第366話 たった一つとは違うけど冴えたやり方
続けて天瀬の母――季子さんが話す。
「娘がお邪魔して、その上、足止めされることになってしまいまして」
意外とうろたえた口調に聞こえる。私は電話にもかかわらず、思わず首を左右に振った。
「とんでもない! 僕こそ申し訳ない。美穂さんを早く帰らせていれば、こんな事態には陥らなかったのに。あ、カレーをありがとうございます」
「あ、いえ、あれは本当に作りすぎてしまっただけですから。それよりももっと早くお電話するべきでしたか? いきなりの大雨でしょう、美穂がもう先生のお宅を出たのか、それともまだとどまっているのかが分からないものですから、電話を掛けていいものかどうか、迷ってしまい――」
「お母さん、もうそのことは大丈夫。気にしていませんし、無事、話ができているんだから。僕が心配なのは、どうやって美穂さんを帰そうかということなんです」
「ええ、そうでしたわ」
「最前、漏れ聞こえた話からの想像になりますが、天瀬さんはお車で迎えに来られるつもりでした?」
「はい。ただ……冠水が気になりますけど、うちから岸先生のアパートまでの近い距離なら、問題の起こる可能性は低いんじゃないかしらとも思えて、判断しかねています」
「気象庁の注意は聞いておいた方が無難だと思います。雨が弱まった頃合いを見計らって、僕が付き添って送り届けるというのはどうでしょうか。足元、びしょ濡れになるかもしれませんが」
「え、やだ!」
後ろから天瀬の声が飛んできて、受話器を当てていない方の耳に突き刺さる。通話内容をしっかり把握しているようだ。
「何が嫌なんだい?」
季子さんにも聞こえるよう、受話器を顔から遠ざけただけで、天瀬に尋ねてみる。天瀬は意志の強さを表明するかのように、ぶるぶるとかぶりを振って、
「ぜーったいに嫌。今日履いてきた靴、お気に入りなんだもの」
そんなお気に入りをこんな大雨の日に履いてくるなよ、と思いかけたが、今の大荒れの天気は予報にはなかったハプニングだ。天瀬を注意するのはお門違いも甚だしい。
「しょうがないな。先生の靴、引っ掛けていくか?」
「うーんんん? それもちょっと……」
嫌なのかよっ。岸先生になついてるんじゃないのか。まあ、いくら好感度を高く持っていたとしても、譲れない一線てのはあって不思議じゃない。
「それにほら、雨の方は全然弱まらないよ。どちらかって言うと強くなったかも」
窓の方を一瞥する天瀬。よく見えないが、雨音は確かにさっきよりも大きくなったように聞こえる。気のせいか、流れる水の音も同様に大きくなっているかも。
私はちょうどテレビに映った気象図を見た。雨雲の流れがよくない。今後も数時間は集中的な豪雨となるのは明らかだ。
「――どうしましょう」
季子さんとの通話に戻る。
「雨が激しくなっている上、しばらくこのままみたいです。お帰しするのが遅くなって申し訳ないのと、百パーセントの安全を確保すべきだという気持ちがぶつかって、僕も決めかねているのが正直なところです」
「あの、100パーセントの安全と言われるんでしたら、一つ手立てがあるのは分かっているのですが」
「ええっと? 100パーセント、ですか」
何だろう。思い付かない。警察か消防に送ってもらう、とかかな? 大荒れの天気とは言え激甚災害にほど遠い現時点で、そんなこと頼んでも引き受けてくれるとは到底思えないが。
「先生にはご迷惑な話になりますけれども、美穂を預かっていただくという方法が……」
「……あ、そういうことでしたか」
今夜の帰宅をあきらめてもらおうなんていう選択肢は、まったくなかったな。盲点だった。
って、本当にそれ、ありだと思って言っていますか、お義母さん?
「えっと。今後、天気がどうなるか、溢れた水がどうなるかにもよるんでしょうが、とりあえず娘さんの考えを聞いておきます?」
担任教師としてはどうするのが正解なのか分からないが、天瀬本人の意思を確認しないと話は進むまい。背後にいる天瀬の様子を気にしながら、声を潜めて季子さんに聞いた。
「そうですね。岸先生にご迷惑でないのでしたら、万が一を考えて、今の内に確かめておきませんと。本人と代わっていただけます? あ、それとも先生の口から?」
「あ、いや、お母さんの方からお願いします。僕が言うと、教師が児童に命じていると受け取られる可能性、なきにしもあらずでしょう」
天瀬を呼び、再び電話を交代する。私がそばにいると返事のイエスノーに影響を与えるかもしれないので、一番音を遮断できる風呂場に入って浴槽掃除でもしようかと思った……けれども、客観的に見れば変な風に受け取られかねないと気付き、風呂場に向かうことなくやめた。
結局、電話からはあまり離れられないが、キッチンに立ち、コーヒーの残りを飲むことにした。
真面目な話、大人の天瀬を思い出して、泊まっていった日のことが脳裏に甦ってくる。たった三ヶ月ほど離れているだけなのに懐かしい、早く戻りたいという気持ちが一層強まる。
その体験よりも十五年ほど前の“今”、天瀬の年齢が全然違うし、そして私の見た目が貴志道郎ではないが、婚約者と一晩、一つ屋根の下で過ごすことになろうとは。
つづく
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