第184話 か、勘違いされてないよね?

 どうしよう。留守の理由は、恐らくだが六谷の熱がぶり返し、親子ともども病院に向かったのではないか。気になるが、すぐには確かめようがない。携帯端末を持っていないので、この場でこちらから六谷へ電話を掛けることができないのだ。

 それならせめて、ここへ来た用件を済ませておこう。メモを書いてそれと一緒に持って来た物を郵便受けに入れておくか。

 とんだ手間になってしまったが、致し方がない。アパートを出る前に確認の電話を一本入れていれば防げたかもしれないが、こうしてプリント類などとメモを渡せるのだからよしとする。

 タクシーのドアを形だけ軽くノックし、ドアが開いたところで、

「留守でした。今来た道を引き返してもらえますか」

 と告げて乗り込もうとした矢先。

「――そこにおられるのは岸先生では?」

 聞き覚えのある男性の声だった。ただしその声の主が誰だったのかまでは、とっさには思い出せない。

 だから当然、すぐに声の聞こえてきた方向を見やったのだが暗がりがあるばかりで、しかとは見えない。人がいることは分かるのだけれども、シルエットだけ。

「えーっと、すみません。大変失礼ですがどちら様でしょうか」

 もしかしたら岸先生の記憶が反応している可能性もゼロじゃない。誰か児童の保護者だとしたら失礼の極みだが、今はタクシーを待たせている形になっているし、たとえ失礼になろうが率直に聞くしかなかった。

「どちら様とはもったいないお言葉です。私ですよ、西崎です」

 西崎、西崎……あ、用務員さんだ。感じのいい人で声も穏やかなイメージがあるけど、さっき聞こえて来たのは若干しわがれていたような。

「ああ、あなたでしたか。ごめんなさい、すぐに思い出せなくて。この辺りにお住まいで?」

 一言挨拶しただけで別れるのも何なので、差し支えのなさそうなところを尋ねた。西崎さんは近付きながら答える。ようやくその姿がはっきり見ることができた。ノーネクタイだが、なかなかよさそうな品質のジャケットを羽織っているなあと思った。学校内での作業着姿を見慣れているため、意外さはあるが、様になっている。

「住まいはここからもうちょっと離れたところです。用があって、歩きでぼちぼちとね。岸先生こそ、タクシーで何か急用ですか」

「いえ。急用と言えば急用でしたが、空振りに終わりました。今から帰ります」

 説明すると長くなりそうなので、あとは省略し、改めて挨拶をして分かれようと思った。ところが、西崎用務員はすぐ近くまで来て予想外のことを言い出した。

「夕飯がまだでしたら、どこかお店でご一緒しませんか。先生というお仕事が多忙なのは重々承知しておりますが、一時間くらい」

「え……っと。あの、お誘いは嬉しいのですが、あいにくと持ち合わせが……タクシーの料金を引くと残りが心許ないので」

「私が誘うのですから、私が持ちます」

 ただでさえ誘いに困惑しているのに、おごるという意思表明をすかさずされ、戸惑いは大きくなるばかりだ。これまた失礼な話になるけれども、用務員の給料と教師の給料、比べれば教師の方がもらえていると思うのだが。

 そんな考えが顔に出ていたのか、私を見ていた西崎さんは目を細め、「大丈夫ですよ。ちょいと小金が入ったのです。臨時収入ってやつです」と言った。

「だけど……」

「タクシーを待たせちゃ、運転手さんに悪い。ここはもう、このタクシーに乗って店まで移動しろって言うことですよ。さあさあ、乗ったり乗ったり」

「え」

 背中を押された。いささか、いやとても強引に乗るように促される。仕方がない。

「分かりました。付き合いましょう」

「よかった。お店選びは私に任せてくれませんか」

 私はもちろん承知した。


 多分、大衆食堂か中華料理か居酒屋、もしかしたら屋台もあり得るんじゃないかなという予想をしていたが、西崎さんはのチョイスは意外だった。

「やや古めかしいですけど、いい雰囲気のレストランじゃないですか」

 お見それしましたという気持ちを密かに込めつつ、私は感想を述べた。

 西崎さんの指示でタクシーが到着したのは洋風レストランの店先だった。いわゆる大衆的な洋食屋よりは明らかにランクが上に見える。玄関前にはよくある小型の黒板に、本日のおすすめが書かれているのだが、横文字の上に照明が当たっていて読み取れない。私ぐらいの年齢だとちょっと物怖じしそうな店構えと言える。ドレスコードの心配もある。が、西崎さんはノーネクタイのまま、ドアを押し開けて入店。私は急いで付いていく。西崎さんは店のシェフに片手を挙げて、短く挨拶した。

 店内を見渡す。十名ほどでいっぱいになるだろうか。先客は二組四名がいた。いずれも男女の組み合わせで、カップルに見える。そのムードを後押しするかのように、静かな曲調の音楽が流れ、石積み模様の壁には絵画の小品が掛かっていた。

「まずはお酒、どうされます?」

「あ、僕は結構です。仕事が少し残っているので。西崎さんはどうぞ飲んでください」

 支払いを持つ人相手にこんなことを言うのは変かもしれないが、要は私が飲まないからと言って遠慮しないでくださいという意味だ。

「それでは失礼をして、赤ワインを一杯だけ」


 つづく

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