第499話 過剰反応には違いないが

 天瀬の感謝や信頼が岸先生に向けられたものであるとは言え、実際にそれらを勝ち得たのは私の振る舞いである。将来の結婚相手から教え子としての感謝をもらっても、どうにもならないけれども、やはり教師冥利に尽きるなぁとしみじみ思う。

「岸先生? どうかされました?」

「あ、いえ、思いの外長く感謝されるものなんだなと驚いてしまいました。気にしなくていいと、お母さんの方から伝えてください」

 ですが先生と軽く押し問答が始まりそうな気配だったので、すぐさま話題を戻した。

「まだ他に、注意しておくべき事柄はありませんか。町内会費や公共料金の支払いがあるので、まとまったお金をご自宅に置いている、とか」

「いえ、大丈夫です。公共料金の支払いは引き落としですし」

 まあ、そうだろうな。これが十五年後には、電子マネーに移り変わっていくなんて、当時はまったく想像できなかったよ。多分、クレジットカードが進化していくと思っていたような記憶が朧気にある。

 とにもかくにも、段取りがまとまった。私は三日間、天瀬の身守りをすることになる。

「お大事にしてくださいと、よろしくお伝えください」

 私は季子さんの旦那さん――将来のお義父さん――へのお見舞いの言葉を口にして、面談を締めくくった。


 その日、自宅アパートに戻って、すでに買い込んである食材の賞味期限をチェックしつつ、翌日からのことに思いを馳せる。別にうきうきわくわくしているのではない。天瀬と同学年の男子じゃあるまいし。

 実を言えば、面談で天瀬から感謝信頼されているという話が出たときに、漠然と頭に浮かんだ懸念がある。天瀬が岸先生を信頼するのは、どの程度まで大丈夫なんだろう? ひょっとして、ある一定レベルを超えて岸先生と親しくなることは、天瀬の将来、ひいては私との結婚話によくない影響が及びはしないか。

 今までにも考えないではなかった懸念だが、心配ないと判断していた。岸先生は天瀬について、担任する児童の中で“成績優秀で手の掛からない女子”という認識だったろう。あの“もやもやデータ”で岸先生の好きな異性を参照したとき、並み居る大人の女性を押しのけて、三位に天瀬が食い込んだのだって、担任する児童の中で一番いい子というニュアンスだったに違いない。

 だがこれは飽くまでも、岸先生側から見た話。天瀬の方が岸先生に何かと感謝の念を抱き、小さなことが積み重なって行為が形成され、それがやがて親愛の情に転じる、という流れがあり得ないと言えるのだろうか。もちろん、年齢差を考慮に入れれば、現実味の薄い展開なのは分かるのだけれども……些細な可能性でも残るのは婚約者として嫌な気持ちになる。岸先生と親しい女性も何やら神様連中の企み?に巻き込まれているみたいだし、満々が一、岸先生一人だけがこの世界に帰還するなんてことになったら、岸先生はフリーな訳で……いやいや、考えすぎか。考えすぎと思いたい。

 でも不安が完全に払拭できた訳でもなし、うーん。三日間、見守りを頼まれたのをいい機会と捉え、天瀬に厳しめに当たってみようかな。そうすれば、感謝や好意が親愛の情にまで育つことはないんじゃないか。もっと確実に、女子に間違いなく嫌われる行動を取れば話が早いんだろうけれども、それだと岸先生に申し訳ない。

 ――電話が鳴っていた。想像を変な方向に膨らませ過ぎたか、気付かなかった。

「はい。岸です」

「吉見です。よかった、つながって」

「すみません」

 携帯電話を持っていないことを言われている気がして、電話口で頭を下げた。ただ、今日は確か吉見先生も小学校に来ていたはず。私がいつ学校を出て、だいたい何時頃帰り着くかは想像できるんじゃないか。

「謝られるようなこと、ありました?」

 吉見先生の怪訝そうな声。

「いえ。何度も掛けられたんじゃないかと思いまして」

「あ、これが一度目ですよ。学校でお話しする時間を取れると思っていたんですけれども、急に予定が変わったと聞きましたから」

「ああ、はいはい。面談で、保護者の方の事情が変わったものですから、どうしても今日しかないと」

「はい、それも聞いています。それよりも、元々したかった話を聞いてくださいます? お時間は大丈夫ですか」

「大丈夫です。出鼻を挫いてしまい、すみません。どうぞ」

 送受器を左肩と頬とで挟み、自由になった左右の手を使って賞味期限チェックを再開しようと試みる。包装のビニール袋を両サイドからぴんと引っ張らないと、字を読み取れない商品があるのだ。

「もうすぐ学校が完全にお休みに入りますよね」

 吉見先生の声はいつもに比べると弾んで聞こえる。まとまった休みはなかなか取れないから、気分が浮き立つのはよく分かる。私だって同じだ。

「ですね」

「岸先生は、休みのご予定は具体的に立てました?」

 聞いている内に、普段ともう一点、違うように思えた。若干、しゃべり方が実際以上に若いというか、甘えた響きがほんのり加味されているような……。


 つづく

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