第475話 手違いの違和感を正す
ああ言えばこう言うを地で行く切り返しを見せる天瀬。しかし、余裕があるわけではないようだ。よくよく見ると、そのこめかみには汗が玉になっており、今にも頬へと伝わりそう。彼女の内に押し隠した必死さを、神内は垣間見た心地になった。
と、天瀬本人も汗が気になったのかどうか、さっきからずらし気味だったサングラスを完全に取ると、こめかみを手の甲で拭う。
「いつまでも揉めていても仕方がないわね。どちらにするかをギャンブルで決めるのもおかしな話になるし、競技カルタのルールそのものに照らすのであれば、左腕の手首から咲きが右手になったからといって、それが右手だとは到底、認められるものではないでしょう。けれども」
神内は長台詞を区切り、相手の反応を見た。天瀬の口元が、微かに上向くのが見えたような。
「今回は認めるしかしょうがないじゃないの。私はそちらからの仕掛けを正面から受け止めて、読み切ろうと思ってた。だけど、完全にすかされたわ。特殊能力を使うのをいかにも先送りしたように見せ掛けた前振りもよかったし、札の置き場所もあなたの思惑通りにしてしまった。完敗を認めざるを得ません」
「やった」
喜びの声に続けて、両手を上げる天瀬。万歳をしたのかと思いきや、
「もうこの左手、右手に戻してもいいですよね?」
と、眼をくりくりさせながら了解を求められた。
「ええ、もちろんいいわよ」
神内が承知するや否や、天瀬は左手首から先を本来の形に戻した。それから手首をさすり、左手を何度もひらひらせる。三十秒ほどもそんなことを続けて、やっと安堵の息をつく。
「よかった~。違和感が張り付いてましたが、繰り返しぶんぶん振っていたら、取れたみたいです」
「よかったわね」
あなたには負けるわと、神内もまた深くて長い息を分からぬようについた。
「でも、これで終わりじゃないわよ。忘れちゃいないでしょうけれども、記憶力を試させてもらうわ」
「――はい。けど、もう少しだけ、落ち着かせてください」
最前までの喜色を引っ込めると、天瀬は胸元に左手を当て、今度は言葉の通り、落ち着くための深呼吸を何度か重ねた。それでも力が入ったのか、もう片方の手に持っているサングラスが、わずかに軋んだ。
「このあとも使うんだから、壊さないでよ。柔軟性が高くて復元性もある素材で作ってあるので、滅多なことでは壊れないけれども、だとしても限度はある」
神内は自らのサングラスを外して一度畳んでから、相手に渡した。記憶力を計測するには、カルタの裏面の隠し文字が見えるよう、サングラスを二重に掛ける必要がある。
「復元性、ありますよね、やっぱり。お尻で下敷きにしても大丈夫って感じ」
受け取ったサングラスに対しても、指でテンプルやブリッジの辺りを摘まみ、軽く捻る動作をする天瀬。それはまるで靱性の確認作業のようだった。
「記憶力勝負……じゃなかった、記憶力テストのやり方は? このまま始めても?」
「待って、説明する。まあ、不正の余地が乏しいだろうから、簡単に済むはずよ。あなたの取った札それぞれの裏面に書かれている二〇〇四年の事柄を、早く起きた順に並べる。正しい順に並べることができたら、あなたの勝ちで、最後の運試しに臨んでもらう。負ければカルタ勝負からやり直し。基本的にはこれだけよ」
「また一からカルタをと思うと、ぞっとします。もう特殊能力も行使できないわけだから、勝てる確率は先ほどより低くなりそうだし……ところで、ルールは今ので終わりですか?」
「そんな曖昧な聞き方をしないで、ずばり言ってもらえる?」
「あ、いえ、これがルールの穴だとしたら、使えるかなあと思ったので、言いたくないんですけど」
「穴……何か言い忘れたようね……ああ、分かった。神と人とでは感覚が異なるから、たまに失念してしまうのよ。あなたが言いたいのは制限時間のことかしら」
「はあ、当たりです」
天瀬はさも残念そうに認めた。
「言及がなかったので、記憶に自信がなくて分からない場合は、いつまでも考えてもいいのかなって。もちろん、そんなはずないのは理解しています。理解した上で、敢えてルールを盾にするということ。きしさんの方の勝負との兼ね合いで時間稼ぎが役立つような状況があれば、使えるかもしれないと計算してました」
「あいにくだけどそんな場面はないと思うわ。それに、あまりにも長考するようだと、こちらにも考えがあるわ。たとえば、夢の中での経過時間をそのまま、あなたの実体に影響が及ぶようにするとかね」
「ジッタイ? どの漢字のジッタイでしょう?」
「あなたの実生活における肉体、と言えば分かるわよね。要するに、今はまだ夢の中での時間の流れと、起きているときの実生活での時間の流れとはまったく関係していない。ところがもしこれを結び付けたら、どうなると思う? 夢の中で過ごした時間が、あなたの実人生に加算され、その分、老化が早まるのよ」
「えっ」
反射的にだろう、素早い動作で肌を触る天瀬。一瞬見開かれた目が、じきに緩む。夢の中ではあるが、潤いのある感触にほっとしたらしい。
つづく
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