第2章 (1) ぬばたまの

 ぼくの人生には、頭を下げていい人間が二人いる。

 一人はまだ見ぬ絶世の美女。ぼくが心の底から忠誠を誓うに値するひと。

 美は性別に先行するので、それを感じたならぼくは忠誠を誓いかねない。

 ここで気をつけるべきは、その美しさは何も外見によらない、ということだ。

 では心か? そうだが、そうではない。

 ある人物の魅力は、一過性のものではきっとない。たとえば、そのひとのある仕草がチャーミングだと思うとする。これは瞬間だし、点だ。

 一方で、歳を経ることで変わっていく外見を丸ごと愛するというのは、もっと幅のある、容器的な見方だ。四次元的な、ということになるかもしれない。

 この路線で心を捉えるなら、喜怒哀楽は、時間に揺らされ姿を変える万華鏡の底に似ている。それを丸ごと愛する、というのは、万華鏡を愛するということに似る。

 これも魅力的だが、ぼくが忠誠を誓う対象とは異なる。

 ぼくが頭を下げるに値するのは、喜怒哀楽の基になるもの、心の中心核。万華鏡自体ではなく、万華鏡の本質だ。その不思議なギミックではない。表示される無限の色彩でもなく、事実それを可能にしている構造でもなく、それをこれから可能にするもの。しうるもの。

 おそらくそれはきらきらと輝いていて、永遠に絶えることのない概念上の炎に似ている。

 そうぼくは確信している。

 当然、そういうひとは、まだぼくの前には現れていない。

 一人を除いて。

 それが二番目の、頭を下げていい人間だ。


                  ・・・♪・・・


「で、どうしてお兄ちゃんは土下座してるの?」と妹は言った。

 ぬばたまの、という枕詞はこの妹の髪にこそふさわしい。

 兄妹だからにはぼくだって黒髪だったし、巻き毛だったが、こいつの髪は格が違う。新月の晩の踊る波濤が、時間を止められたとしたら、妹の髪に近づくかもしれない。事実それは不十分で、時間は完全には止まっておらず、その内に秘められた躍動感は生きている。妹の髪が、彼女の仕草や風によって揺れるとき、長い年月を経て海中に溶け込んだ月光が、息を吹き返して、溢れ出す。

 それを見れば、ひとは新月の晩にさえ、海がお月様を忘れたわけでないことを、確信するに違いない。

 だから土下座のぼくにも、妹が小首をかしげたことがわかった。

「理由は聞かないでくれ。お前を巻き込みたくない」

 春のフローリングはまだ冷たい。

 母が掃除をしたあとだったので、ぼくは誠意に集中することができていた。塵一つない(プライドの話ではない)、理想的な平伏環境だった。

「十分巻き込まれている気がするんだよなあ」と妹は呟いて「でも、あい分かりました。理由については見逃しましょう。ただ何をしたいのかを教えてくれる?」

「ぼくに服を貸してくれ」

「それ、二度目」

 人差し指を振って、手品のように中指も立てる。

 いつ立てたか気づきませんでしたね? 自慢の妹なんですよ。

「新しいことを言ってほしいな」

 妹がぼくに尋ねているのは、つまりぼくがこいつの服を着て、一体何をするつもりなのか、ということだ。理のある疑問だった。ぼくだって、自分の兄がちょっとないくらいの美少女な妹の服を借りようとしたきたら、同じことを思うだろう。

 もちろん、先の会話を見てご理解いただけるように、ここでぼくが秘密にしても、こいつは見逃してくれるだろう。ぼくらの間にプライバシーは機能している。距離感の適切な兄妹関係のまま、かれこれ十五年ほどやってきているのだ。

「ラガ橋に会う」とぼくは打ち明けた。

「ラガ橋さんかぁ」と妹。

 ぼくの親友、ラガ橋タケル。ぼくらの兄貴分で、幼馴染。ぼくより一つ歳上で、妹からは二つ上になる。先日、部活の長期遠征から帰ってきて、この日曜日の今朝、連絡があった。見たい映画があるのだと言う。やつとは映画の趣味が合うから、ぼくとしては拒む理由はない。

 問題があるとすれば、

「お兄ちゃん、賭けに負けたんだね」と妹が全てを了解したように言った。

 そういうわけだった。

「別にラガ橋さんも本気で言ったわけじゃないと思うけど……メリットもないだろうし……ていうか、そっか。違うな。お兄ちゃんが持ちかけた賭けなんだ、そうでしょ?」

「その通りだ」

「なぜ胸を張る。ていうか器用だよね。猫じゃん」

 土下座した状態から腕を伸ばしてぼくは胸を沿っていた。

「自分の為したことだぞ。恥じることはない」

 聡明な妹もこれくらいはできる。我が一族は皆できる。体の柔らかい家系なのだ。みなできるのだから、恥ずかしいことではない。ただ最近は、妹がしているところを見かけないな。部屋で隠れてやっているのかもしれないけど、そこはプライバシー。

 育ち盛りだしね。

「張ってばかりだよね、お兄ちゃんは。胸も意地も、賭け事も。それも全部、変なのばっかり」

「変かな?」

 ぼくは姿勢を胡座に変えて尋ねた。

「変だよ。普通のひとは妹に服を借りない」

「普通、ね」

 またしてもぼくの脳裏に先輩の姿が浮かんだ。金曜日の昼休みからずっとこうだ。

「でもまあ、今回も、仕方がないかな。ラガ橋さんに会うんだもん、おしゃれ、しないとね」

 そう言って、妹は自分の部屋に行く。

「感謝するぞ、愛しの妹」

「いいってことよ、お兄ちゃん」

 妹はウィンクした。

 そこに星のまたたきを見る。こればっかりは、ぼくらの家でも彼女だけの必殺技だ。

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