第192話 少なくとも夫婦ごっことは違う
言いながら天瀬は私の後ろに回り、羽織っていたパーカーに手を掛けた。
「何?」
「上着、脱いで。ほら、『あなた、お疲れ様。今すぐお風呂になさいます?』って感じで」
「――やめなさい」
何のごっこ遊びか知らないが、一瞬ぞくぞくっとした。将来、彼女と家庭内でこんなやり取りをするのかなと想像すると、変にくすぐったい。
「何の真似だい?」
私は立ち上がって、パーカーを羽織り直した。この頃には、先ほどまで天瀬と一緒に遊んでいた面々もぞろぞろ集まってきている。
「ほら、前に言ったじゃない。右肩の傷を見せてくれる話。今がちょうどいいチャンス」
「そういえば」
約束と呼べるほど大げさではないが、確かに口にしていた。完治したとは言っても傷跡は残っているので、今の天瀬に見せていいものか多少躊躇を覚える。事件の記憶をいたずらに刺激するのは、まだ避けた方がいい段階じゃないのかな。
そんな風に気を遣う言葉を掛けるつもりでいたのだが、声にする前に、誰か――恐らく男子の誰かに背後からパーカーを引っ張られてしまった。
「あ、おいこら」
振り返ると思った通り、砂田ら男子三人が逃げていく。
「とりあえず、走るなよ!」
私はパーカーを戻そうとしながら声を張った。水色のパーカーは全部は脱げ落ちなかったものの、手首まで下がっており、これではまるで後ろ手に拘束されているかのようだ。
うっかり後ろを振り返ったせいで、天瀬にも傷は見えてしまっただろう。やむを得ない。私はパーカーをしっかり羽織り直してからきびすを返して元の方を向いた。
「天瀬さ――ど、どうした?」
振り返った先には、天瀬がお祈りするときみたいに両手を組み合わせ、こっちを見上げている。何だか知らないが、瞳がうるうるしているぞ。
「お、思ってたよりは軽そうでよかった」
私が声を掛けてから約三秒は経っていた。遅れ気味の反応を見せた天瀬は、拝み合わせていた手をほどき、首を水平方向に振った。
「えへへ、安心しちゃった」
と笑って言いながら、指先で目尻を拭う。左、右と順番に。ちょっと、いやかなりぐっとくる仕種だった。
「おいおい、前から言ってただろ。たいした怪我じゃないって」
抱きしめたくなる感情を抑え込んで、私は淡々と言ってみせた。
周囲では、集まっていた子供らが意味を知っているのか怪しいアクセントで、「あれがメーヨのフショーか」と呟いたり、「ブラックジャックみたい」と何で君らの世代が知っているんだと問いたくなるようなたとえをしたりと、ざわついている。それらはスルーできたけれども。
定説の通り、女子達の方がませているのか、「だめだよー、副委員長を泣かせちゃ」とか「いけないんだー、せ-んせいっ」、果ては「校長先生に言い付けようかなぁ」なんて言われると、心中穏やかでいられなくなる。
「あのな、おまえら分かっていて言ってるだろっ? 大人をからかうのもいい加減に――」
声のボリュームをちょっと上げただけで、みんな「わーっ」と散ってしまった。
って、天瀬一人だけ残ってるし……まだ完全には泣き止んでいないし……。
「思い出して怖くなった?」
心配になってきた。周りから注目されているようで気になるものの、率直に尋ねてみた。
「ううん」
ややうつむき加減のまま、首を振る天瀬。それから面を起こすと近付いてきて、私との距離はほとんどなくなった。
「今さらだけどほんとにありがとう、岸先生。私のために」
「またそれかい。いいよ、もう」
まさしく今さら、何度目だと言いたい反面、感謝されるのは悪い気はしない。当たり前だ。それよりもこの距離の詰め方が気になって仕方がない。
「ね、もう一回見せて、先生」
「怪我の痕を? 君がもう泣かないのであればかまわないけど」
天瀬がすぐさま「泣かない」と約束したので、しょうがない。再びパーカーを脱いで、見せることにした。手にパーカーを持って、彼女に背を向ける。
「あ、しゃがんでください」
「こうか?」
プールサイドはブロック敷き(と言うのかね、あれは?)で、たまにごく小さな石粒が転がっている。痛くないよう、慎重に位置を決めて膝をついた。
と、ほとんど同時に何かが右肩に当たる。天瀬の手だった。
「ふうん……かさぶたみたいに剥がれる感じじゃないんだ?」
「あ、当たり前だ。剥がそうとするなよ?」
我ながら焦った口調で頼んだ。ちょうど天瀬の指が、傷跡をなぞったのだ。ほんの少し、びくっとしてしまった。まあ、傷跡に触れるくらいなら完全に克服したと見ていいのかな。
「先生、私、ちょっと試したいことがあるから動かないでね」
「うん? ああ、いいよ」
何かいたずらをされる可能性を頭の片隅に置きつつ、承知した。緊張で身体に力が入る。
そこへ天瀬がごそごそ何かし出したので、なおのこと警戒心が高まる。
「何だ?」
「動かないで。前を向いてて」
肩越しにちらと見えた彼女は水泳帽を脱いでいた。そして長めの髪を後ろに手で梳き流しているところだった。
次に、背中に髪の毛が当たったのかなと言う感触があって、続いて天瀬が身をぴたっと寄せてきた。
「天瀬、さん?」
つづく
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