第185話 違う過去を見たかった

 店内の雰囲気や客層に加え、西崎さんの選んだお酒がグラスワイン。さらに、店の人と顔馴染みの様子。私の脳裏にはある状況が思い描かれた。

「西崎さん。もしかすると、何かの思い出があって、このお店に来られたのでは?」

「ほほう。さすが学校の先生は聡いですね」

 あっさり認め、表情をほころばせる。

「とにもかくにも、料理を注文しちゃいましょう」

 彼はビーフがメインディッシュの簡略化されたコース料理を選んだ。私も同じ物にしてもらった。値段は見ないことにする。

「このお店は、妻との思い出の場所なんですよ」

 オーダーを取った店員が遠ざかると、西崎さんは言った。

「今日は結婚記念日でしてね。元々は、彼女と一緒に来る予定でした」

 ははーん。どうやら何らかの理由で奥さんが来られなくなったので、その代わりに私が? いや、それなら事前予約を取っているのが大前提になるはず。店員の案内は丁寧ではあったが、予約客に対するそれではなかった。

「ああ、誤解のないように付け加えておきますと、妻は女性で、私の恋愛対象は女性です」

 真顔で説明され、私は少し吹き出した。

「いいんですか僕のような若造で。同性を誘うにしたって、もうちょっと話が分かって、気の利いたことを言える世代の人にしておいた方がよかったのでは」

「初めは一人で来るつもりだったから。ここへもぶらぶら歩いてくるつもりでしたし。でもその途中で知り合いの方を見掛けたら、これは誘えっていう暗示か何かではないかと」

 答える西崎さんも笑っている。私よりもはっきりした笑いだ。彼自身、おかしなことをやってるなあと思っているのかもしれない。

 私は早めに聞いておこうと思った、気になることについて。

「失礼ですが奥さんは……」

 夫婦喧嘩したか、ちょっと熱が出で伏せったという風な返事ならまだいいんだがと念じつつ、返事を待つ。

「昨年の十二月に病を得て亡くなりました」

 ああ、やはり。一番悪い想像の一つが当たっていた。

「それは……とても残念です。ご冥福をお祈りいたします」

 私はこうべを垂れて、見知らぬ死者を悼んだ。二〇一九年での話だが、子供らが時折「ごしゅーしょーさまっ」というようなイントネーションで使っているのを見て以来、「ご愁傷様」はあまり使わなくなったな、なんていうどうでもいいことを頭の片隅で感じた。

「何であなたをお誘いしようと考えたのか、正確な理由は自分自身、分かりませんが……妻は賑やかなことが好きで、おしゃべりはもっと好きだったから、自分もこの店を一人で利用するのは嫌だな、二人の方がいいかなという思いがよぎったのは事実です」

 話を聞きながら、内心、とりあえずほっとしていた。もしも西崎さんが岸先生を選んだ理由として、西崎さんと岸先生二人に共通する思い出があるんだとしたら、私は困ってしまう。仮にそうなったときは、襲撃事件の後遺症で記憶の一部がまだ薄れているという無茶苦茶理論を持ち出すつもりでいた。

「岸先生はまだいい人はおられないんですか。あ、こういう話題を出すとハラスメントと受け取られることもあるそうで、ご不快ならきっぱり言ってください」

「いえ。不快ではないですよ、全然」

 この当時からハラスメントって、セクハラだけにとどまらず、広がりを見せていたっけ。自分は小学生だったせいもあるだろうけど、まるで覚えていない。

「今付き合っている人はいませんが、将来の結婚については心配してないんですよ」

 元の質問に対し、どういう表現を取ろうか決まらない内にそう返していた。

「これは意外ですねえ。その気になれば簡単に相手を見付ける自信があると?」

「いえ、そんな自信はとてもとても……。ばかじゃないかと言われるでしょうけど、運命の相手って本当にいるんですよ」

 西崎さんの感傷に付き合っているのだから、この程度の奇想天外なのろけは許してもらおう。

「いや、ばかにはしません。私にとって妻はまさしくそのような存在でしたから」

 思いも寄らず、賛同された。これは……照れるな。大の大人が二人集まって、何の話をしてるんだか。料理が届けられ始め、西崎さんはワインを、私はウーロン茶を飲んだ。

「妻から見て、私がどういう存在だったのかは分かりかねますがね」

「言われてみれば、私もです」

 無意識に一人称「私」を声に出して使っていたと、直後に気付いた。言い直すのは変だろうし、相手も気に留めていないようなのでスルーした。

「相手の気持ちを聞いてないなあ。聞くのは怖いかも」

「それはもったいない」

 私のおふざけ混じりのぼやきに、西崎さんは目を丸くした。

「そして楽しみでもありますね。ぜひとも聞いて、確認しておくことをおすすめします」

「はあ。そうします」

 料理が進んで、ステーキも粗方おなかに消えた頃、西崎さんがぽつりと言った。

「息子が小さい頃、初めて大トロを食べたときに、残り一口になって言うんです。『時間を戻せたらもっと食べられるのに』って」

「あはは。そういう子は、これまでに担任した中にもいました。このステーキなら、同じことを思う子供が大勢いそうだ」

 時間を戻す、か。何かするためにタイムスリップできるとして、高価で美味しい物をもう一度食べたいからというのは子供らしい。

「『ドラえもん』が好きでそんな無邪気なことを言っていた息子が、高校生ともなると、ころっと様変わりしましてね。『タイムマシンなんてあるもんか』と来た。淋しいもんです」

「確かに淋しいでしょうけど、それは仕方がないというか、成長したとも言えるわけで」

「そうですね……タイムマシンを欲する気持ちは、今では私の方が強いと思います。戻りたい過去がある」


 つづく

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