第191話 急に来たのは違う理由

 水泳授業が始まった。

 合同体育の時間は全て水泳に置き換えられる。六年生全クラスが一度に受けるわけだ。この学校では水泳授業が初めての私でも、他の先生の様子を見ていればさほど不自然な振る舞いにはならないだろう。

「こらっ。プールサイドをそんなに走るな!」

 連城先生の怒鳴り声に、男子何名かが急ブレーキを掛けて停まる。かえって危ない。足下がまだ濡れていないからいいようなものの。

 教師は泳ぎ方を指導するだけでなく、安全のため監視員の役割も果たさなければならない。高学年ともなると泳げる子と泳げない子がはっきりしてくるし、割合も泳げない子は少数派になるので指導自体は楽と言えるかもしれない。あくまで、低学年と比較してだが。

 安全管理についてもやはり低学年よりは安心できるだろうが、気を抜いてはいけない。プールサイドの転倒事故、中でも頭部強打などは高学年の方が身長がある分、怪我が重くなりがちとも聞く。プール内の事故についても、飛び込みなどでプールの底に頭を強打し、大きな怪我を負うのは高学年の方が多い。私が以前見た年度の資料がそうだったというだけで、長期に渡った統計では一概には言えないのかもしれないが、とにかく高学年だからと言って油断できないのは確かだ。

 それから先に記した飛び込みについてだけど、私が教師になった時点では、小学校における水泳の指導で飛び込みは禁止。水に入ってからのスタートが当たり前になっていた。ところが二〇〇四年の時点では、まだ飛び込みもありだったことを、前日に指導要領を見返していて気付いたよ。これもちゃんと頭に入れておかないと。

 そうして心構えはできていたんだが、いざ始まってみると、全体を見渡していたはずの視線は、いつの間にか天瀬を探しているというていたらく。

 いやもちろん見付けたあと、彼女をじーっと凝視し続けているわけではない。飛び込みのフォームは危なくないか、泳ぎは基本に沿っているか、手足はぴんと伸びているか、息継ぎにおかしなところはないか等をチェックし終えると、視線を外して次に移る。問題があるとすれば、他の子供に目をやったあと、その次の子供にではなく、再び天瀬の姿を探してしまいがちだってことだろう。一クラス三十六人に対してこの割合で注意を払うとしたら、天瀬とそれ以外の児童一人との比率が35:1になる。さすがに許されないな、こりゃ。

 ということで目を逸らそうと意識する。意識すればするほど気になるというやつで、元の木阿弥。気付けば彼女を折っているの繰り返し無限ループ。

 弁明しておくと、いくら水着姿であろうと小学生の天瀬には特に何も感じない。くびれはあっても中途半端。胸も同様だ。長い黒髪を水泳帽の中に仕舞わざるを得ないのも、個人的には魅力半減。

 最初こそ、これが小学六年生、スク水姿の天瀬か……と感慨を覚えたものの、その感慨が去ると、あとはその無防備な様が気になってきた。男子の中でもませた連中がちらちら見てるんじゃないかと心配で、それ故に天瀬を目で追っている。

 今は自由時間に入り、ほぼ全員がプールで追いかけっこをしたり、息止め競争をしたりと遊んでいる。天瀬は男女数名と一緒になって、どうやら水中じゃんけん、いや、あっち向いてほいをやっている。長谷井もいるが、まあ健全に遊んでいる内は口を挟むまい。プールサイドのネット際で体育座りをしていた私は、腕を組み直した。

 ん……?

 天瀬が友達の輪から離れて泳ぎ出したぞと思ったら、こっちに向かっているような。見る間にプールサイドまで来て、両手をついて上がってきた。今や私の視界の中央にいる。水を滴らせながら、やや大股で向かってくる……ということはじっと見ていたことに気付かれたか?

 やばいかもしれぬと目だけでなく顔ごと、いや身体ごと背けたが、その直後、天瀬の声が聞こえた。

「先生、何見てたの? 私達のいる方ばっかり向いてたみたいだった」

 むぅ、やっぱり気付かれていた。ならばしょうがない。

「我がクラスの副委員長の様子を見ていた。男性恐怖症にはならずに済んだのかなと思ってな」

 用意していた理由付けの一つを口にした。途端に天瀬は呆れたように嘆息した。

「はぁ~。嫌だわ、もう。あれは冗談半分で言ったんだよ」

「そうだったな。だから残りの半分が気になったんだ。それに見ていた理由はもう一つある」

「え?」

「雪島さんがこの水泳授業をチャンスだと思って、君に攻撃を仕掛けてくるかもしれない」

「はい? 雪島さんがってことは、ここで靴下脱がしレスリングの続きをやろうって? まっさか~」

 ころころ笑う天瀬。私は真剣な表情を敢えて崩さずに続けた。

「いや、分からんぞ。ないとは思うが気を付けるに越したことはない。いきなりタックルを受けて溺れたら洒落にならない。そういう事故を防ぐのも僕らの役目だから」

 我ながら強引な理屈だが、天瀬は感心してくれたようだ。

「ふうん。ありがとね、先生。ただ、雪島さんは今、プールから出てるみたいですけど」

 知っている。雪島の動向に念のため注意を払っていたのは事実なのだ。

「それで? 天瀬さんが僕のところに来たのは、じっと見られてるみたいで気持ち悪いからやめてほしいと抗議しに来たのかな」

「あ、違うの。それはついで。急に思い出しちゃったから」


 つづく

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