第1章 (3)


「ごめんなさい」と彼女は言った。なかなか幼い声だった。

 明らかに彼女は困惑していた。

「正直、きみの言っていることがよくわからない」

「弟子にしてほしいんですよ」

「それだ。きみにはわたしが何に見えるんだい」

「魔女」

「訂正したまえ。言うならせめて、魔法使いと――」

 やっぱり魔法使いじゃないか。

 ぼくは嬉しくなった。

 それを見て、彼女は酷なことに瞼を閉じる。何かを考える風に、あるいは言葉を整えるように。

「いいや、わたしは魔法使いなどではない。……普通の女子高生です」

「普通の女子高生が箒で空を飛びますかね」

「ぐぅ……やっぱりきみは見ていたのか」

「見ました。意外と可愛い下着でしたね」

「そこまで見えたのか?」

 彼女は驚いて目を見開く。やはり綺麗な目をしていた。宇宙三大天体があるとして、その内二つは彼女の瞳がカウントされるに違いない。

 彼女は食べかけのピザを箱に戻し、懐に手を伸ばす。

 おそらく、そこに何かを隠しているのだろう。

 この先輩が魔法使いであるからには、順当に考えてそれはきっと魔法の杖。知られたからには記憶を消す、というのが魔法使いもののセオリーだ。

 そしてぼくは、せっかくのこの出会いを忘れたりなんてしたくなかった。

 それまで退屈で仕方なかった日々が、ようやく変わるかもしれないのだ。

 牽制、牽制が必要だ。

「実のところ、よく見えませんでした」とぼくは明かす。

 彼女は目に見えてほっとする。

「それならよかった。だいたい考えてみれば、光学的な迷彩のやつはやってたんだから、見えるはずがないんだし……」

 内ポケットから手を離そうとして、しかしそこで彼女はと思い至る。

「いやでも、きみにはわたしが見えていたよな……?」

 ここだ。

「ふふ」と芝居がかった笑い方をする。今までやったこともない。

「まさかきみ、やっぱり――」

 少し怒ったような表情。緑色の瞳の中で、きらりと炎のような光が揺らぐ。

「さて、どうでしょう」とぼくは言う。「見えていたのかもしれないし、本当に見えなかったのかもしれません」

 正直なところ、ぼくは彼女の目しか見ていなかったのだ。

「けれども、憶測で語ることはできます。あなたの下着の色を吹聴することだって、ぼくにはできるんですよ、先輩」

 無論、ぼくはそんなことしない。

 まず見えていないからできないし、たとえ見えたとしても、それはぼくだけの秘密にする。魔法使いの女の子の下着だぞ、なぜ共有しなければならないのだ。ぼくが国家なら、機密事項に指定する。

 けれども、ぼくらは初対面だ。そういう心の動きは彼女にはわからない。

 そして、下着の色を吹聴されるのは、避けたいだろう。ぼくだってそう思う。

「どっちかわからない……教えてもらうわけには?」

 自分でスカートをめくればよいのでは、とはさすがに言わない。そうするとぼくにも見えてしまうからね。ぼくは魔法使いの弟子になりたいだけで、変態になりたいわけではないのだ。

 しかし、そこまで知られたくない理由があるのだろうか、とふと思い至る。

 待ってくれ、それってどういうことだ?

 男子高校生の血が騒ぎ出した。くそ、こんな時に……。

 生まれて初めて「目を見て話せ」という教育を恨んだ。

 ぼくは今まで、彼女の目のことばかり考えていた。そのことは後悔していない。目はひとの心の鏡だ。本性の窓だ。この麗しい魔法の目を見て、それ以外に大切なものなんて……いや一つとは限らないのか? 真理というやつは?

 俄然気になってきてしまった。

 しかしここで、思春期の魂に屈してはならないぞ、とぼくは理性を奮い立たせる。 

 自分に言い聞かせるように、強く、言う。

「いいじゃないですか、下着の色くらい」

「よくないだろ!」

「ちなみにぼくはライオンです」

「知らないよ!」

 彼女は言って、そしてしゃがみこんだ。スカートも驚き、ふわりと浮かぶ。それを慌てて両手で抑え込む先輩。当然ピザの箱も宙に浮く。しかしこの先輩、反射神経が凄まじい。膨らむスカートを宥めると、すぐさまピザの箱をキャッチする。マジカルスパイダーにでも噛まれたのかよ。

 というか、それだけの運動神経がありながら、さっきは貯水槽に激突したのか、とぼくは思う。

 そしてどうでも良いけど、今の春風、とても良い匂いがしたな。

「今のは見えてないよな?」

「あ、え? あ、はい、見えてません」素が出た。

「よし」小さくガッツポーズ。「物理はわたしの味方みたいだな」

 ひょっとしてぼくはまたも世の理を見逃したのかもしれない。

 先輩は、今の勝利に勇気づけられたのか、再び立ち上がり、不敵に微笑む。

「ところで、わたしは良いことを思いついたんだ」

「なんでしょう。弟子にしてくれるんですか」

「しないよ。わたしは魔法使いじゃないからね」

「かたくなぁ」

「なに? ああ”かたくな”、か。エウ、エフ」

 ぼくには先輩が何をし始めたのか全くわからない。

「どうしたんです、具合でも悪いんですか?」

「咳払いだよ!」

 冗談だろ。咳払いのできないひとなんて実在するのか?

「慣れないことはするもんじゃないですよ、先輩」

「静かに」

「はい」

「コホン」

 ようやく見つかったのか、超嬉しそうだった。おそらくエヘンとかとごっちゃになってたんだと思う。

「――魔法使いの社会には判例があってね。魔法使いでない者に、見られてはならないものを見られた場合は、記憶を消しても良いんだ」

 やっぱり魔法使いなのでは?

 というかその「見られてはならないもの」に、少女の下着は含まれるのだろうか。

 この先輩、いろいろと甘い。はらはらする。

 しかし今回に限っては、筋は一応通っているのだろう。記憶を消すからには、要らないことを喋ってもよいと考えたに違いない。というか、せめてそうであってくれ、と思った。その場しのぎで考えているのであれば、いろいろと心配になる。

「冥土の土産、というやつですね」

「理解が早くて助かる」

「ぼくは先輩の下着を目撃した”かもしれない”って理由で、記憶を失うわけですか」

「……”かもしれない”は危険なんだよ。今回のことで、わたしは嫌というほど思い知った。やっぱりクーポンがあるからって理由で、箒でピザ屋に直接行くんじゃなかった」

「わかりますよ、ぼくも魔法が使えたらそうします」

「だよね?」

 食いついた。この路線か。

「普通の高校生なら、絶対にそう考えますよ」

 あれほど普通を推してきた先輩だ。

「先輩、あなたはそういう意味で、普通の女の子だとぼくは思います」

「そう言ってもらえると、なんだか嬉しい」

「もう十分、普通の女の子なんですから、だったら記憶を消さなくても良いじゃないですか。ペナルティとかあるんじゃないですか? 魔法使うと」

 先輩は内ポケットに入れていた手を動かしていた。多分そこには杖がある。迷いもある。

「確かにあるよ。”なぜ魔法使いでない者に魔法を使ったのか?”って、間違いなく聞かれるだろうね」

 その際に、目撃されたから、と回答するだけで済むものだろうか。

「下着を見られたって話をしたくないのでは?」

「そりゃあ……」

 この先輩のことだ。絶対にボロが出る。

 ぼくにできることなら、それは避けてあげたかった。義を見てせざるは勇なきなり、と言うではないか。この先輩を守るためなら、ぼくはなんだってする。この綺麗な目の持ち主が、恥辱とかそういう感情に苛まされるのは、看過できなかった。

 この日常の限界線を、この出会いを、特別なものにしたいという欲もあった。

 他のひとに易々と共有されては、それは特別性を失ってしまう。

「お願いします、先輩。ぼくはあなたの秘密を他の人間に吹聴したくないんです」

 先輩は、ぼくをじっと見た。

「どうしてきみはそこまで……初対面なのに……」

 目が綺麗だからだ。

「……いや待てよ? ちょっと待ってくれ。きみ、かっこいいように言っているけど、それ、自分の心の弱さを明かしてるだけだよね?」

「あっ」

 しまった、また素が出た。

「違います、これは、違います。ぼくは、あなたの秘密を暴露ばらさない代わりに、弟子にしてくれって言いたいわけじゃなくてですね」

「言ってるじゃないか」

 正直者、本当に損をする。やれやれ、参りましたね。

「言ってしまいましたか。そうなんです、ぼくは言ってしまうんですよ」

「やはり記憶を消すしか……」

「ストップ、ストップです、先輩」

「なにかね」

「記憶を消さないでいてくれたら、ぼくは約束を必ず守ります。あなたとの出会いは全て、ぼくだけのものにしたい。だから、誰にも喋りません」

「それをどう信じろって言うんだい、ライオンくん」

 なんたる意趣返し。

 このひと、ぼくのパンツの柄の話をするのか。だが、ライオン柄は我が家の人間はみな身につける、オーダーメイドの特注品だ。誇りに思うことこそあれ、恥じることなど微塵もない。

 まあ、身から出たサバンナとも言うしな、とぼくは先輩の言葉を流す。

「逆に考えてください、ぼくは正直な人間です。それは今ご覧いただいた通りです。で、そうなると、記憶を失うとだいぶまずいことになります」

「まずいこと?」

 彼女の魔法がどの程度のものなのか、今のぼくにはわからない。

 しかしぼくには武器がある。

 自分の傾向ならわかっているのだ。これを使う。

「普通の女子高生を名乗るあなたが、箒に乗っていたこと。鍵がかかっていたはずの立ち入り禁止の屋上で、二駅向こうのピザ屋で買った、まだ湯気の立つピザを食べていたこと。これって、もう十分マジカルなんですよ」

「記憶を消すなら、そういった一連の出来事をまるっと消させてもらうけど」

「手間になります。請け負います」

「……どういうことだい?」

「ぼくはわけあって、この屋上に来ました。手引きした者がいます。これがかなりお節介で、目敏い奴でしてね。ぼくが屋上にいたことを覚えていなければ、そいつは当然疑問に思います。マジカルを忘れても、ミステリィが残るわけです」

「ふむ、続けて?」

 彼女は懐から手を出し、食べかけのピザを掴んだ。

「となると、ぼくはいろいろ仮説を立てます。現実味の高いものから、低いものまでね。その中には、マジカルなものも含まれるでしょう。ぼくは探偵ではありませんし、マジカルなものに憧れがあります。非現実的でも構いません。素敵なアイディアなら飛びつくんです。でも一方で、気になってしまえば、それを追いかけます。そして周りを頼るでしょう。”あの日、屋上で魔女を見たんだ。緑色の目で、縞々下着の美少女だった。そういう子、知らない?”ってね」

 無論、これもやはり、ぼくは敢えてそんなことはしない。

 物理的に困難だ、という面もある。ぼくにはそれほど友だちが多くないし、親しくもない人間に、あることないこと吹き込む趣味もない。

 ただ一人、この屋上に手引きしてくれた奴だけには、きっと相談するだろう。ぼくがしなくても、彼が訊ねてくる。

 そしてやがては、また彼女にたどり着く確信があった。

「同じことを繰り返すくらいなら、ここで手打ちにした方がよくはないですか」とぼくは言う。

 ぼくとしては、ここでループするよりも、もっと前に進みたいのだ。

 この退屈な日常の重力圏から抜け出して。

「同じことを繰り返すくらいなら、ね」

 彼女はピザの箱を閉じた。

 まさか食べ切ったとは思わないけれど、それでもひと段落したのは間違いなかった。

 彼女はじっとぼくを見る。

 しかしぼく自身を見ているのではなかった。ぼくは内面を見透かされているように感じる。けれどもそれは違っていた。単にぼくが、翡翠の鏡のようなその目に、自分を見ているだけだった。彼女はもっと別のものを見ていたのだ。それは彼女自身の過去かもしれないし、未来かもしれない。あるいは、それこそ魔術的な意味を持つ、別の切断面の話かもしれない。

 とにかく、ぼくは身動き一つできなかった。

 まな板に置かれた心の名前を、あれはなんと呼ぶんだっけ。正直、生きた心地がしなかった。すでにぼくの存在は、ぼく自身の手を離れ、彼女の決断に握られているのだ。揺れる天秤の錘の気分。であれば、もう一方の皿に乗せられているのは、一体何なんだろう。生きた心地は、確かにしない。けれども、そう悪い気分でもなかった。

 やがて彼女の焦点は、ぼくより遠くの何かから、次第に近づいてきて、ぼく自身に当たる。

 そうとわかるのは、彼女の視線がぼくの目に飛び込んだとき、火花を感じたからだ。

「決めた」と先輩は言った。

「はい」

「記憶を消すのは無しにする。その代わり、きみもわたしのことを、あれこれ言うのはよしてくれ」

「誓います」とぼくは言った。「これから先は、健やかなるときも病めるときも――」

「そこまではいいよ。調子狂うなぁ」

 やれやれ、と彼女は言って、貯水槽の上から飛び下りてくる。

 思わずまた魔法を使ったのかと思った。

 彼女の姿が視界から消えてしまったからだ。

「どこを見ているんだい」と下から声がした。「しかしこう見ると、きみも背が高いんだね」

 ぼくは、困惑する。 

 およそ十四歳かそこらの背丈の少女が、ぼくの目の前に立っていた。

 貯水槽の横に立っていたときは、あれほど大きく見えていたのに、実際はぼくよりずっと小さな女の子だったのだ。

 けれども、彼女の瞳の色は変わらず、世界の神秘を集めたような輝きを放っていた。

 それだけで全ては真実に足る。

 これがぼくの魔法使いだった。

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