第2章 (3) 降るシュガーレイズ
ぼくは幸せだった。
親友がぼくのためを思って、追いかけてくれている。恩着せがましいことなんて何もない。
純粋に、善良な理由からだ。
いつもに比べて物分かりの悪いラガ橋。その原因は、長い遠征生活それ自体か、そこで起こった何かにあるのかもしれない。ただ単純に疲れているのかもしれないし、サイエンス・フィクションの読み過ぎかもしれない。いずれにしても、そういう諸々の事情が今のぼくにはありがたかった。
シンデレラ気分。
お城から去る彼女も、今のぼくのような気分だったのだろうか。
そんなことが頭によぎるが、だいぶ無理があるな、と反省する。
いつもと違う衣装を身に纏っているという点では、おとぎ話のプリンセス。
逃げているといった方が正確だったし、追われているといった方が適切だ。
被疑者はぼくで、被害者とされているのもぼくだった。
このアンビバレンス!
これが今のぼくを楽しくさせていた。
久しぶりに帰ってきた親友の感情全てが、彼より先を走るぼくに集約されているのだ。
彼の善良さと、責任感。それ故の怒り。
変装一つで、事態がここまでややこしくなっている。ほとんどの原因はぼくにある。ぼくがスカートを穿いて現れたから。そうせざるを得なかったのは、ぼくが遠征前のラガ橋と交わしたひとつの約束のせいだった。
賭けに負けたとき、ぼくはスカートを穿いて、思いっきりおめかしをして、あいつの前に現れると約束をした。
「忘れている方も悪いんだぜ、ラガ橋」ぼくはそう呟いて、目の前の手すりを捕まえる。跳び箱を飛び越えるように――ただしスカートのせいで脚は開けないから、一瞬、逆立ちになる。上下の逆転した視界で、角を曲がってきたラガ橋と目があった。
驚いた顔。
まさかスカートを穿いた女の子が、こんなことをするとは思わなかったか?
いいや、ラガ橋。お前は知っているはずだよな、こういうことをする人間をさ。
あんまり悠長に心で語っている場合もなかった。せっかくの走ってきた速度が死んでしまうし、スカートだってずり落ちてしまう。見られて困るものではないとはいえ、見せびらかすのもまた、美徳ではない。
ぼくはウィンクをして、手すりの向こうに飛んだ。
パルクール。
フリースタイル・ランニングとも言われる。
今は絶賛被追跡中なので、大雑把に言うと、飛んだり跳ねたりしながら、地形を利用して、縦横無尽に走ることを言う。
本当ならもっと動きやすい格好でやるべきだったが、今のぼくには望むべくもない。できない型もいくつかある。しかしできる型も十分にあるし、スカートでのこれには少し自信があった。夜な夜な練習しているのだ。もっとも、普段の練習に用に着ているスカートはボロボロで、こういうデート的な場面に着ていくことはできなくなっている。
パルクールでの逃走には、相手の意表を突くことができるというメリットがある。
普通なら走ることのできない場所を――手すりの上とか――を走ることができたり、一段一段丁寧に下りなければならない階段を省略することができるから、相手を撒くことができるようになる。
ただしそれは、あくまで自分の身体能力が相手より高く、相手より訓練を積んできている場合に限る。同じコースを同じように走破できるなら、相手がミスをしない限り、逃げきれない。しかもそのミスというのは、自分にも十分起こりうることだ。
手すりを飛び越えた先の高さを間違えたら?
回転の角度を間違えたら?
かなり幸運なら、捻挫で済むかもしれない。二度と歩けなくなるかもしれないし、最悪、死が待っている。これを避けるためには、日々の訓練と自分の限界をちゃんと把握することが大切だ。それでも、ミスの可能性はゼロにはならないんだけど。
ぼくにこれを教えたのはラガ橋だ。
彼がビルとビルの間を飛び越えたシーンに打たれて、ぼくはこれをはじめた。
ラガ橋が諸事情で辞めてからも、ぼくは一人で続けてきた。
でもそれは、ようやくかつての彼に並んだだけかもしれず、彼だってこの街で走るのを辞めただけで、別の場所で走っていたのかもしれない。それに彼はぼくに比べて動きやすい格好をしていたし、元々の身体能力とタフネスが違う。
ぼくが少しずつ登る路地裏の壁を、彼はもっと大胆に登る。
ぼくが小分けに飛び越える障害物を、彼はまとめて飛び越える。
ぼくが縫う人波も、彼が近づけば自然と道ができる。
やっぱりタケ兄には敵わないな、とぼくは笑ってしまう。
汗をかくのは厳禁だからね、と妹に言われた。
当然、メイクが落ちるからだったし、そうすればぼくは女の子の姿でいられなくなるからだ。この服には収まらなくなるし、そうなるとせっかく妹から借りたこのひらひらした服も弾け飛ぶかもしれない。
女の子の服、結構高いのだ。
しかも妹の服だぞ、値段なんかつけられたものじゃない。
ラガ橋はぼくを何度か見失った。それでも結局のところ、追いついてきた。勘が働くのは元々だったが、ぼくが期待するのは、あいつがぼくの正体に気づきはじめた、という線だ。だからぼくの逃げ方が想像できて、先回りすることもできる。でも、真偽のほどは定かではない。
ついに捕まるのか、とぼくは思った。
まあそれでも良いかなって思っていた。
親友に捕まるなら悪い気はしない。
大きく息を吐く。
胸全体が心臓になったように辛い。心肺機能には自信があったけど、それでも身体中の血液がもう酸素を取り込めないところまで来ている。水分だってろくに取れていない。キヨスクに寄る時間も与えてくれなかったからね、ぼくの親友は。
緩慢な走り方で、路地裏に入る。
「その先は行き止まりだからな」と後ろから声が聞こえた。
わかってるよと呟こうにも、ぜいぜいとしか音が出ない。
同じ街で何年生きてきたと思っているんだ、とぼくは思った。ここが行き止まりになってることくらい、ぼくだって知っている。
これは判断ミスではない。
そのように逃げてきたんだから。
さすがにこの場所を見れば、謎は明らかだろう、とぼくは期待する。思い出の場所だ。
奥には枯れた噴水がある。水を湛えるはずの皿は割れていて、女神の像は袈裟斬りにでもされたかのように砕けている。上半身がほとんどなくても、それが女性だってことはわかる。その曲面は、ちょっとぼくらには獲得し難い。
この街より前の時代のものだろう、とぼくらは話し合った。街中を駆け回っていたときに、こういうものをたくさん見つけた。ぼくらがこの街に入植したのは、結構最近の話なのだ。
近づこうとして、足に来た。
膝をつくわけにはいかなかった。これ以上スカートを汚すわけにもいかない。
「ああ、それにしても」とぼくは呟く。
噴水の後ろにあるレンガの壁と、その上にあるアーチ。ひょっとしたら昔々には、そこに鐘のひとつも下がっていたのかもしれない。路地裏だと思っているここも、教会か何かだったのかもしれない。考えてみると、そんな感じの痕跡は残っている。
鐘のあったかもしれない場所からは、光が溢れてきている。
もうその壁を乗り越える力も残っていない。
額の汗をぬぐって、ぼくは観念した。
ぼくは観念したのだ。
でも空から降ってきたドーナツの匂いに、ぼくは諦めるなと言われた気がした。
「助けがいるかい、お嬢さん ?」
空から声をかけてくるひとなんて、この世界にぼくは一人しか知らない。
トナ村先輩がそこにいた。
先輩の細腕のどこにそんな力があるのかは知らないが、彼女は容易くぼくを引き上げた。ジャグリングでもするように、食べかけのドーナツと紙袋、ぼくを交換し、結局ぼくは彼女のリアシートに収まった。お尻にフカっとした。クッションのようなものがある。目には見えないが、触るとわずかに反発がある。
「ひっはひ」
ドーナツ語だった。シュガーレイズ方言。
「なんです?」
「むー」
先輩は宙を蹴り飛ばす。そこには何も見えなかったが、何かが蹴られるガンッという音がした。ぼくの目には見えないだけで、ちゃんとあるらしい。あの日、屋上でぼくの見ていた箒は、どうやらその幹の部分らしく、実際にはゴテゴテは何かが搭載されているのかもしれなかった。
一瞬にして、ぼくたちは浮かび上がる。
上から風が吹きつける。油断していたので、圧力に驚いた。バランスを崩しかける。大気の皮膜を通り抜ける度、全身の熱が洗い流されるように感じた。涼しくて、気持ちが良かった。
「しっかり掴まっていろ、とは言ったけど、さすがに苦しい」
「あ、ごめんなさい」
先輩の腰に思いっきりしがみついていた。めちゃめちゃ細かったし、骨が入っているのか不安になった。
「あまり暴れ――あれ、揺れないな」
「バランス感覚には自信がありますから」
「みたいだね」
ラガ橋はどうなっただろう、とぼくは下を見た。かなり高くて、肝が冷えた。
彼はちょうど路地裏に入ってきたところだった。立ち止まって、辺りを見回す。隠れる場所なんてどこにもない場所だ。何かを呟いているようでもある。さしずめ、冗談だろ、というところだ。
「あれは誰なんだい? どういう関係?」
「ぼくの親友です。追われてます」
「女装してかい」
「いやこれは理由があって――」
あれ?
今この先輩、女装って言ったか? こんなに完璧な変装なのに。今のぼくは、この街第三位くらいの美少女なんだぞ。汗は確かにかいていたが、成り立たなくなるほど化粧が落ちたわけでもあるまい。ということは、衣装だってまだちゃんとフィットしているはずだった。
だいたい、ラガ橋がぼくをぼくと見抜けなかったのも仕方がないのだ。
外見はかなり変わっているし、声も変わっている。
ない内臓を搭載することはできないにしても、外見情報はだいぶ撹乱することができる。そのように訓練を積んできた。
「あなたはぼくのことが分かるんですか?」
「何言ってるんだい、ハタロウくんだろう」
さも当然のように先輩は言った。
多分、ぼくは疲れていたんだと思う。ちょっと泣きそうになった。
「今日は随分おめかししてるんだね。それとも、いつもそうなのかい」
「違いますよ」
とぼくは答えた。
この日もまた、特別な日になった。
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