて音を発した。


「マジ!?」


横溝さんが驚いたと言うように大きな声を出した。


「宏さん、声が大きい」


近藤さんがたしなめるように横溝さんに言った。


へえ、横溝さんのことを“宏さん”って呼んでるんだ…。


そんなどうでもいいことを思った。


いや、ツッコミを入れるところはそこではない。


「誰なんだよ、俺の知ってるヤツか?」


答えを聞かされた横溝さんは急かしている。


あたしも気になっている。


「でもつきあってはないね」


そう返事をした一釣さんに、

「えっ、何それ?」


横溝さんは訳がわからないと言う顔をした。


「正確には、口説いてる真っ最中と言った方が正しいかな。


入社当時から興味を持ってたんだけど、それまではなかなか振り向いてもらえなかったんだ。


月に1回、声をかけてもらえばいいって言う感じで」


一釣さんが話を続けた。


「まあ、本当は見てるだけでもよかったんだけど。


だけど、ついこの間向こうから“好きです、あなたのことを知りたいんです”って告白された」


…おや?


「…それはつまり、向こうも同じ気持ちだったと言うことか?」


横溝さんはへえと言った。


「そうだと思うんだけど、どうも警戒されちゃったみたいで」


一釣さんはクスクスと笑っていた。


話をしている間も小指をなぞっている手は止まっていなかった。


「警戒されたって…お前、何をしたんだ?」


キスをされたんです!


口から出てきそうになったが、どうにかこらえた。


「だから、口説いてる真っ最中って訳。


ずーっと興味を持ってたから早く欲しいんだ」


「――ッ!?」


それまで小指をさわっていたその手があたしの手をつかんだ。


なっ、何ですかー!?


「へえ、健気なもんだなあ」


横溝さんは感心をしていた。


「俺のものになって欲しいから」


ものって、何ですか!?


そうは思っていても、心臓がドキドキと鳴っている。


お酒のせいなのか、一釣さんが手をつかんできたせいなのか。


「――す、すみません、トイレに行ってきます!」


つかんでいる一釣さんの手を払うと、椅子から立ちあがった。


「あっ、どうぞ…」


あたしはその場から逃げるようにトイレへと足を向かわせた。


「何だ何だ何だ何ですかもうー!」


トイレに駆け込むと、あたしは気持ちを爆発させた。


幸いにも、トイレはあたし1人だけしかいなかった。


小指をさわってきたかと思ったら手をつかんできて、それに興味を持ってるとか口説いてる真っ最中とか…。


あれは聞かなくても、あたしのことだと思う。


いや、本当に。


目の前の鏡に視線を向けると、真っ赤な顔のあたしと目があった。


お酒のせいか?


いや、これは一釣さんのせいだ。


一釣さんがちょっかいを出したうえに、あんな訳がわからないことを言ったから顔が真っ赤なんだ!


「あー、落ち着け…」


両手で隠すように真っ赤な顔を挟むと、あたしは深呼吸をした。


…よし、落ち着いた。


目の前の鏡に向かって首を縦に振ると、あたしはトイレのドアを開けた。


「あっ、相楽さん」


そこに現れたのは一釣りさんだった。


「い、一釣さんもトイレですか?」


そう聞いてアハハと笑いながらその場から離れようとしたけれど、

「相楽さんが心配だから」


そう答えた一釣さんの手があたしの腕をつかんだ。


「うわっ…!?」


あたしは再びトイレに入ることになり、その後から一釣さんが入ってきた。


「ここ、女子トイ…!」


言いかけたあたしをさえぎるように、一釣さんの人差し指がトンと唇をたたいた。


「そう、だからあまり声をあげないで欲しいんだ」


「――ッ…」


ニヤリと笑いかけてきた眼鏡越しの瞳に、あたしの背筋がゾッ…となる。


「――さ、さっき話してた興味を持ってるとか口説いてる真っ最中とかって…」


そう言ったあたしに、

「もちろん、全部相楽さんのことだよ」


一釣さんが言い返した。


「入社した当時は珍しい名前の子が入ってきたなって思ったんだ。


相楽まほろって、時代劇で出てきそうな名前じゃない」


「よ、よく言われました…」


あたしの名前はおじいちゃんが命名したのだ。


おじいちゃん曰く、「ヤマトタケルが語ったと言われる“大和の国はまほろば”」と言う言葉の“まほろ”の響きからきているのだそうだ。


「だから珍しいなと思って、ずっと興味を持ってたんだ。


俺の興味の対象だった相楽さんが俺に興味を持ってくれて、とても嬉しいよ」


「きょ、興味の対象って…」


何ですか、それ。


「でも警戒されたのは予想外だったな」


「そ、それは…」


あなたがいきなりキスをしてきたからでしょうが!


あたしに言い返す時間を与えないと言うように、一釣さんはカチャッと眼鏡を外した。


「持って」


一釣さんが外した眼鏡をあたしに渡してきた。


「えっ、何でですか…?


自分の眼鏡なんだから、自分で持てばいいじゃないですか…」


「自分で持ってたら意味がない」


一釣さんが顔を近づけてきた。


「じゃあ、眼鏡をすればいいじゃないですか」


近づいてきた顔から逃げるように言い返したら、

「する時に眼鏡が邪魔だから」


一釣さんはそう言い返すと、あたしの手に眼鏡を持たせた。


「落としたり、握り潰したりしたら、弁償だからね?」


「えっ?」


一釣さんの顔が近づいてきて、

「――ッ…」


その唇があたしの唇と重なった。


「――んっ、くっ…」


この間されたキスの感覚がよみがえってきた。


大きな手が後頭部に添えられたのと同時に、唇が離れた。


「――少しだけ、口を開けて」


そう言った一釣さんに少しだけ口を開けると、

「――んっ、ううっ…!」


まるで待っていたと言わんばかりに生温かいものが口の中に入ってきた。


これって、あきらかに舌ですよね!?


逃がさないと言うように後頭部を押さえつけられて、唇を塞がれた。


「――んっ、ふっ…」


チュッと唇が重なる音が聞こえる。


舌はまるで生き物のように口の中を動き回っている。


「――んっ、んんっ…」


誰がくるのかわからないと言うのに、彼の唇とキスに逆らうことができない自分がいた。


呼吸の仕方がわからない。


どうしよう、窒息しよう…。


そう思っていたら、唇が少しだけ離れた。


今だと言わんばかりに呼吸をして躰に酸素を取り込むあたしに、

「――相楽さんもちゃんと応えなきゃ」


一釣さんが言った。


「――えっ…?」


応えるって、何にですか?


と言うか、何の話をしているんですか?


「舌が絡んできているのに、ちゃんと応えなきゃわからないよ」


一釣さんがニヤリと笑いかけてくる。


「――なっ…!?」


何ちゅーことを言っているんですか!?


舌に対して応えるって…!?


そんなのできる訳ないでしょう!


その思いも込めて首を横に振ったあたしに、

「じゃあ、俺のマネをしてよ」


一釣さんはそう言うと、また唇を重ねてきた。


「――んっ、くっ…」


先ほどと同じように口の中に舌が入ってきた。


それに応えるように、彼のマネをするように、自分の舌を彼の舌に絡ませた。


「――ッ、んんっ…!」


チュッ…と強く舌を吸われたことに驚いて、目を見開いた。


「――んっ、んんっ…!」


唇は離してくれなくて、舌は絡んでくる。


躰は熱くて、頭はぼんやりとしてきて、自分でもどうなっているのかよくわからない。


もうダメ、苦しい…。


「――ッ、はあっ…」


そう思っていたら、ようやく唇が離れた。


躰の中に酸素を取り入れて、気持ちを落ち着かせる。


一釣さんはあたしの耳元に自分の唇を寄せると、

「やればできるじゃん」

と、ささやいてきた。


それだけのことなのに、躰がビクッと震えた。


「いい反応」


「――ッ…」


ツツッ…と、一釣さんの指が頬をなでてきた。


「本当はもっと欲しいけど、今日はこれくらいにしてあげる」


「――んっ…」


チュッと、頬に一釣さんの唇が触れた。


一釣さんは眼鏡を持っているあたしの手を取ると、そこから眼鏡を奪った。


「ちゃんと持っててくれたんだ」


一釣さんはクスクスと笑いながらシャツのすそで眼鏡を拭いた。


眼鏡をかけると、あたしを見つめた。


「――コンタクトにはしないんですか?」


呟くように聞いたあたしに、

「アレルギー持ちだからしないんだ」


一釣さんは答えた。


「熱い麺類を食べる時やする時は眼鏡が邪魔だなって思うけど」


一釣さんはポンと、あたしの頭のうえに手を置いた。


「落ち着いたら戻ってきて、彼らには俺がうまく言っておくから」


クシャリとあたしの髪をなでると、一釣さんはその場から立ち去った。


目の前の鏡に視線を向けると、さらに顔を真っ赤にさせた自分の顔と目があった。


なでられたせいでクシャクシャになっている髪を手ぐしで整えると、あたしは息を吐いた。


「――もう、何なんだろう…」


興味を持ってるとか口説いてる真っ最中とか、それだけならいい。


でもぬぼーっとしている普段の姿とあたしだけに見せているその姿のどっちが、本当の一釣さんなのだろうか?


「――興味を持って好きになった結果がこれって…」


あたしは、からかわれているのだろうか?


「もう本当に何なんだ…」


一釣さんは何がやりたいんだ?


興味を持ってるとか口説いてる真っ最中とか、眼鏡を持たされてキスされて…あたし、超ものすごいと言っていいほどに一釣さんに振り回されてる。


「一釣さんのバカヤロー」


あたしを振り回して何がおもしろいんだ、あのハゲー!


ハゲてはいないけど、ハゲって言ってやるー!


「もーっ!」


嫌いだと言えないのはおろか、嫌いだと思えない自分はバカだと思った。


これが、惚れた弱みとかって言うヤツ?


もう戻ろう、こんなところでジタバタしていても何かが起こる訳がない。


他の人の迷惑になるだけである。


と言うか、他の人も他の人でよくトイレにこなかったな。


お客さんがそんなにいなかったからと言うのも多少はあるのかも知れないけれど。


そんなことを思いながら、あたしは気を落ち着かせるとトイレを後にした。

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