第357話 天使に見間違えたりもする
「それで話が名刺につながってくるのだけど」
やっとか。催促せずに待っていた甲斐があったかな。
「名刺の連絡先に電話して、こういう人がいるんですけどどうですかって紹介してみたらいいんじゃないかなーって思ったの」
「ううん? 紹介とは誰を」
「当然、刑事さんのお嬢さんよ。やだな、岸先生。話、聞いてくれてなかったの?」
ぷ、と頬を膨らませてくる天瀬。かわいい……と小さな感激を味わっている場合ではなくって。
「陣内刑事のお嬢さんを、杉野倉さんに紹介してどうしようって言うんだい?」
「だからー、私の代わりに、お嬢さんをスカウトしてもらえたらちょうどいいなってこと」
えーと。
話が噛み合っているような噛み合ってないような。元々、私は郵便受けに入れられた杉野倉の名刺を、天瀬母娘が見たに違いないという前提で会話を進めていたのだが、どうもおかしい。
紹介したいのなら、その名刺を見ればとりあえず目的は果たせるだろうに、そうせずに、うちに来たってことは、天瀬母娘は、いや少なくとも天瀬は郵便受けの名刺の存在を知らない?
……ま、落ち着いて考えてみれば、そんなに不思議がることでもないか。夕方ぐらいに帰ってきて郵便受けを覗くかどうかは、習慣化されているかどうかに掛かってくる訳で、天瀬家がそうではないというだけなら知らなくても当然だ。あるいは、母親の季子さんは郵便受けを見て名刺に気付いたが、娘には黙っているという可能性もある。以前、話をしたときのやり取りを思い起こすに、娘が芸能界にチャレンジすることを絶対に禁じる、というがちがちな硬さは感じられず、一方で、娘の見た目が評価されたのを喜んでいた節があった。だからいずれ名刺のことを娘に伝えるつもりだが、今現在は伏せておくことにした、といった線が一番ありそうな気がした。
こっちの認識がようやく正しい形に整ったところで、改めて聞く。
「私が言うのも変かもしれないが、芸能事務所のスカウトの人が欲しがっているのは天瀬さん、君であって、それ以外の女の子はとりあえずごめんなさいされるんじゃないか」
「え、先生。私ってそんな特別? 嬉しいけど、柄じゃないよ」
きらきらと輝くような表情を見せた天瀬。だけどすぐに元通りに。一瞬だけ天使の羽が生えたのに、ほんの数秒で人間に戻ってしまった――そんな構図を何故かしら思い描いた。自分自身も芸能界だのタレント活動だのに興味があるだろうに、それを抑えて他人にチャンスを譲ろうとする天瀬美穂という女の子が、今の歳を食った私には眩しすぎたのかもしれない。
後先考えず、特別だよとこの場で答えることができるのなら、どんなにいいか。詮無きやり取りを脳裏に思い描いて、短い時間を費やした。そして穏当な表現に変えて、応える。
「一人一人、異なった個性の持ち主だという意味で特別だよ。天瀬さんにタレントの才能があるかどうか、先生には分からないし、刑事さんの娘さんにも会ったことがないから何とも言えない。ただ、杉野倉さんの事務所が関心を持っているのは、天瀬さんだろうと思う」
「そうかもしれないけれども、それを言ったら、あの杉野倉って人だって刑事さんの娘さんにはまだ会ってないわ」
そう来たか。一本取られた。いや、技あり程度かな。
「会えば心変わりするって?」
「するかもしれない。何と言ったって、刑事さんの娘さんと私とは雰囲気が似ている、でしょ?」
あ――。そういう理屈だったのか。陣内刑事が一時の気の迷いから天瀬に何らかの危害を加える恐れが生じたのは、二人の雰囲気がよく似ているからというのがそもそもの出発点。天瀬自身にこのことを話した覚えはないけれども、回り回って伝わったか、あるいはお見舞いに行った折に、陣内刑事の口から似ている云々の話が出たのかもしれない。
「実際に会ってみて、そっくりとは言わないけれども、中学二年生になった私ってこんな感じかもって思えたわ」
そうか、当事者同士、顔合わせも済んでいるんだっけ。その上で刑事さんの娘さんと似ていると天瀬自身が感じたのなら、自分の代わりに推薦してみようと言い出したのもうなずけなくはない。
それに……よくよく考えてみれば、私にとってもこれはよい流れと言えるのではなかろうか。杉野倉は体調不良を押してまで足を運んで来た。上司命令もあるんだろうが、スカウトの誘いに天瀬が首を縦に振るよう、執念を燃やしていると言える。手をこまねいて見ているだけだと、天瀬は本当に芸能界入りしてしまうかもしれない。再三触れてきたことだが、私と天瀬との将来が大きく変わりかねないルートは、私としては絶対に避けたい。避けねばならないんだ。
そこで、陣内刑事さんの娘さんを杉野倉に引き合わせて、うまく事が運んだらどうか。天瀬のことはあきらめてくれるんじゃないか。
警察の家族が芸能活動するという関門もクリアする必要があるけれども、今の陣内刑事なら愛する娘の希望はなるべく叶えてあげたいという心情になっているんじゃないかな。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます