第367話 昨日と違うおかずがいい

 いやいや! まだなると決まってはいないんだけどさ。母娘の通話の結果を待つ。

「先生、岸先生!」

 唐突に彼女の声に呼ばれた。

「どうなった? やっぱり靴を汚してでも帰るか」

「結論を出す前に、先生、今晩のおかずって何かある?」

「おかず?」

 おかず。本来の意味にない、変なことにまで想像を巡らせないように。文字通り、料理のおかずの話だ。

「晩ご飯のおかずは、出来合の唐揚げとマカロニサラダ辺りを考えていたが」

 カレーをいただいたのでそっちを先に食うよ、と続けて答えるつもりだったのに、天瀬は「それならいいか」と言って、またまた電話に戻った。

「お母さん、聞こえた? あ、聞こえなかった。唐揚げとかマカロニサラダとかあるって。だから続けてカレーってことにはならないから、大丈夫」

 天瀬の返事を聞いていると、どうやら連続してカレーライスを食べる羽目になるのを避けたかったらしい。

 てことはつまり、雨が弱まらないのならこのまま泊まっていくと決めたってことか。ま、まあ、食べ盛りの小学生にとって、毎日の食事の献立は重要だろうけれども。気にするところ、そこ?って言いたくなる。何て言うかもうちょっと、大人な心を持っているもんじゃないのか、小学六年生女子って。

 私の若干の戸惑いなんて知らずに、天瀬は母親とのやり取りを続けている。横顔を見てると、どことなく嬉々としてしゃべっているようにすら映った。これはもしや、お泊まり会のノリになってるんだろうか。

「先生、電話、また代わってだって」

 終わったらしい。私は深呼吸をしてから電話口についた。

「どうなりました?」

「あ、岸先生。当人もその気になっていますから、このまま大雨が降り続けて、水も引かないようでしたら、よろしくお願いできますでしょうか?」

「緊急事態には違いないので泊めることはかまわないんです。ただ、まさかOKになるとは思っていなかったので、深くは考えてなかったんですけど、お嬢さんの着替えとかどうすれば。あと、食事も」

「着替えは、当人がまた同じのを着ると言っていますから、大丈夫です。ああ、でもお風呂は入りたがると思いますので、すみませんがよろしくお願いします。食事の方は、あの子が嫌がってますけど、お渡ししたカレーを」

 細かいところで遠慮してきた季子さん。唐揚げとマカロニサラダの存在を聞いているでしょうに。

「はい。まあ、あり合わせの物を副菜にしてみます。それから念のために確かめておきたいんですが、お嬢さんには食べ物のアレルギー、ありませんよね?」

「はい、それはありません。好き嫌いもほとんどなく、何でも食べます」

「分かりました。それから……天気の判断を何時までとするか、決めておきましょう」

「そうですわね。あんまり夜中になるのも危険でしょうから……午後十時半を目処にするのはいかがですか」

 提案されたのは、思っていたよりは深い時間帯だった。でも問題はない。

「十時半に天気を見て、帰れそうならやはり帰るということですね? 無論、それまでに天気が回復すれば早めにお嬢さんをお戻しする」

「そうですね、それが妥当な気がします。まことにご迷惑をお掛けしますが、うちの娘をよろしくお願いします」

 電話を通して、衣擦れの気配が何となく伝わってきた。深々とお辞儀をする季子さんの姿を、簡単に思い描くことができた。

 私は、イエスの返事をする直前に、ちょっとしたいたずら心が芽生えて、そのまま実行した。

「分かりました、お母さん。お嬢さんのこと、美穂さんのことは私に任せてください。責任を持って――お預かりします」

 結婚すると正式に決めて、挨拶をするために天瀬家に出向いたときの口上を思い出しながら言ったものだ。当然、細かい点で違っているし、最後の「お預かりします」に至っては、まったく別の言葉だったのは言うまでもない。

 繰り返しになるが、ほんのいたずら心のつもりだった。でも先方には、だいぶ違和感を感じさせてしまったらしい。というのも、反応の声がすぐには聞こえてこないのだ。

 あっ、一人称に「私」を使うことは、岸先生はあまりないみたいなんだよな。その辺りからして、変だなと思わせてしまったのかも。

「えーと、天瀬さん?」

 くだらないいたずら心を起こしたことを猛省しつつ、呼び掛ける。

「ああ、先生。すみません、キャッチが入ったので」

 何だ、怪訝に思われていたんじゃなかったのか。よかった。

 このタイミングで掛かってくる電話となると、もしかしたら旦那さんからかもしれない。全国ニュースでこの一帯の急激な豪雨と増水を知れば、そりゃあ心配にもなるだろう。

「それでしたらどうぞ出てください。僕の方はこのまま切ります。何かあればまた電話でお願いします」

 そうして季子さんとの通話を終えてから、天瀬にもう一度電話を渡した方がよかったのかな?と遅ればせながら気付いた。

 振り返って彼女の様子を探ると、でも余計な心配だったらしいと分かる。

「あ、終わった? 先生、結局どうなったの? 雨の音が気になって、お母さんの声は全然聞こえなかった」

「普通はほとんど聞こえないよ。聞こえる方が怖い」

 片方の受け答えだけ聞いて、会話全体の内容を想像するものだろうに、こんなこと言い出すなんて。天瀬って耳が凄くいいのかな? 気を付けないと。


 つづく

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