第500話 本気のアプローチとは違う?
「いえ、何も」
どのくらい前だったか、夏期休暇をどう過ごすかの話題が職員室で出たが、保健の先生である吉見さんはその場に居合わせなかった。
「だったら、私とデートしましょう。どうですか?」
「――え」
台詞の意味を理解するのにタイムラグが生じた。次いで、驚きのあまり力が抜けて、送受器を肩から落としてしまった。
賞味期限の確認作業をやめ、慌てて送受器を拾おうとすると、吉見先生の「岸先生? どうしました?」と心配する声が大きめに聞こえた。このまま耳を当てると、うるさいだろうなと思えるくらいに。
だから先に、「大丈夫です大丈夫です」と軽い調子で伝えてから、送受器を顔の横に持っていった。
「ごめんなさい、肩で挟んでいたのを落としてしまいました」
「そうだったんですか。急病か何かで倒れたのかと」
「そんな病弱じゃないですよ」
「でも、色々と事件に巻き込まれていたから、今頃になって後遺症が……」
「保健の先生が怖いこと言わないでください」
「絶対にないとは言い切れませんよ、真面目な話」
「はい、ご心配をお掛けして申し訳ない。いきなりさっきみたいな話をする吉見先生のせいでもありますよ」
「あ、聞こえてたんですね。よかった。二度もお誘いの言葉を言わなければいけなくなったかと思って」
「……デートとは少し前に、車でご一緒したときのような?」
校外学習のプランとして、科学館見学したあれだ。そういえば忙しさにかまけて、あの校外学習の話がどうなったのかすら聞いていない。上の方に提案して、OKが出たのだとしたら、私にも伝わっていてしかるべきだと思うのだが。あとで、ついでに聞いてみよう。
「ええ。ああいうのでかまいません。いいですか?」
甘えた響きは薄らいだものの、やけに積極的だ。単なる遊び、気晴らしだとしても、岸先生のことを思うとここは断るべきか。何たって、岸先生には八島華さんという彼女がいるみたいだから。厳密には確認できていないけれども、神様だって岸先生と八島さんがそういう男女の仲だと把握した上で、異世界送りのゲームに巻き込んだんだろうし。
「念のために窺いますが、吉見先生は私の女性関係をどの程度ご存知なんでしたっけ」
暗闇の中を手探りで行くかのごとく、探る口調になる。こんな話題で吉見先生とおしゃべりすると分かっていたら、事前にもやもやデータを使って準備していただろうが、現実は生憎とそうじゃない。
「はい? 確か、遠距離でお付き合いをしている方がいるとかいないとか。ぼんやりとしか仰いませんでしたけど、今日はどういう風の吹き回しですか。教えてくださる気になった?」
「い、いえ。非常に積極的に誘ってくださっているように感じたもので、少々不安を覚えまして」
滅茶苦茶固い口ぶりになっている自覚はあったが、しょうがない。吉見先生の真意がまだ見えてこないのだから、私としては岸先生の“代理人”になったつもりでガードを固めるしかない。
とにもかくにも返事を待つ。やや間が開いたなと感じるくらいの秒数が経って、ようやく答があった。
「すみません、変に心配をさせて」
おや。吉見先生の声から、甘えた響きが完全に消えたような。
「実は、お誘いするときに併せて言おうか言うまいか迷っていたのですが、隠していたことがあるんですよ」
「というからには……何か裏の事情があるってことですね?」
穿ちすぎかなと感じつつ、他に思い浮かぶこともなく、率直に尋ねる。
「あります。実は」
そこまで言って、最前の台詞も「実は」で始めたのを思い出したのか、息を飲むような音が小さく伝わって、「正直に話しますね」と吉見先生は言い直した。
「親戚にお節介な人がいまして、
言わずもがなじゃないぞ。吉見先生のフルネーム、学校でも見掛けた覚えがない。
いや、それよりも、そんな話を打ち明けてきたことと、話の流れから推して、私に彼氏のふりをしろってか? 私の予想が当たっていたのは、すぐに分かった。
「私はまだそんな気持ちなんて一毫もないから、断りたいんですけれども、親戚の伯母さんも全然あきらめてくれなくて。お断りするからにはそれなりに強力な理由が必要だなと考え、岸先生にしばらくの間、身代わりになってもらえないかしらと思ったんです。私が岸先生のような男性とデートしている様子を目撃すれば、伯母もお見合い話を引っ込めると思った次第です。岸先生に断られたら元も子もありませんから、声だけ多少艶めかしたつもりでしたが、誤解をさせたのなら謝ります」
なるほど。当初の甘えた感じの声はそのせいか。
「そこはもういいです。何ゆえ私なんでしょうか」
「近くにいる男性で、年齢の釣り合いが取れて、伯母が納得するだけでのしっかりした仕事に就いていて、しかも身代わりから発展して間違いが起きることが絶対にないとなると、筆頭は岸先生になりました」
つづく
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