第356話 シャイ違い

「こぼれるかもしれないから」

 意味不明な答に首を捻らされた。

「何? 分かるように説明してくれないかな」

「もう開けていいわよ~、先生」

 問い掛けへの直接の返事はなく、代わりにそう言われた。ゆっくりドアを開けると、天瀬が少し離れた位置で、両手に鍋を持って立っていた。

「何だ、一人か?」

「そうだよ。これ、お裾分け。夏場なのに作りすぎてしまったってお母さんが」

 鼻をくん、とひくつかせると一発で分かった。

「カレー?」

「うん。冷蔵庫に入れれば大丈夫なんだけど、今、うちの冷蔵庫はいっぱいで鍋を入れるスペースがない感じ。だから先生に食べてもらいましょうって。それともいらないですか?」

「いや、いただくよ。ありがとう」

 天瀬自身が作ったのではないだろうけど、彼女が持って来てくれたというだけで、凄く価値が上がる気がする。

「お母さんが一緒じゃないってことは、ここまで歩いて来たのか。大変だったろ」

「そうそう。感謝して、味わって食べてね、先生」

「さっきのこぼれるとか何とかってのは?」

「ドアの穴から見えない位置に立って、びっくりさせようと思ったの。そうするためには鍋も見えないところに置かなければいけないから、ドアにぴたっとくっつける感じで置いてた」

「……」

 やはり小学生だなあと感じ入る。

「見えなかったでしょ? あ、もしかして見えてて、ばればれだったとか。だとしたらすっごく恥ずかしいな」

「大丈夫。ちゃんと見えなかった」

 笑いを堪え、鍋を受け取った。赤い色をした小ぶりな鍋だったが、案外重みを感じる。ほんと、よく持ってこられたものだ。

 玄関を入ってすぐの下駄箱上の空きスペースに鍋を置いてから、私は面談のことを話題にすべきか、考えた。今堅苦しい調子で言うと、カレーが“賄賂”にならないよう、返さなくてはいけなくなるかも。それよりも警部補の娘さんのために見舞いに行ってくれたことを言うべきか。いやいや、死神について詳しく聞くのが最優先じゃないか。ただ、天瀬に嫌な夢を思い出させるのは本意ではない。ここはまず、少し前にお家の方に行ったんだが留守だったね、ぐらいから始めるのが適切か……。

 と、私が逡巡する内に、天瀬の方から別の話題を持ち出した。

「ところでなんだけど先生。あの名刺、まだ持っている?」

「名刺……」

 普段ならいきなり「名刺」と言われても、何のことだか見当が付くまで時間が掛かっただろう。だが杉野倉とやり取りしてまだ間がないため、すぐにぴんと来た。

「芸能事務所の人の名刺なら、保管してあるが」

 彼女の家の郵便受けに杉野倉が名刺を入れたはずだが、それを見て、確認に来たのかな? 二枚の名刺を見比べることで、留守中に名刺を置いて行った人物と、修学旅行のときに会ったあの男とが同一人かどうかの判断ができる。

「それ、見せてくれませんか?」

「今かい? いいけど見せる前に理由を聞かせてくれないか」

 杉野倉から再度のアプローチがあったことを、担任教師たる私に正直に打ち明けるかどうか、ちょっとしたテストのつもりである。

 すると天瀬は、危惧した通り、全然関係ないところから切り出した。

「実は今日の午前中、刑事さんのお嬢さんのお見舞いに行って来たんだけれども」

「ああ――聞いたよ。他の刑事さんから連絡があって、謝意を伝えて欲しいって」

 どういう切り口にするつもりなのか先を見通せないが、話を合わせることにする。

「シャイ?」

 小首を傾げる天瀬。その仕種のかわいらしさに思わず微笑ましくなると同時に、十五年後の彼女の面影を見るようで懐かしさにも駆られる。私は穏やかに、気軽に訂正した。

「感謝の意の方の謝意な。それで? 見舞いに行ったことが関係してくるの?」

「もっちろん。刑事さんのお嬢さんはタレントに憧れてるんだって」

「え、何?」

 話の脈絡が掴めない。私の当惑顔がおかしかったのか、天瀬の笑い声が下から聞こえてくる。

「誰か憧れのタレントがいるってことかな」

「ううん、違う。話した通りだよ、先生。刑事さんのお嬢さんは将来、タレントになりたいって」

「へえ? タレントって芸能人のことだよな。刑事さんが許さないんじゃあ……」

 こちらがした質問とは、依然として話の根幹が甚だしくずれているところが気になったが、そこはさておくとして。刑事の子供がタレント志望というのは、教師としてちょっと興味あるな。どういう心理状態でそのような望みを持つようになるのか、今後の参考にしたいくらいだ。

 ただ、冷静に判断して、親の立場からすれば絶対に認めたくないんじゃないかしらん。もし親が刑事と公に知られたら、その子供であるタレントは親が捕まえた犯罪者からお礼参り・逆恨みのターゲットにされる恐れが強いんじゃないかと思ってしまう。がっちり護衛できるのなら話は違ってくるだろうけれども、常時ガードマンを付ける訳には金銭的にも簡単ではあるまい。何にせよ、特別扱いしてもらえる保証がない限り、親御さんが難色を示すのは必定だろう。


 つづく



※実際に警察関係者の家族を持つこと公に知られている芸能人・有名人の方はおられるようですが、その方々が殊更に犯罪に巻き込まれてきたという話は聞きません。

 今回のエピソードでの当該箇所は、あくまでも1登場人物による独自の見解または想像ということでよろしくお願いします。

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