第283話 持っているものと勘違い
「おはようございます。ニュース見ました?」
吉見先生は朝の挨拶の次に、いきなり事件の話題を持ち出して来た。
「もちろん。あの件ですね、富谷第一小の子の」
「そうですそうです。こんなことってあるんですね。びっくりしてしまって、怖くなって。身勝手ですけど、せめてうちの学校では起きて欲しくない」
「どこであろうとまったく起きない方がいいに決まってますけどね。事件は解決したんだし、当面、心配はいらないでしょう。それで何か?」
「え?」
何度か大きな瞬きをしてきょとんとする吉見先生。
「誘拐の報道を見て怖くなったから、話し相手が欲しくなった、とかではないでしょ?」
「あ、そうでした。お時間があればの話になりますが、岸先生、今日はドライブに行きません?」
「――それは連城先生もお誘いしてですか」
打ち上げのときの会話を思い起こして聞いた。
「電話でお誘いしたんですけれども、家族サービスに努めることに急遽決まったので無理だと。残念です」
残念と口では言っているけれど、どうなんだろう? 家族持ちの連城先生には電話で、独り暮らしかつ独り身の私のところには直接来た。ということは……これってやっぱり、吉見先生は岸先生に好意を抱くようになったってことなのかな?
以前からそんな傾向があったのなら、岸先生だって好むと好まざるとに関係なく意識するだろうから、あの“もやもやデータ”にきっと記録が付いたはず。実際にはそんな印らしきものはない。ならばこれもまた過去の改変?
いや。決め付けるのは早計だ。あくまでも五月上旬までの岸先生の意識には、吉見先生が異性関係の相手として入っていなかった、あるいは順位が下の方だったというだけである。私がこうして岸先生の身体を借りて振る舞うことなく、本来の岸先生が歩んだルートにおいても、吉見先生から好意を抱かれるようになっていたかもしれないじゃないか。
「どうでしょう、先生? 無理でしたら遠慮なく、きっぱりと言ってください。他に用事があるとか忙しいとか、女の人と二人きりは困るとか、理由までは言わなくていいですけどね」
「いえ。大丈夫です」
過去の改変には当たらないかもしれない。むしろここで断ることこそが、過去の改変につながる恐れもはらんでいる。だから私は承知することにしてみた。
あ、断っておくが、心変わりしたとかこちらの時代に来てから“ご無沙汰”しているから浮気したくなったといった気持ちは一切ない。ただ、吉見先生が一緒にいて楽しい異性であることは認めるけれども。
「先生が今言った理由は、どれも当てはまりませんから。ただ、小学校の子達に目撃されるのは、できれば避けた方がよいかも」
「――そうかもしれませんね。では、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。えっと、とりあえず着替えてきますね。たいして変わらないと思いますけど、一応、免許証も持っておくべきでしょうし」
私はきびすを返し、自分の部屋に一端戻った。
どんな格好をすればいいのかは迷ったが、ワイシャツにズボンにした。先ほど触れたように、子供達に見られた場合を考えると、教師としての仕事の一環なんだと言い逃れできる姿でいた方がよかろう。ネクタイはしなかったが、巻き取るように畳んでポケットに押し込んでおく。……大人の悪知恵だな。子供の頃の天瀬にもし見られたとしたら、恥ずかしくて逃げ出したくなるかもしれない。
髪を水で濡らしてそれなりに格好が付くよう整えていると、結構長くなっているなと実感した。この時代に来ておよそ二ヶ月半。散髪はまだしていない。岸先生行きつけの床屋さんがあるのだろうか、あるとしたら、そこは避ける方が賢明かな。床屋のおやじさんから話し掛けられても常連客としての返しができないのはまずい。
些末なことを気に掛けつつ、準備完了。免許証を入れた財布を持って、部屋を出た。吉見先生は車の運転席にいて、冷房を掛けて待っていた。
「お待たせしました」
運転席側の外から声を掛けると、窓を下ろして返事が来る。
「いえ。先に伺っておきますけど、岸先生も運転してみます?」
「どうしましょうか。他人様の車を動かすときは、頭に超の字が付く安全運転になると思いますが、それでもよければ」
私は正直な気持ちを答えた。だけれども吉見先生はくすっと笑った。
「何かおかしなことを言いましたっけ?」
「いえいえ、おかしなことではないのかもしれませんが。とにかく、助手席へどうぞ」
理由をすぐには教えてもらえないまま、助手席側に回って、ドアを開ける。ひんやりとした空気が心地よい。座ってシートベルトをしていると、会話の続きになった。
「やっぱりちょっと変ですわ、岸先生。それともご自身の車を手に入れたんですか」
「うん? いいえ」
「だったら、ねえ。国語の授業では気を付けてください。『他人様の車を動かすときは』なんていう台詞は、自分か同居する家族のどちらかが車を持っている人でないと、据わりの悪い表現になるんじゃないかしら」
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます