第290話 すれ違ったはずが
ハンカチは床に着く前に空調の風に乗って、ちょうど堂園のいる方へ流されてきた。おかげでタイミングよく、床に着く寸前にキャッチ成功。
「あの!」
立ち止まってハンカチを持った右手を挙げて振りながら、左手を口元に当ててメガホン代わりにした。
しかし、当の女子は自分のこととは気付いていないのか、あるいはそもそも聞こえていないのか、振り向きも立ち止まりもせずに、ゆっくりとだが遠ざかっていく。
「あれ? えーっと」
追い掛けて怖がられては困る。堂園はハンカチの特徴を確かめてからそのことを声にして伝えようと思った。右手を戻して握っていたハンカチに目を凝らす。白い布の片隅に、赤い糸で刺繍があった。かくかくした固いアルファベットだが、丁寧に縫ってある。名前のようだが、往来で叫ぶのも憚られる。結局、「刺繍の入ったハンカチ、落としたみたいだよ!」と叫ぶにとどまる。
それでもようやく相手には伝わった。振り返った彼女は、堂園が手に持って振るハンカチに気付いた様子で、きびすを返すと一直線に駆けてきた。堂園が最初に見掛けたときは気付かなかったが、胸元には大ぶりな丸くて黒っぽいペンダントトップがあって、小さく揺れている。。
「ご、ごめんなさい。私の物……みたいです」
目の前まで来るとハンカチに目線をやって、そう言った。
「えっと『くもんじかおるこ』さん?」
刺繍にあったローマ字を抑えめのボリュームで読み上げた堂園。確認のためだ、これくらいは許されるだろう。
「え、ええ。下手な刺繍で恥ずかしい……」
少し伏し目がちになると同時に、その目元に赤が差す。よくよく見ると、目そのものもちょっぴり充血しているようだ。
(プラネタリウムを観たあとなんだろうけど、居眠りしていたって感じじゃないよなあ。泣くほど感動したってか? ハンカチは涙を拭うのに使った、とか)
堂園はまるで刑事か探偵みたいに想像を働かせた。「じゃあ、これ」とハンカチを渡しながら、このままここで縁が切れるのは惜しい気がした。いやでも、自分は引っ越すんだし……。
「ありがとう、拾ってくれて」
「あの、プラネタリウムを観てた?」
どう考えても唐突なつなぎ方だったが、会話を続ける糸口を他に思い付かなかったのでやむを得ない。
「は、はい。観てた」
「僕も。感動したけど、泣くほどのことかなって思って、びっくりした」
堂園は渡したばかりのハンカチに視線を落とし、さらに相手の目を見やった。
「あ、これ? これは違います」
自らの目元を指差してから、彼女は顎先を小さく左右に振った。
「友達が大変な目に遭ったあとなのに、自分はこんな楽しんでいていいのかなと考えてたら、自然と」
「大変な目?」
「あっ」
話すつもりがなかったのにうっかり口を滑らせてしまった。そんな風に、口を手のひらで覆う。
「あなたは富谷第一小学校ではないですよね?」
「うん。あ、富谷第一って、テレビでやってた」
ぴんと来た堂園。想像を巡らせる。
(誘拐事件があったって言っていた。この子は富谷第一小の子で、友達っていうのが誘拐されてた子?)
「どこまでしゃべっていいのかな……」
迷っている様子の相手を見て、
「だいたい分かった、と思う。誘拐のことに関係してる?」
「そう」
「だったら無理して言わなくていいや。無事でよかったね」
「うん……」
「交流行事がなくなったって聞いたけど、またできるといいな」
「あれ? あなた、じゃあもしかして」
小学校の名前を挙げる女の子。堂園は「一学期までは。九月から転校するんだ」と答える。それから天瀬と長谷井のことが頭に浮かんだ。
「ひょっとしたら、君も――えっと、くもんじさんは交流行事に出る予定だった人?」
「はい。今日行われるはずがなくなって、先生がお詫びにって、科学館のプラネタリウムの鑑賞券をくれて。有効期限はまだあるんだけど、いつまでも持っていると事件のこと思い出しそうだから、早く使ってしまおうと」
「はあー、偶然! 僕は違うんだけど、一緒に来た友達が交流行事に出る予定だったんだ。学校から鑑賞券はもらってないけど、暇になったからここに来てみたってわけ」
「そんなことに」
何だかんだで会話がつながり、堂園はまだ自分が名乗っていないことに気付いた。だから言おうとしたが、その直後に。
「あ、いた」
「遅くなって悪い、堂園」
プラネタリウムのある方角から、今話題にしたばかりの友達二人がやって来た。声に振り向くと、天瀬と長谷井の二人だけでなく、さらに知っている顔が二つあって、ぎょっとなる。
「岸先生。吉見先生もいる。何で?」
「たまたまだよ。予定にぽっかり穴があくと、やることはだいたい同じだっていう証拠だな」
岸先生はそう応じつつ、堂園の前に立つ女の子に目を留めたようだ。ただ、実際に聞いてきたのは吉見先生の方。
「そちらの子は堂園君の友達? うちの児童じゃないみたい……違ってたらごめんなさいね」
予防線を張りつつも、自信ありげな口調の発言。自信があるからこそ言えるのだろう。
つづく
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