第1章 (4) あたためますかの魔法
先輩はぼくを弟子にしてはくれなかったが、ピザを温めてくれた。
これからその話をする。
昼休みが終わるまで、まだだいぶ時間があった。
「ここで出会ったのも何かの縁だ。きみ、お昼ご飯は?」と先輩は聞いてくる。
「まだです」
「お弁当箱も持っていないようだけど」
ぼくは食べ物を持っていなかった。屋上にやってきていたのも、昼食のためではなかった。悩み多き男子高校生らしく、黄昏に来たのだ。
この高校は坂の上にあって、今日みたいな天気の日は、街全体が見下ろせる。
詩人な気分の日だったのだ。
それでも、お腹は空くし、実際きゅうと鳴いた。
「仕方がないなぁ、こっちにおいで」
そう先輩は言って、ぼくの前を歩き出す。
ベンチに座るよう合図を出し、ピザの箱を手渡してくる。
やはり先輩は見上げるに限るな、とぼくは思った。同じ地面に立っているより、こうしている方が視線が近い。座ると先輩の顔が上に見える。
どうして世の教会の大半が、マリア像を高いところに置くのか、完璧に理解することができた。こうでなきゃって感じがしますね。
先輩は内ポケットから、木の枝のようなものを取り出した。
「魔法の杖ですか」
「魔法を使うための道具ではある」と先輩は答える。「特に杖とは呼ばないけどね」
先輩はそう言いながら、杖と思しきそれを軽く振った。
笛のような音がして、それは指示棒のように伸びる。そういう機械的な成長だった。
こう思って、まずぼくは違和感を覚える。
その枝は明らかに成長していた。枝の成長は自然的なもののはずだ。でも、ぼくに与えられたのは、「指示棒のような」「機械的な」という段階的な印象にすぎない。これを説明しようとすると、集中力の不足とか、あるいはそれこそが魔法なのだ、という線を引き合いに出すしかなくなる。
十五センチほどだったものが、倍くらいになる。しかし段差ができるというわけではなく、そうしてみると、初めてからその状態だったような気がする。見た目の材質は、樹皮を剥がしたトチの木に近い。
見るからにすべすべしていたし、先輩の白い手によく馴染んでいた。
ひょっとしてぼくは歩き出した彫像を見ているのかもしれない。
先輩はなにかを唱える。
ぼくの知らない外国語の言葉かもしれない。トナトナトナと聞こえた。杖の先端にある宝石がぼんやりと発光し、流れる雲の隙間から陽の光が差すように、ピザの箱が照らされる。
今日は珍しく晴れていたから、当然割れるべき雲もなければ、日の光の局所的な強弱はない。だから、このピザの箱を温めているのは、あの空にある太陽ではなかった。それは空とぼくらの間にある、中間的な太陽――彼女の杖の先にある宝石――の仕業だった。
ぼくは膝の上に乗せたピザの箱が、じわじわと温められていくのを感じる。
祖父母の家の縁側で、猫と日向ぼっこをしていたときのことを思い出す。あいつはよほどの夏でもなければ、何かに隠れているのを好む猫だった。縁側に座って、箱を膝の上においておくと、ぼくがまどろんだあたりで忍び込んできて、思い切り体を伸ばす。ぼくにとっての小さな箱も、あの猫にかかれば、無限の広がりを獲得するのだった。
きっとこの蓋の下では、ピザが思い切り体を伸ばしているに違いない、とぼくは直感する。
時間の経過に伴って、冷えてしまっただろうピザ。
しかしそれを膝の上に乗せるぼくは、どうしてもこの箱の中で、ピザが伸び伸びとしている様を想像せずにいられなかった。
「これくらいかな。開けてもいいよ」と先輩は言う。
ぼくは蓋を開けた。
湯気が立つ。
「電子レンジがないからね」と言い訳のように。
「いただきます」
ぼくは手を伸ばして、熱さに驚く。
「ほら、がっつくから」ちょっと笑う先輩。「やけどしてないね?」
「大丈夫です。見てくださいよ、チーズ、トロトロですよ!」
「一応、焼きたてだからね」
まるで自分のことみたいに誇らしげに胸を張る。
それを疑うような心は持っていなかったし、余裕もなかった。
ピザって焼いたら終わりかと思ってました。口の中に入れてからさらに膨らむんですね。このトマト、きっと店の裏の農園で摘んできたばかりに違いない。焼いてあるのに、瑞々しいとか時空が捻れているのだろうか。そしてこのエビ、イカ、ホタテ……まだ生きている。
ぼくは地中海を見た。まっすぐな日差しの中で踊っていた。
実際の地中海にこういうピザがあるのかはわからない。 産地だってよく調べれば、この国のものかもしれない。だって、このお店はチェーン店だ。それとも、だからこそ、そういう食材の供給網があるのか? 輸送ってすごい。
でも昔ならいざ知らず、今の時代で実現できるんだろうか。そこまで僕らの世代が取り戻せたとは思えなかったし、復刻したように思ったのは、ひょっとしてこれも先輩の魔法のせいなんだろうか?
「きみを見てると、やっぱりわたしも食べたくなるな」
と先輩は言う。
ぼくは箱を回して、先輩に差し出す。
もぐもぐとやっていたから、言葉はなかった。
色々と考えてしまっていたぼくだけど、先輩はそういう混沌に終始符を打った。
「うん、美味しいね」
そのふわりとした笑い方、反則ですよ。
やがて食べ終わったぼくらは、ベンチに並んで座って、空を見ていた。
ぼくは地中海の晴れた空を思い描いていたが、先輩はどうだったろう。
「これからは宅配じゃなくて、食べに行きますよ」
「ふふ」
そういう笑い方をするんだ。
「満足してもらえたようで何より」
「箒に乗る気持ちもわかります」
「でも、美味しいって知ったのは今日がはじめてなんだぜ?」
そうだったのか。
「噂には聞いていた。でもあそこまで行かないじゃないか、普通」
確かに、昼休み、という限られた時間でこそ見る夢かもしれない。放課後になれば、列車で通り過ぎてしまう場所なのだ。街に遊びに出るとしたって、わざわざあの店までは行かない。そういう離れた場所にある。
そういうぼくの基準を、彼女の普通に当てはめて良いものかは迷った。今後も、積極的にこの店に赴くかもわからない。今のぼくはとてもお腹がいっぱいだったし、この体験はその店にではなく、ぼくのお腹の中に、つまりは過去にあった。
満腹の人間には、未来の味を想像することは難しいのだ。
「ぼくに魔法が使えたら、あるいは」
と口に出してしまう。
「使えたら、行くかい?」
「教えてくれるんですか」
「教えないよ」
「釣れないですねー」
「優位性がなくなるからね」と先輩は笑う。少し自嘲気味だった。「というか、教えたくないってのもあるんだ」
「それは先ほども伺いましたよ」
「それとは違くてね」と先輩は行って、足をぐぅっと伸ばした。ローファーは新品のように明るい。ぼくよりずっと小さな足だった。「わたしは留学しているみたいなものなんだよ。自分の国から離れて、知らない言語圏の中で生きてみたくなったのさ」
「魔法が言葉ですか」
「そ」と先輩は言う。「きみは英語の授業を受けているよね?」
「ハロー?」とぼく。
「グッバイ」と先輩。
振られた。
「そのようにさ、英語を口に出せるからって、きみが英語の国の人だってことにはならないだろ」
「まあそれは……」
でも近づくことはできるんじゃないか、とぼくは思っている。成績は悪いけど。でも憧れはある。
「わたしは魔法を使うことができる。でも、わたしは魔法使いじゃない」
そう言って、先輩は手を組み、頭の後ろに大きく伸ばす。
この街の空気を大きく吸い込んだ。
深呼吸して、体の組成を入れ替えるように。
「きみが英語を話せて、けれども英語の国の人ではないように、ね」
わかるような、わからないような。
そもそも、先輩の今の言葉が、いったいどこに掛けられた言葉なのかすら、ぼくにはわからないのだ。
困惑していたのだろう、ぼくの視線を受けて、先輩は異国の瞳をこちらに向けて、細めた。
ぼくの知らない外国が、地平線の向こうに遠のいた。
「わたしはね、普通の女の子だよ」
誓うようにそう言う。
きみは何者なんだい、と続けられる気がした。
しかし実際には誰も何も言わなかった。
「先輩は――」
ぼくは何かを口にしようとしたが、そこで言葉が途切れてしまった。まるで、自分の使い慣れていない単語を言おうとしたときみたいに。暗記の足りない詩の文句を諳んじようとしたときみたいに。
「わたしの名前なら、トナ村リミカ」と先輩は言った。
「きみの世界に留学してきた、普通の女子高生だよ。よろしくね、ええっと……」
ぼくは自分の名を名乗る。
「ハタロウくんか。こう呼んでも?」
「いいですよ、トナ村先輩」
「うん」
そしてぼくらは握手を交わした。
予鈴の鳴るまでのもう少し、ぼくらはどうでもいいことを話した。またお昼ご飯を一緒に食べようと話したこと、彼女がいつでもここにいること。ぼくの家族構成。「いつでも」と言いながら、それは昼休みや放課後、五限目など、人気のない時間に限られることなど。ライオンの話も、明確な魔法もそこにはなかった。
それともどうだろう、彼女の目に見える魔法は、このときもここにあったのだろうか。
ともかくそのようにして、こうして先週の金曜日の話は終わり、この日は少なくとも、ぼくらは互いの教室に戻っていく。
ピザの箱は、ぼくが捨てることになった。
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