第2章 (2) シンデレララン

 駅前広場の鳥居をくぐると、狛犬の近くにラガ橋がいた。総柄シャツに、細身の黒のスラックス。先の尖った、よく磨かれた靴。シャツに描かれているのは、多分ハイビスカスなのだろう。でも全体が青色なので、あまり南国という感じはしなかった。太陽の青い国では、そういう風に見えるのかもしれない。それとも喪に服しているのかもしれなかった。

 ここ最近――といっても、ラガ橋はしばらくの間、長期遠征に出ていたから、実際には出会うのは久しぶりなわけだけど――彼は服の着方を変えていた。柄物を着始めたのは、今年になってからだ。それまではいつも同じ色の同じ服を着ていたというのに。

 その理由について、ぼくはまだ聞いていない。

 連絡こそ稀に取るが、あまり会う機会もなくなっていたからだ。

 今の彼にはあまりぼくと話している時間がなさそうで、ぼくの方も先輩のことを考えるのに忙しかった。幼馴染とはいえ、生まれの一年が違えば、人生の歩み方もだんだんズレてくる。彼はぼくより一つ上で、ということは高校三年生で、進路を考える時期だった。

 もともとラガ橋タケルという人間は、落ち込むタイプではない。来ることがわかっている物事について、あれこれ悩んだり不安になったりということのない人間だ。享楽的に見えて本質的には真面目であり、豪放に見えて基本的には用意周到なやつだった。

 だから、この最後の一年間をどのように過ごすべきかはすでに決めてある。そして行動も起こしているに違いなかった。

 けれども、そういう彼がハイビスカスの遺影のようなシャツを着て、どこかを見ている。シャツの柄のせいか、それとも長期遠征の疲れがまだ残っているのか、彼の目はいつもより澄んでいた。

 この塞ぎ込むような曇り空の下では、晴天は忘れられがちだ。今日の彼の目は、そういう弱い幻影の色彩をたたえていた。

 夏の極端な色調に生きる彼が、そういう在り方をしていることに、ぼくは驚かずにいられなかった。

 飛行機雲を追うように、ぼくは彼の視線を辿り、そして交差点の向こうのスクリーンにぶつかる。


『サルトランタの研究チームがリープシフトの観測に成功』とテロップが書かれている。


 サルトランタはきっと遠くの街なのだろう。ぼくらのいるアガ坂の街とは、かなり音の響きが違う。それに確か、その街はラガ橋が行っていたところではなかったか。一昨日の夜の便で帰ってきたばかりなのに、もう寂しいのかとぼくは思う。

 リープシフト。

 これはあまり覚えのない言葉だった。スクリーンの映像を見る限り、光学的な現象のようだった。よくわわからない。海の上に光の幕が立っているように見える。オーロラに似ているが、ずっと低い。何しろ海面に差し込まれているのだ。そして揺らめいている。

 画面が切り替わる。普通の海。

 解説は、ほとんど聞こえない。

 画面は二分割される。左に普通の海、右に今回観測されたとされる海の映像。どうやら特殊な機材によって撮影されたものらしい。ということは、ぼくらの肉眼では捉えることのできない、未知の現象ということだ。あまり科学に詳しくないぼくには、それがどれだけの重要性を持つのか、ちょっと想像できなかった。

 明日のご飯の味が変わるのだろうか。

 例のピザ屋に行きやすくなるのだろうか。

 そういうことができないからといって、しかしぼくは意味がないとは思わない。なぜかは知らないが、逆に自分を残念に感じる。ぼくのアンテナにとって、科学的な発見というやつは死角になっている。誰かにとって感動を呼び起こすのだろう事柄が、自分の見えない場所に転がっていた――と気づかされるのは、たまらなく悔しい。

 それに、そのアンテナが十分な感度で働いていれば、ニュースを見る友人の視線を、もう少しでも解読できたかもしれないのだ。

 白衣の人間が出てきて、何かを語る。やはり解説は聞こえない。

 映像は終わり、またしても切り替わる。

 どこかの街でオープンした動物園が紹介される。

 ラガ橋は少しの間その映像を見ていたが、やがて思い出したように腕時計に目を落とす。別に大きな目というわけでもないんだけど、なぜだが金髪の間に見ると溢れそうだった。


「あの、すみません」とぼくは声をかける。「ラガ橋さんですよね?」

 突然話しかけられて、彼は少し驚いたようだった。

「確かにそうですけど……あなたは……」

「やっぱり!」とぼくは高い声を出す。「アガザカ中の南瓜様ですよね?」

 ぼくがそう言うと、彼はすっと目の温度を落とす。

 わぉ、そうだよ、その目だぜ、親友。

「どこで聞いた?」

「有名ですよ〜」

「それは秘密のはずなんだがな。お嬢さん、一体何者だ……」

「あなたと同じ世界観の者ですよ」

 ぼくは斜めに被ったつば広の麦わら帽子を取る。

 種明かし。

「……いや見覚えないんだけど」

 あれぇ?

「おい、わたしだよ。違う。ぼくだよ親友。ぼくだ」

「あーリアルで一人称がボクなのね。いいよ、俺は認める。まだ好みじゃないけど、やがてそうなるかもしれない。がちょっと胸が足りないんだよなぁ」

「ガサツな奴だな!」

 言ってみたかったのだ。

「悪いけどさ、俺は今日これからダチと会うわけだ。そろそろ来るはずなんだけど……」

「いやもう来てるんだよ、ラガ橋」

「呼び捨てかよ。初対面で無礼だな」

「ラガ橋、ぼくだ。ルベシベ・ハタロウだよ」

 疑いの目で彼はぼくの体を上から下まで観察する。

「俺は今とても困っている」とため息をついた。「目の前の微美少女が自分の親友を名乗ってるんだぜ? しかも名前まで完璧に把握している。訓練にはなかったぞ。どう行動を起こせばいい?」

 ぼくは頭を抱えたくなった。

 やりすぎたのだ。

 妹に頼んで服を借りた。そこまでは良かった。ただぼくら兄妹は調子に乗りすぎたのだ。悪癖がまたしても発動してしまったというわけだ。多くの面で、ぼくら兄妹とこの親友の三人組は、やりすぎる。今回に限っては、当然ラガ橋は参加していなかったが、その分妹のテンションが上がってしまった。

 大体、演劇部に所属していて、部活外では級友から教師陣に至るまで、化粧をしてやって金を取っているような子だ。そのあいつが、今日は冴えていた。服選びとメイクのセンスは炸裂し、今のぼくは妹の横を歩いても俯かずに済む程度にはなっていた。

 具体的にはアフロディテの横で布を渡すことくらいはできる。

 ルネサンスしすぎたのだな。

 それは再誕というような意味も持つ。

「しかし遅いよなぁ、ハタの奴」

「ここにいるのに」

「はいはい」

 そう言いながら、彼は左手を振る。時計のバンドから下にホロスクリーンが下りて、そこに電話帳が表示される。ぼくのものとは違って、さすがラガ橋、AからZまでちゃん名前が登録されていた。その中から彼はRを探して、プッシュする。

 ぼくのポーチが震えた。

 妹から借りたポーチ。デフォルメされたライオンの口を開いて、その中からぼくは携帯端末を取り出す。さすがにここまで来たら、こいつもぼくのことを認めてくれるだろう。まさかそこまで察しが悪いわけもあるまい。いや親友、マジでもう戯れが過ぎますわよ。

「もしもし」

『なんでお前がそれを持っているんだ?』目の前からと回線越しから、二つの声が重なって聞こえた。驚きと、そして怒り。

 静かに彼は怒っていた。

「いやいやいや、ちょっと待てよ、タケ兄。なんでそんなマジギレなんだよ」

「おまえ、俺の弟分をどうしたんだ?」

 やばかった。

 ラガ橋の青い目で、揺らめいた炎が見えましたね。

 ナボコフ光、とぼくは呼んでいる。

 いやそんな場合ではなかった。

 ラガ橋タケルという人間は、義理堅く身内を何より大事にする。その身内の概念が非常に広いところが、彼の長所でもあり短所でもあるわけだが、それでもセンターはあり、そこには彼の家族と、光栄なことにぼくら兄妹が含まれている。一度妹がトラブルに巻き込まれたときなんか、彼に助けてもらったことがある。あれは本当に助かったね。

 自分の大切なもののためなら、星さえ落として砕く男。

 そいつが今や大変な勘違いをしているらしい。

「おまえ、ハタをどこにやった。あいつは時間を守る男だ。それが来ない。代わりにおまえが来た。あいつの携帯を持ってだ。怪しいよな? 怪しいぞ。それに、何か隠してる風だ」

「どうしてそこまで考えて、他の可能性見ないんだよ!」

「今すぐそれを返して、居場所を教えれば見逃す」

 聞く耳持たない男だった。

「あー……教えなければ?」

 というか、どう教えればいいのって問題でもあった。ぼくはぼくだし、ぼくの所在はといえば、それは現在のぼくそのものが該当する。とはいえ……確かに……そうとぼくが主張することは当然可能だが、その真理的な価値は、いかなる客観性とも関わりがないかもしれない。ぼくは自分のぼく性をどう保証すれば良いんだ? 他者の声? ここに来るまで、振り返ったあの男のひとたちの、口笛がぼく……?

「お前は、警察行きだ」

「それは困る」

 ぼくはスカートを翻して逃げ出した。

 女装なんて懲り懲りだ。

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