第2章 (4) 光の結節点
この街には廃墟が多い。
アガ坂の街が衰退しているわけじゃない。百年くらい前にはじまったこの街は、今も拡大を続けている。線路はずっと向こうまで続いていて、新しい街が育っている。
廃墟が多い、というのは、修繕の済んでいない建物が多く残っている、という意味だ。
ぼくらの祖先には、この辺りを更地にして、一から都市を建造することなんてできなかった。物質的な意味でも、精神的な意味でも。資材は限られていたし、建築技術は情報としては残っていても、実際にできる人間はほとんど絶滅していた。
だから、この街は、残っていた都市を間借りすることで成立している。
この街を作ってくれた人々に対して――ぼくらが帰ってきたときには、すでにどこかに行ってしまった人々に対して、感謝の気持ちがあった。いや、この言い方は小学校の道徳の時間に使われる言葉だ。多分、別の言葉の方が正しい。
たとえば、憧憬とか。
ここに住んでいた人たちは、多分ぼくらの血の繋がった祖先だ。歴史が正しければ、星の彼方に避難していった人々。ぼくらが振り返って、過去の方角に目を向ければ、宇宙のどこかに彼らの姿を見ることができる。
そういう意味でなら、ぼくらと彼らの間には、連続性がある。
けれども、今こうして、まだ借り手のつかない廃墟の一画に隠れていると、ぼくはその連続性を見失う。
ここには気配がある。
数百年か、数千年前に住んでいた人々の気配。最後の瞬間、ここにいた人々は、何を思ってこの場を立ち去ったのだろう、と考えずにはいられない。たとえば、この長テーブル。その上に置かれた雑誌類。倒れたマグカップ。蹴飛ばされた椅子。吹き溜まりのような埃の山。形を失った金属の塊。
ぼくは見上げる。
時の重みに耐えきれず落ちた天井。その隙間から箒で降りてきたところから、ぼくとこの部屋の関わりははじまった。ここは中途半端に拓けた場所だ。壁はほとんど崩れかけていて、風がよく通う。それでも時は
この重複する感覚が、ぼくは苦手だった。誰かが住んでいたことは間違いない。彼らがいなくなったことも間違いない。この室内には、少なくとも二つの生活風景が重なっている。今ぼくのいる現在と、かなり昔の過去と。その間に滞っている、不在という名の時がぼくを混乱させる。
この心情を名づけて、寂しさと呼ぶことはできる。しかしそうやって名前をつけたところで、この絶対的な不在を紛らわすことはできない。
ぼくは亡霊の腹のなかにいる気分になる。巨大な、目には見えない、けれども確かに気配のある何か。その胃袋の中で、ぼくは、自分が溶けてしまうのではないかと恐れる。あの拓けた天井と同じように、時の重みにすり潰され、壁と同じように、風に
無論、そんなことは
けれども、この二重の状況は、妹の服を借りるのとはわけが違う。
妹の服を借りるときは、ぼくという事態はどこにもいかないのだ。
先輩が何か言った。
「すみません、聞き取れませんでした」
「具合が悪そうだねって言ったんだよ」
先輩はペットボトルを投げて寄越す。両手でキャッチすると、よく冷えていた。どこから取り出したのだろうか、という疑問はすぐに解消される。先輩は埃の積もったテーブルを払い、ショルダーバッグの中から次々とものを取り出していた。
「それで顔でも洗いなよ、化粧が落ちてちょっとホラーだよ。向こうに洗面台があるから」
どうしてそんなことがわかるんだろう。
「……飲みかけ?」
先輩はちょっとギョッとした。
「未開栓ですよ、後輩くん」
その呼び方、良いですねぇ。
・・・♪・・・
当然水道は死んだままだから、ぼくは半リットルの水でうまいことやった。
化粧を落として、残っていた水を飲み干す。それだけすると、だいぶ落ち着いた。
スカートはズボンになった。賭けに負けてラガ橋に会うからといって、一日中スカートを穿いているつもりもなかったのだから、ちゃんと工夫のあるものを選んでいたのだ。
プリーツにはジッパーが隠されていて、それを組み合わせることで、形を変えることができる。タイトなシルエットも、緩やかなシルエットも思いのままだ。拡張パーツを組み合わせれば、縞々模様だってできる。これは最近流行りだしたデザインの一つだったが、ぼくのように変装する必要のある人間には便利な代物だった。
ライオンのポシェットから、ウィンドブレーカーを取り出して、羽織る。夕暮れの砂漠色。
ひび割れた鏡で髪型を少し整えれば、それでいつもどおりのぼくの完成だ。
リビングに戻ると、先輩は誰もいない室内を見ていた。
ぼくらの滑り込んできた天井の穴のすぐ下に、瓦礫が山となっていた。ちょうどこの室内の中心で、必ず陽光が当たる場所だった。ぼくは焚き火か囲炉裏を想像する。陽光の結び目があるとしたら、このポイントだった。
「この街にもこういう場所があるんだね」と先輩は言う。
「廃墟のことですか?」
「うん」
「よくありますよ、借り手がついていないんです」
「アガ坂って、結構歴史のある方だろう? それでも十分ではないんだね」
約百年という歳月が、歴史のある方かどうか、ぼくにはちょっと自信がなかった。
先輩の街はどうだったんだろう、と思う。
そう質問する前に、先輩は続ける。
「こういう場所は、落ち着かない」
先輩が、ぼくと同じようなことを思ったことに、少しだけ嬉しくなった。
「わかります」そう応じる。
同じようなことを考えているのが、もう一人いるというだけで安心できた。
でも先輩の方は違ったようだ。
突き放すような笑い方をした。短く、乾いた笑い方だった。悪意があってそうしたわけではないのだろう。彼女は振り返り、反射的にそうしてしまったことを詫びるように目を伏せた。
「馬鹿にしたわけじゃないんだ」と手を振る。
「気にしてませんよ」
「ただ、多分わたしときみでは世界の見方が根本的に違うんだと思う」
それは毅然とした言い方だった。
「ハタロウくん、きみは時間についてどう思う」
「どう、ですか」
好みのタイプ、とか? もちろん、そういう意味ではないことくらいわかる。先輩の目の緑色は、植物の色とは違うのだ。もっと深い、宇宙空間に属する色なのだ。鉱物の中には、星を閉じ込めたように見えるものもある。
「ぼくに哲学問答を求めますか」
「ふふ」と笑う。「いやごめんね、そういうつもりでもなかったんだ。今の言い方でわかった。きみはそのままでいいよ」
少し癇に障った。
「待ってください、やりますよ」とぼくは言う。「時間ですね、流れるものだと思います。ならば滞りもします。この部屋みたいに――」
その先に、ぼくは言葉を続けることができなかった。
先輩が一瞬だけ驚いたような顔をして、しかしすぐに悲しそうな顔をしたからだ。
「時間はね、降り積もるものだよ、雪のように。そして、雪のようであるからには、それは溶けて流れていき、蒸発して空気に混じる。深く息を吸っても気づかないだろうけど、空気中に占める時間の濃度は上がっていくんだ」
「風に攫われたりはしないんですか」
「滞るってきみは言ったね。ある意味で正しい。でも、それはどうしてだと思う? 時間には二種類ある。きみやわたしの生きる時間と、その外側にあって、場所に紐づけられた時間だ。きみの人生は滞らないだろ。嫌でも歳を取る。でもね、たとえばこの部屋はそうじゃない」
「誰かの住んでいた時間が残っている気がします」
どうにか追いつこうとして、ぼくはそう言った。
先輩の語り出した内容が、手からこぼれ落ちていく感じがした。
この部屋に入ったときに感じた諸々のイメージが、使われている単語は似ていたとしても、決定的な地点で、誤読だったように思えてくる。
「そう」と先輩は今度こそ本当に寂しそうな顔をした。「きみは”気がする”だけなんだよ。きみは感受性が豊かで、想像力も逞しい。だから、そう言ってくれるんだ」
「えへへ」
茶化すが効果はない。
「きみはそのままでいい」
また言った。
でも今回のぼくは噛みつかなかった。遠くで見送るように笑う先輩を見て、そんなことできるわけがなかった。超えてはいけない、超えることのできない線が、ぼくと先輩の間に引かれていた。
「わたしにはね、ちゃんと見えるんだよ」
何が、とは聞けなかった。
その不可視の線を飛び越えるだけの勇気を、出会って三日目のぼくは持ち合わせていなかったのだ。いや、これは言い訳かもしれない。このときのぼくはラガ橋との追いかけっこに疲れていて、そんな先輩の眼差しを支えるだけの繊細さを発揮できそうになかったのだ。
言い訳だ。
ぼくは多分、怖かったのだと思う。トナ村先輩がぼくとは違う世界に住んでいることを知ることが。同じ部屋の中にいて、視線だって交差しているにも関わらず、結局のところは別のものを見ているのかもしれない――その可能性に捉えられることが。
「やれやれ」
と先輩はため息をついた。
「こんなこと、言うべきでなかったのかもしれないな」
「……後悔、してますか」
「きみを困らせたならね」
「ぼくは、全然」
「そう?」
先輩は言って、ドーナツの紙袋をぼくに差し出した。
ぼくはおずおずとそれを受け取って、お礼を言った。
「お茶にしよう。少しだけね」
そして謝るように微笑んだ。
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